克死院

三石成

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第二章 白衣の天使の巣

四 院内事故

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「ゆっ……」

 上げかけた自分の声が耳に届いて、続くはずだった言葉を俺は慌てて飲み込んだ。俺がいるのは、克死院内のナースセンターだ。相変わらず電気はついていないものの、窓から朝日が差し込んでおり、懐中電灯の光に頼っていた昨日よりも随分明るい。

 隣のマットレスを見ると、毛布にくるまって寝ているゆめちゃんがいた。スゥスゥと規則正しい寝息を漏らし、穏やかであどけない寝顔をしている。彼女を見ていると靄の中の光景を思いだし、鼻の奥がツンと熱くなった。

 一度克死状態になったとはいえ、俺はただの一般人だ。予知夢など見たことがないし、特殊能力は持っていない。いま見ていた靄の中の出来事が、本当にあった過去であるという保証はなかった。むしろ、寝る前に抱いていた疑問をもとに、なんとなく辻褄が合うような夢を仕立て上げただけの可能性が高い。それでも、靄の中の光景はあまりにもリアルすぎて、ただの夢とは思えなかった。

 あれはなんだったのかと考え込みかけたとき、俺はこの場に足りないものを思い出す。ナースセンター内を見回してみても、ゆめちゃんと共に寝ていたはずの聖の姿がない。どこにも行かないと、昨日聖はゆめちゃんと約束していたはずだ。それなのに、いったいどこへ行ったのだろうか。

 物音を立てないようにゆっくりと立ち上がり、ナースセンター内を歩いて見て回る。と、廊下につながるものとは違うもう一つのドアから水音が聞こえた。警戒を強めながらも、音を頼りにドアを開く。

 ドアの向こうは狭い小部屋になっているが、窓がないため暗闇に沈んでいて、中の様子はわかりにくい。水音は、正面に見える引き戸の向こう側から響いてくるようだった。ピチャピチャという不気味な水音が、昨日病室で見た嫌な記憶を呼び覚ます。

 俺は、浅く息を漏らした。意を決して引き戸の取手に手をかけ、開く。

「うわっ」

 と、中から声がした。

 そこには、シャワーを浴びている聖がいた。暗がりの中だが、俺が開けたドアから僅かに光が差し込んで、裸の聖とばっちり視線が合う。

 シャワーと言っても、シャワーヘッドから出てきているのは水だ。低い気温の中で水を盛大に浴びるのは寒いからか、出す水の量は絞られている。故に、聞こえてくる水音がシャワーを浴びている音に聞こえなかったのだ。

「アンタさ。開ける前に声かけろよ」

 呆れたような声。聖は咄嗟の反応でも裸体を隠そうとはせず、長めの前髪を引っ張るようにして、包帯を外している右目を庇っていた。

「ご、ごめん。まさかここにシャワールームがあるとは思わなくて」

 彼のプライバシーを尊重すべく、俺はすぐに引き戸を閉める。だが、彼の右目にあたる眼窩が、前頭骨ごと潰れ深く窪んでいる様は見えてしまった。そこにはもう、右目の眼球は存在していなかった。

 俺は引き戸の外側で、壁に背をつける。だいぶこの暗がりに慣れてきた視線を下ろすと、聖の服や包帯が床の端に落ちていた。引き戸を開けるより先に、これに気がつくべきだった。シャワーシーンを見てしまったとはいえ、相手は同性だ。本来であればそう気にしなくても良いはずなのに、妙な動揺がある。本来であれば聖は生きている人間ではないという事実を、改めて突きつけられたかのようで。

 と、引き戸の向こうから聖が声をかけてきた。まだ水音は続いている。

「見て気持ちのいいもんじゃねぇだろ。悪かったな」

「いやっ、謝るのは俺のほうだよ。本当、ごめん。その……いまでも痛むのか」

「ああ。見た目ほどは悪かねぇけどな。ゆめが言うには、再会したときの方がもっと酷かったらしい。克死状態の間、日毎に治っていったんだとさ」

「そうなのか。ゆめちゃんが介抱してくれてたんだよな? そんなに高度な治療ができていたとは、思えないんだが」

「仕組みはよくわからねぇけど、死んではいないわけだから、普通の人間の傷が自然と治るように治るんじゃねぇのか。だから俺たちは、克死状態からも脱したんだろうと思ってる。体が、精神が耐えられるくらいにまで回復したとかさ」

「なるほど」

 聖の言葉には納得できるものがある。

 俺は、おそらく過労による突発的な心臓発作で呼吸困難になり、克死状態になった。通常であればここで死んでいる。だが、俺の体には大きな外傷があるわけではない。だからこそ、他の患者と比べて克死状態から早く復帰できたとも考えられる。傷や克死状態だった期間を比較すると、聖より俺のほうが随分と回復が遅く感じるが、それは個人差というものだろうか。

 なんとなくその場でぼうっとしていると、再度聖が声をかけてきた。

「そういえば、昨日襲ってきた黒焦げだったやつ。あいつって音に反応してたんだよな? どうしてわかったんだ」

「目の前に俺がいたのに、途中で方向転換して鍵を落とした聖のほうへ向かって行ったから気づいたんだ。多分、目は両目とも焼けて……もうなかったから、見えてなかったんだ。耳だけは残ってて、聞こえる音を頼りに殴りかかってきた感じだと思う。危険な克死患者をやり過ごすには、そういう特徴を見極めていくしかないのかもしれない」

 聖に向かって焼死体の目がなくなっていたと言うのは少しだけ勇気が必要だったが、聖は気にしている様子はない。ふぅんと、感心しているような声を出していた。引き戸の向こうで、ずっと響いていた水音が止まる。

「出るから、部屋に戻っててくれ。アンタもシャワー浴びるか? とんでもない冷水だけどな」

「いや、俺は大丈夫……俺、臭くないよな?」

「ははは。こんな、そこらじゅうに悪臭が充満してるような場所で気にするようなことじゃねぇよ。じゃあ、さっそく地下目指して出発しようぜ。すぐに支度するから、さきにゆめのこと起こしてやってくれ」

「了解」

 俺は、言われるままにゆめちゃんの元へと戻った。


 簡単に支度を済ませ、出発の準備を整える。

「アンタのほうがデカいから、いざとなったらゆめを抱えて逃げるのは任せてもいいか。克死患者の対処はおれに任せろ」

 聖の言葉に頷く。

「わかった。ゆめちゃん、俺がしゃがんでこうやったら、すぐに俺の背中に負ぶさってくれるくれるかな? 話せないときもあるから。聖も、危険な克死患者に見つからないように、会話は最小限にしよう」

 背中を見せる形でしゃがみ、両手を後ろに伸ばす仕草を俺がしてみせると、ゆめちゃんは神妙な表情でコクリと頷いた。聖も「了解」と短く言う。

「まずはこの階を抜け出すのが第一関門だ。いくぞ」

 聖の言葉を合図に、俺はナースセンターのドアを開いた。視線を廊下の左右に走らせ無人であることを確認すると、振り向いて二人にアイコンタクトを送り、外へと出る。俺を先頭に、ゆめちゃんを間に挟んで聖が後からついてくる。

 ナースセンターの外に出ると、空気が随分と変わる気がした。無意識に体をこわばらせながら、昨日も向かった階段の方へ向かう。静かに進んでいると、何事もなく目前に階段が見えてきた。

 緊張を緩めかけたそのとき、足の裏に覚えのある振動が伝わってきた。慌てて振り向くと、走って近づいてくる巨漢の姿が見えた。異様なほどに肥大化した脂肪が、彼の体の動きに合わせて上下する。何度見ても醜悪な姿だ。目を見開いた俺の様子に、聖もすぐさま巨漢の存在に気がついた。アイコンタクトを交わし、階段へ向かうことで同意する。

 俺がしゃがみこむと、ゆめちゃんは打ち合わせどおり背に負ぶさってきた。彼女の体は想像以上に軽く、動くのに支障はない。ゆめちゃんの足を支えて立ち上がり、俺はすぐさま階段を下っていく。巨漢は、階段を使えないとわかっている。階を移動さえすれば安全だと考えながら、四階に降りたときだ。

 ものすごい音を立てて階段を転がり、巨漢が目の前にまで落ちてきた。

「マジかよ……」

 つい漏れてしまったという様子で、後をついてきた聖が一言呟く。

 俺たちは一瞬体を硬直させたが、巨漢が起き上がる様子を見てすぐさま我に返ると、再度階段を駆け降りていく。三階、二階と駆け抜ける。なおも巨漢が追いかけてきていることは、振り向かずとも振動と音だけでわかった。

 一階まで辿り着いたところで、俺は唐突に足を止める。地下へつながる階段から、新たな人影が現れたからだ。

 前からのんびりと歩いてやってきたのは、医師の白衣を着た女性だった。一見、克死院のスタッフが残っていたのかと思うほど、まともな姿形をしている。だが、よく見れば表情がおかしい。

 彼女の血走った目は見開かれ、いっさいの瞬きをしない。加えて、叫び続けているかのように、口も限界まで開いている。なにか、とんでもなくおぞましいものを目撃し、驚愕の表情のまま無理やり顔面を固められてしまったかのようだ。

「あ。あなたは、どちら様ですか」

 なんとなく常識的な反応を装って問いかけてしまったのは、俺の意気地や覚悟のなさの現れだろう。女医に目立った外傷はないが、まともな状態ではないことは一目瞭然だったからだ。彼女は俺のかけた言葉を意に介すことなく、歩調も変えずにこちらへと向かってくる。背後からは変わらず、巨漢が近づいてくる振動が響いている。完全に前後を挟まれた。

「おい、悠長に話しかけてる場合か。あいつも絶対ヤベェぞ。とっとと避けて先に行こう」

 聖の小声の促しに頷くと、可能な限り距離をあけつつ、俺は女医の横を通り抜けようとした。

 その瞬間。

「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 女医の口から、この世のものとは思えない絶叫が響く。彼女は大きく踏み込んで突然距離を詰めると、俺めがけて腕を振り翳した。このときになってはじめて、俺は彼女の手に握られていたものに気がつく。鋭い輝きを放つ、小さなメスである。

 咄嗟に息を詰め、のけぞるようにして避ける。メスの刃は、俺の喉元のあたりを素通りしていった。ギリギリ回避には成功したが、重心を後ろにしたことで、バランスを崩しかける。女医は腕を振り回すようにして、再度、姿勢を崩した俺を狙う。

「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 絶叫。

 そのままであれば、俺の喉が鋭いメスに切り裂かれることは確実だった。しかし。刃が肌に触れる一瞬前に、メスを握った女医の腕に聖が組み付いた。その弾みで刃が聖の頬を掠め、彼の白い肌に赤い血の線が走る。

「おにいちゃん!」

 ゆめちゃんが悲鳴のような声をあげた。

「陸玖、先に行け!」

「でも、聖ひとりじゃ……」

 聖は全力で女医を押しとどめようとしているが、女医の腕に体を半ば振り回されている。男女の体格差があるにも関わらず、聖よりも女医の力のほうが勝っているように見えた。

「いいから、ゆめを守れ。さっきそう決めただろ!」

 聖の言葉に、俺は判断を迫られる。俺の背にはゆめちゃんがいる。無理はできない。しかし、聖になにか策があるとは思えない。彼はただ、身を挺してゆめちゃんから危険を遠ざけようとしているだけだ。このまま聖を置いて逃げるということは、聖を見捨てるということになる。

 と、体に例の振動を感じた。

「聖、今だ手を離せ!」

 叫ぶと同時に、聖のジャケットの首根っこを背後からつかむ。そのまま、渾身の力で引き寄せた。

 階段の上から巨漢が転がり落ちてくる。巨漢の体はそのまま女医を巻き込み、押しつぶすようにして床に倒れた。落下の衝撃を物語るように、硬く握り締められていた女医の手からメスがこぼれ落ちた。

 俺もまた、引き寄せた聖の体を受け止めきれずに尻餅をつく。ただ、背負っているゆめちゃんを潰さないようにと、完全に倒れこむ寸前で堪えた。硬い床に尾てい骨をしこたま打ち付けて、体にジーンという痺れが走る。すぐさま逃げ出さねばと思うものの、体が思うように動かない。

「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 再度、女医の絹を裂くような悲鳴が響いた。

 俺も、俺の前にいる聖も同時に身構える。だがそれから先の光景は、あまりにも予想外で、そして衝撃的なものだった。

「ゆめ、見るな。目ぇつぶっておけ!」

 聖の言葉に、ゆめちゃんが体をこわばらせる様子が、背中越しの感触で伝わってくる。

 俺と聖の目の前で、それは行われた。自らの肉体で押し潰している女医の服を引き剥がすと、赤褐色に濁った涎を垂らしながら、女医の体を巨漢が喰いはじめたのだ。

 露わにした腹部に直接口をつけ、白い肌を食い破る。すぐに赤い鮮血が溢れ出した。痛みによるものか、ただの反射なのか、女医は両手足を動かしもがいている。巨漢がそのことを気にする様子はないが、この光景を見ている者にとっては『人間に捕食されている人間がまだ生きている』という事実を、突きつけられているようであった。

 昨日も目の当たりにしたものだとはいえ、震えるような吐き気を催した。手の指先まで冷たくなっていく。

 先に我に返った聖が、俺の腕を引いた。視線を合わせて頷き合うと、ゆめちゃんを背負ったまま立ち上がる。巨漢は、追いかけっこの末に手に入れた食料に夢中になっていた。俺たちはそんな巨漢の注意をひかないように気をつけながら、地下へと繋がる階段を降っていく。

 一階までは窓から差し込む光で明るさが保たれていたが、他の階よりも段数の多い階段を駆け降りて辿りついた地下は、完全な闇に包まれている。

「とにかく早く奥に行こう。姿が見えなければ、デブも追ってこないはずだ」

 携帯していた懐中電灯をつけ、小声で聖が言う。俺はその場にしゃがむと、背負っていたゆめちゃんを下ろした。代わりに、安全のため手を繋いで歩くことにする。三人で身を寄せ合うようにして廊下を進む。

 懐中電灯の光は、周囲の様子をぼんやりと浮かび上がらせながら、廊下の床を照らしていた。ブロックを進むごとに光の輪の端に見えるドアと掲示された表記を確認して、地下にある施設の位置関係を確認していく。

 と、その中の一つに『災害時備蓄倉庫』という表記が現れた。

「聖、ここだ」

 ナースセンターから持ってきたマスターキーで解錠し、重い鉄のドアを押し開けて中へと入る。克死院内はもともと冷えきっているが、倉庫の中はさらに二、三度ほど温度が低く感じた。

 聖が倉庫のあちこちへ懐中電灯の光を向ける。倉庫の名にふさわしい広い空間に、天井まで届くような棚が、一定間隔で整然と並べられている。棚のひとつ一つには、そこになにが収められているかの表記がされている。

「まるで宝の山だな。陸玖、ゆめ、ここには上着があるみたいだ。それにあのポリタンク、すげぇ量だな。中には何が入ってんだ」

「待て、あそこに懐中電灯がある。まずは一人ずつ光源を確保しよう」

 そうして、俺たちは手分けをして必要な物資を集め、新たな拠点を作りはじめたのだった。
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