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第一章 月下に結ぶ縁(えにし)

03.闇夜に一人悲しく笑う

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 明らかな困惑に染まる視線が、真っ直ぐ自分へ向けられる。
 その事実は、ただでさえ煩いセラフィーナの心音を、より激しくするばかりだ。
 月明かりに照らされた男の姿を直視するのが辛くなり、思わず俯いた彼女は地面を見つめる。

『お前は……何者なのだ。こんな夜更けに……何をしていた?』

 空耳でも、聞き間違ったわけでもない。男の言葉は、確かに彼女の耳へ届いた。

 時刻は深夜。夜風と時折揺れる木々の音以外、二人の会話を邪魔するものは無い。
 そんな状況が、より強い恐怖となって襲い掛かってくる。

 無意識に肩にかかった鞄の紐を握りしめながら、隠しきれない困惑と恐怖に思わず唇を噛む。
 自分がこの場から逃げ出してしまえば、この人は諦めてくれるだろうか。
 恐怖で身体を小刻みに震わせる彼女の脳裏を過ったのは、短絡的思考だった。

(……難しそう)

 数秒程わずかな希望を見出そうとするが、すぐにそれは浅はかなものと、己の思考を切り捨てる。
 逃げ切れる可能性がゼロではない。
 しかし、もし男が追いかけてきたら、仲間を呼んだら、次々と浮かぶ“もしも”が、彼女の両脚を地面へ縫いつけた。


「つ、月を見ていたんです!」

「……えっ?」

 地面を見つめていた顔を上げ、セラフィーナが一際大きな声をあげる。
 それは、決して優秀とは言い難い頭脳を持つ彼女が、精一杯考えた言い訳だった。

 いきなり顔を上げた女に驚いたのか、男の顔にわずかな戸惑いの色が浮かぶ。

「今日は満月だったから……もっと近くで見たいと思って。木に登って見ていたんですけど、バランスを崩して、それで……」

 必死になって自分なりの言い訳を口にするも、次第に心を不安という名の暗雲が覆い隠していく。
 大きかった声量はどんどん小さくなり、男を見上げていた視線はいつの間にか再び地面を向いていた。

(こんなの、信じるわけないじゃない)

 自分が尊敬するサウルならば、こんな状況でも上手く立ち回っているのかもしれない。

『何やってんだよ、お前は』

 そう思うと、呆れ混じりの笑いを浮かべる先輩の顔が脳裏に浮かび、目頭がジンと熱くなった。

 試験開始早々、己の失態ですべてが終わってしまう。
 自分だけにとどまらず、先輩や養成所の教師、たくさんの人々に迷惑をかけてしまう。

 脳と心の中を駆け巡るのは、いくつもの負の感情だった。
 これから待ちうけているだろう最悪の未来を予想した女の瞳からは、大粒の涙がいくつもこぼれ落ちていく。

「……もう深夜だ。早めに自分の家へ帰った方がいい」

 そんな最中、頭上から聞こえてきた声に驚き、セラフィーナは慌てて顔を上げる。
 彼女の視界に映るのは、闇夜と生い茂る木々の間に消えていく男の後ろ姿だった。





 男が去り、目の前の危機は無くなったと言うのに、セラフィーナは唖然としたまま、その場に座りこみ動こうとしなかった。
 その瞳が見つめるのは、つい先程まで男がたたずんでいた場所。
 何も考えることなど出来ず、真っ白になった思考で、彼女はその一点だけを見つめた。

「……っ」

 そのまま時間は過ぎていき、不意に強風で揺れる草木のざわめきが、意識を現実へ引き戻す。

「あの人は、もう……いない?」

 キョロキョロと辺りを必死に見回すが、視界に入るのは木々ばかり。
 自分以外の人影は見当たらず、気配なども感じられない。

「……っ、び、びっくりした」

 未だ激しく脈打つ心音を感じながら、セラフィーナは一人声を震わせる。
 暑いわけでもないのに喉が渇き、彼女は無意識にゴクリと唾を飲みこんだ。


 長髪の男は、何故セラフィーナの正体を追及せず立ち去ったのだろうと、脳内に大きな疑問がうまれる。
 本当なら、その答えを探したい所だが、男が戻ってくる可能性を考えれば、今すぐこの場を離れた方が得策だ。
 しかし、予想を上回る現実を直視してしまったせいか、混乱した思考はなかなか元に戻らない。
 背中にじっとりとかいた汗が夜風のせいで冷えてしまい、思わず両腕を擦る。

(まずは落ち着いて。これからの事を決めないと……)

 数回深呼吸をくり返し、徐々に落ち着きを取り戻し始めたセラフィーナは、己の肩から下げた鞄を見つめる。

 一年間地上で生活をするにあたり、必要なものを出来る限り詰めこんできたそれは、正直かなりの重さだ。
 試験で使用するための道具、着替え、食糧や消耗品などが入った鞄の膨らみ具合が物語っている。

 途中で足りなくなったものは、人間に姿を変え、地上で暮らす人々に紛れ店を探し購入する。
 そのために地上で使える金貨や紙幣も、彼女達には支給されているのだ。

 人間として生活しながら、試験のために情報収集することも可能だ。過去、多くの先輩達がこの方法で試験を突破していると聞いている。

 様々な可能性を考え、しばし自身の今後について悩んだものの、頷けるプランは見つからない。

 割りふられた階段と同じで、受験者には、それぞれ割りふられた地域がある。
 セラフィーナの場合は、今いるピスティナ国が試験場所というわけだ。
 一年という試験期間を守り、今いる国から出ないこと。この二つは試験を受ける上での絶対条件だった。

(人間に変身するか、しないか……した方が、やっぱり都合がいいのかな)

 細かい規定の無い試験故に、これからどう試験と向き合うかを決めなければならない。
 選択の一つ一つが重要になってくるため、慎重に的確な判断をしていきたい所だ。

『ぶっちゃけ試験ってのは名ばかりで、生徒に自信をつけさせるための通過儀礼みたいなもんだ。余程のアホじゃない限り、不合格なんて事にはならねぇよ』

 出発前に聞いたサウルの言葉が脳裏を過ぎる。
 しかし、その言葉を最初から信じ込み、気楽な気持ちで試験に臨める程、セラフィーナは楽天的では無かった。

「あー、もう! 頭の中グチャグチャになってきた。 はぁ……もういい、今日はどこかで寝よう。朝になったらじっくり考えよう」

 静まり返った空気を切り裂くように、人気の無い深夜の森に、天使見習いの大声が響き渡る。
 その後、パンパンと己の頬を叩いて思考を切り替えた彼女は、両足に力を入れその場に立ち上がった。

 こんな真夜中に活動するなど初めての経験だ。
 そのためか、先程から身体が妙に重く、少し息苦しい。試験開始早々体調を崩すなんて最悪な気分である。

 休めそうな場所は近くに無いかと確認するが、視界に入るのは相変わらず木々ばかり。
 先が見通せぬ不安にため息を吐きながら、セラフィーナはその場を離れようと、足を一歩前へ踏み出そうとする。

「はぁ……はぁ……うっ」

 しかし、彼女がそこを動くことは無かった。
 これまでずっと感じていた鼓動が一際大きくなるのを感じたセラフィーナは、あまりの苦しさに胸を押えその場にうずくまる。

「な、に……これ……はぁ……う、く」

 息苦しさは悪化していき、全身から冷や汗が滲む。
 それに加え、表現しがたい強烈な痛みが全身を駆けめぐる。一番強く痛むのは胸、いや心臓だ。

「あぁ……っ、は……う、かはっ」

 鞄の紐を肩から外した彼女は、まったく治まらない苦痛に対処出来ず、ただ地面の上をのたうちまわる。

(何で、何でこんな……)

 少しでも新鮮な空気を吸いたいと、仰向けになり暗闇を見つめる。
 これまで大病など経験の無い身体の明らかな変化に、心の中で戸惑いと恐怖が膨らんでいくのがわかった。

「……ぁ」

 どうすることも出来ずさ迷うだけだった瞳が、不意にとらえたのは、自分を見下ろすように空へ浮かぶ月。

『万が一にも、耐性の無いうちにキスやセックスをした場合……』

 セラフィーナは、自身の口元に自嘲的な笑みを浮かべたと思えば、全身を襲う苦痛に耐えきれずその意識を手放した。





 脳裏に浮かんだのは養成所の授業風景。
 そこでは生徒達を前にした教師が、口を酸っぱくし何度も同じ言葉をくり返していた。

『万が一にも、耐性の無いうちにキスやセックスをした場合……相手とあなた方には特別な結びつきが出来ます。あなた達は、決してその相手から離れることは出来ません。一定の距離なら大丈夫ですが、それ以上は危険です。離れてしまった場合、受け身となった方は特に問題ありません。これは、過去の事例から女性が多いようです。一方逆の立場の方は、死にたくなるような苦痛が襲いかかると言われています。いいですか……絶対にそんな事の無いよう頼みますよ』
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