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永禄十年六月十日の条

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「殿下、お体の具合はいかがですか?」
「おお、施楽院か。今日は、幾分マシなようじゃ。」
「それは、重畳でございます。」
「いやいや、幾分マシとはいえ、もはや自由に動き回るまでには回復せんじゃろう…。」
「滅相もない。殿下には、まだまだなすべきことがおありです。しっかり、養生していただかなくてはなりませぬ。」
「まだ余に何かをなさしめよと申すか…。もちろん、気がかりは秀頼の行く末じゃ。秀頼のために出来ることがあれば、何でもするわい。じゃが、最早、打つ手も無い…。」
「そのようなことはありませぬ。殿下がおわすだけで、十分ではありませぬか!?」
「それが叶わぬから、打つ手が無いというのじゃ。位人臣を極めたといっても、寿命ばかりは如何ともできぬ…。」
「殿下、いかがでございましょう。某に、殿下のこれまでの道のりをお話願えませぬか?これまでの輝かしい武勲をお話いただくことで、きっと、その時御身に宿されたお力が漲ってくることと存じます。」
「都合のいい話じゃな。じゃが、思い出話を語るというのも、一興かのう。戯れに語ってみるかのう。」
「是非とも、お聞かせください。」
「永禄十年六月十日、余は佐々平太と兼松又四郎に対して三十貫文の知行を宛がった。もっとも、この時は、余は織田家の奉行衆の一人に過ぎず、他の奉行衆と連署で行ったに過ぎない。じゃが、余にとっては、これは大きなことであった。」
「知行の宛行ですか…。恐れながら申し上げますと、拙者はもっと華々しいお話を聞かせ下さるものと思っていました。たとえば、墨俣一夜城のご武勲など。」
「はっはっは…。墨俣か…。実を申せば、墨俣の話は、後に話の尾ひれがついたのであって、余の手柄ではなかったのだ。」
「何と!?」
「確かに、余は墨俣の戦には参陣した。じゃが、考えてもみよ。墨俣の戦の頃、余は三十路にも届かぬ身じゃ。いくら右府様(織田信長)の覚え目出度いとはいえ、一介の足軽に毛が生えた程度の余が、墨俣に砦をつくれるわけがないであろう。もちろん、墨俣の戦において、余もそれなりの働きはしたつもりじゃ。右府様は、必ずしも槍働きの目覚ましい侍ばかり目にかけるわけではない。もちろん、右府様は並々ならぬ武術をお持ちじゃ。それゆえ、右府様が並みの武将であれば、槍働きの目覚ましいものばかり目に懸けるであろう。ところが、右府様は目の付け所が違う。だから、余のように武術のたしなみが無い男であっても、他に秀でるものがあれば、右府様は引き立ててくれたのだ。」
「なるほど。ご無礼を承知で申し上げれば、殿下は槍一本で登り詰めたのではありませなんだ。殿下といえば、戦に臨んでは調略を駆使して敵を追い詰め、平時においては交渉で事を有利に運んでこられました。墨俣の戦においても、殿下は、調略に勤しんでおられたわけですな。」
「そのとおりじゃ。正面切って戦を仕掛けて敵を打ち破るなど、下の下の策じゃ。そもそも、墨俣に織田方の砦を築けた時点で、勝負は半分決まったようなものじゃ。敵に調略を仕掛け、内応者を募り、墨俣に砦を築くための手筈を整える。墨俣の戦での余の戦功といえば、これじゃ。そして、右府様はこういった働きはよく覚えておいてくださる。こういった働きの積み重ねが、織田家中における奉行への道を切り拓いたのであろうな。」
「これは、実に興味深いお話でございました。お話を伺うにつれ、やはり殿下は並みの武将とは格が違うことを実感いたしました。そうでは、ありませぬか。もちろん、殿下をお引き立てになられた右府様も並々ならぬお方です。さりながら、そのような右府様の物の見方を感じ取り、多くの武将が血道を上げる槍働きを敢えてせずに、調略や交渉に懸けた殿下こそ、やはり空前絶後のお方に他なりませぬ。もっともっと、お話をお聞かせください。」
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