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第三章 地下の惨劇
一 火葬
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少々カビ臭いものの、倉庫の中は清涼な空気で満ちている。克死院に充満する悪臭も、ここまでは入り込んできていないようだ。さらに、三人ではあり余すほどの潤沢な物資のおかげで、倉庫内には快適な拠点ができた。
聖はメスで切られた頬の傷に絆創膏を貼り、俺とゆめちゃんは一般的なパーカーを得て、極寒の中で入院着という布一枚の格好からは卒業する。
物資の中で一際目を引いていた大量のポリタンクは緑色で、側面には軽油と書かれていた。なんの用途に使うために置かれているものなのかはわからないが、当面は燃料にも困らなさそうだ。見つけた膨大な非常食も、ナースセンターにあったものよりバリエーション自体が豊富だ。
俺たちはある程度のところで物資の収集作業をきりあげると、ひとまずは食事を摂って落ち着くことにする。それぞれに好きな非常食を選んだ結果、俺はきのこの炊き込みご飯に味噌汁、聖はカレー、ゆめちゃんは白米と肉じゃがというメニューになった。
聖は発見したカセットコンロにガスボンベをセットして、ペットボトルの水を注いだ鍋を火にかけはじめる。その間、俺は集めた物資の整理をしていたが、小さな歌声が聞こえてくることに気がついた。
そちらへ視線を向けると、パウチを開けて食事の準備をしながら、ゆめちゃんがハミングをしていた。表情は変わらないが、その歌が優しくも明るい曲調であることから、彼女の精神状態が良いことは察せられる。
「ゆめちゃん、なんだか楽しそうだね」
声をかけると、ゆめちゃんはハッとしたように俺を見てから、軽く俯く。
「ごめんなさい」
「いや、なにも謝る必要はないよ。ただ、ゆめちゃんが楽しそうで、よかったなと思っただけ。物資の中から、欲しかったものでも見つけた?」
物資が手に入ったとはいえ、克死院の中に閉じ込められていることは変わりなく、ランタン型のライトを点灯させていても倉庫の中は暗い。そのような中で気分が上昇する理由といえば、俺にはその程度しか思いつかなかった。
ゆめちゃんは、俺からの問いかけにおずおずと首を振る。一瞬の沈黙の後で、ゆっくりと口を開く。
「三人で一緒にごはんを食べられるのが、嬉しくて」
その言葉に、昨日の靄の中で見た光景を思い出してハッとした。自分を除いた家族が楽しそうにリビングで食事をしているとき、彼女は浴室で独り、聖からもらったラーメンを食べて泣いていた。
「歌っていたのは、なんていう曲?」
胸に差し込む痛みのようなものを堪えながら平静を装って問うと、ゆめちゃんは小さく首を横に振る。曲名はわからないということだ。
「家の近くで、ピアノを弾いている人が、いて。たまたま聞いてて、おぼえただけ」
「そうか。そうやってタイトルも知らずに曲を覚えるのは、なんだかロマンティックだね。ゆめちゃんの声、とても綺麗だから、また聞かせてほしいな」
ゆめちゃんはどこか恥ずかしそうに、また顔を俯かせる。と、冗談めかした口調で聖が口を挟んできた。
「アンタも好きなときに歌っていいんだぜ。もしかしたら、今後おれたちが聞ける曲は、自分たちの歌声だけになるかもしれねぇからな」
その口ぶりには、聖もまたゆめちゃんと同様に、この場所で腰を落ち着けたような印象がある。極限状態において食料に余裕があるということは、精神の安定に一番の効果を発揮するものなのかもしない。
「そう言う聖も、いつでも歌って構わないんだぞ?」
「俺のはそう安くねぇからなぁ」
「そんなに上手いのかよ」
「俺の歌声聞いて、惚れない女はいねぇんだから。地元ののど自慢大会では幼稚園生から老婆にまでモテモテよ」
「嘘だって明らかにわかる嘘をつくな」
聖と軽口を叩き合いながら、物資の中から出したアルミの保温シートを広げた。性能を確かめるように軽く手を当ててみると、ただの薄いアルミであるにもかかわらず暖かさを感じた。シートの効果を感じられたので、ゆめちゃんの肩からかけて小さな体を包むようにする。
「ありがとう。すごくあったかい」
ゆめちゃんからの言葉に俺は微笑みで応える。
「さ、湯が沸いたぞ」
聖の声かけに促され、各々選んだパウチの中に沸かした湯を注ぐ。数分待ってパウチの口を開けると、ふっくらとした米は美味しそうに湯気を立てていた。
「いただきます」
暖かい味噌汁を飲み下すと、ほうっと息が漏れる。冷え切った体の中を、味噌汁が臓腑を温めながら通っていく。じんわりとした心地よい熱が、胃から身体中に染みていくようだ。
「あー……あったかい飯久しぶりだ。いっそ泣きそうだぜ」
聖はしみじみと呟く。口調的には冗談めかしてはいるが、その瞳には実際に僅かに光るものがあった。その隣で、ゆめちゃんも真剣な表情でコクコクと頷く。俺が目覚めたのは昨日だが、二人は、もっと前からこの克死院でサバイバル生活を強いられていたのだ。
いまの状態では今日の日付さえもわからないが、聖が一月一五日に克死院へ入ったということを考えると、彼が回復する期間が必要だった上に、一週間前に目覚めているのだから、少なくとも二月にはなっているだろうか。俺が克死状態になって記憶がない間に、もう二ヶ月間。そう思うと妙におかしい。自然と小さく笑い声が漏れた。
聖が顔を上げる。
「どうかしたか?」
「いや、こうやって社会のサイクルから外れてみると。あのときの俺はいったい、なにをそんなに必死になっていたんだろうな、と思って」
「克死院に入る前のことか? アンタはどんな仕事をしてたんだ」
「広告の制作会社にいて、下っ端のディレクターをしていたんだ。あ、と言っても、俺自身は下っ端ディレクターだったけど、大手広告代理店の下請けをやっていたから、手掛けていた案件は、大きなものが多かったんだぞ」
なんとなく、流れで自慢するようなことを口にしてしまった。あまりにも器の小さい己を自覚すると妙に気恥ずかしさを覚えて、咳払いを一つ。話を進める。
「あのときの俺にとっては、スケジュールを守ることが絶対の使命だった。もちろん、小さなものであれば交渉できるものもある。でも、クライアントの大企業が年末ローンチって言って、上流工程の奴らが同意していたら、それは確定事項だ。だから俺は、一番コストの払いやすい自分を犠牲にして、自分にしかできないって自分を過大評価して、無理をし続けていたんだ。スケジュール通りにいかないと、世界が終わるような気さえしていた」
仕事から距離を置いた状況で改めて口に出して話していると、そのバカらしさが身に染みてわかる。
「あのとき、俺が一ヶ月も会社に泊まり込んでやってた案件は、どうなったんだろうな。会社にいた他の誰かが、俺の代わりに犠牲になったのか、はたまた、確定事項だったはずのものがあっさり変わったのか。どっちにしろ、俺がやらなくたって、社会はなにかがなんとかなっていく。改めて考えてみれば、いくら大企業だって言ったって、いち会社の広告が一つ世に出るのが遅れたところで、世界にはなんら影響がない。あのときは、そんな当たり前のことすら見えていなかった」
「スケジュールに遅れても死人はでないが、間に合わそうとして死人がでたってことか」
聖は口角を上げて、俺を指差した。この世界のルールが変わっていなければ、俺は、たしかにあのときに死んでいた。彼の言葉がもっともすぎて、笑いながら頷く。
冷静になってみれば、特にやりがいを感じていたわけでもない、好きでもない仕事に命をかけていただなんて、本当に愚かだ。バカバカしすぎて、漏れた笑い声が低くなる。そのまま自己嫌悪に陥りそうになったとき、聖が呟いた。
「過労死するまで働くなんて、おれには想像もつかねぇし、やっぱり改めてバカだとは思うけどさ。そこまで自分を犠牲にできるくらいに責任感があるアンタのことは、素直にすげぇと思うよ。おれだったら、絶対に途中で全部放り投げて逃げ出すもんな」
「それが賢い判断だろう」
俺の言葉は謙遜でもなんでもなく本心だった。しかし、聖はスプーンを口に咥え、うーんと小さく唸る。
「おれさ、高校中退してんだ。母さんはシングルマザーだけど、必死に働いて、俺のこと高校まで行かせてくれたのにさ」
「どうして中退することになったんだ?」
「母さんは学校に行かせたがったんだけどさ。あのときは、俺自身が学校とか勉強することとかに意味を見出せなかったんだよな。高校に入ったらバイトもできるようになってたし、学校に行く時間があったら、その分バイトしたほうが金になるって思っちゃってさ。いや、ただ単に、勉強することが好きじゃなかったから、それから逃げたかっただけなのかもしれねぇけど」
聖の言葉は独白めいてくる。俺も口を挟まず、ただ聞いていた。
「高校中退して、バイトにだけ専念してたけど。バイト先で喧嘩してクビになって、別のところで働き出して、適当やってクビになって、また別のところ行って、叱られて嫌になって辞めて、みたいなこと繰り返してたら、どこにも居場所がなくなった。
一八歳になって、ちゃんと働きたいって思ったときになってようやく、なんで母さんが俺を高校に行かせたがったのかが、身に染みてわかったよな。もしおれの人生がまだ続いてたら、きっと歳とっていくにつれて、もっと辛くなってたんだろうな」
まるで、もう人生が終わったかのような口ぶりだ。
「それで、最近はデリバリーの仕事をしていたのか」
「そうそう。他に選択肢なくてやってたことではあるんだけど、デリバリーは結構好きだったな。バイク走らせてるのも好きだったし、誰かと共同作業とかしなくていいだろ。スマホに来る通知のまま物を受け取って、渡しての繰り返しだけでさ。
でも、おれがいなくなったところで、困るやつは一人もいない。今ここにいても、誰が外で待ってるとか、悲しんでるって気もしねぇんだ。アンタがいなくなって、きっとアンタの会社のヤツらは大変だったと思うけどな」
「聖の母親は、聖が帰ってくるのを待っているだろう。きっとすごく悲しんだだろうな」
当然のことだと思い込んで言葉を返したが、聖はあっけらかんと笑った。
「それはないと思うぜ。母さんさ、おれが一八歳になったときに再婚したんだよな。相手の連れ子で、まだ六歳の息子がいてさ。そっちの世話で手一杯。ごく普通の家族として幸せそうだったし、おれはそのときに家を出たから、それ以来会ったのなんて、数えるほどだし」
ゆめちゃんの体が、ピクリと動いた。ゆめちゃんの家も、再婚の家庭だったのだろうか。今度はうまく返す言葉も思いつかなくなって、俺はただ暖かい食事を食べ進める。
聖の言葉をきっかけに、では、俺はどうだろうかと想いを馳せる。克死院の外に、俺を待っていたり、俺がいなくなって悲しんでいたりする人間が誰かいるだろうか。
俺がいなくなって、たしかに会社や取引先で困った人間は生まれただろう。だが、それもきっとすぐに誰かがなんとかしたに決まっている。途中で倒れた迷惑な男がいたくらいの認識で忘れ去られているはずだ。
母親とはずっとだが、このところは父親とも疎遠だった。一瞬は悲しんでくれたかもしれないが、父親が悲しみを引きずっている所は想像もできなかった。当然のように恋人はいなかったし、学生時代はあれだけいた友人たちとも、このところの社畜生活で完全に断絶状態だ。結局いくら考えてみても、自分のことを待っていそうな人間が、一人たりとも浮かんでこなかった。
非常食の一食分は、そう量があるわけではない。パウチはすぐに空になってしまった。しかし、もう一食分を追加で食べてしまおうという気にはならなかった。搬入口に行けばどうにかなるのではないかという解決策は見えているが、外に出られるという保証はないのだ。
それに、なぜだか俺は、もう少しここにいても良いのではないかという気持ちになっていた。理由は、この三人だけが存在する世界が、妙に居心地の良いものだったからだろうか。非常食は、三人で節約して食べていけば、困ることなく数年はここに滞在できるくらいの量がある。
聖とゆめちゃんが俺と同じような考えを持っているのかどうかはわからないが、空になったパウチを捨てても、誰もその場から動こうとはしなかった。
「陸玖。階段の途中で会った克死状態の女について、どう思う」
静かにランタンを囲んだまま、聖が問いかけてくる。
「彼女か……この地下から来たよな。地下の安全を確保する面でも、彼女が地下のどこから来たのかは気になっている。道中、他の克死患者の姿はなかったから、ある程度は安心しているんだが。そもそも、あの格好をしてるってことは患者じゃなくて、克死院の医者だったんだろうな」
「ああ、おれも同感だ。ゆめが言ってた、院内事故で克死状態になったヤツなんだろう、とは思ったんだが」
聖は困惑の表情を浮かべ、言葉を途切れさせる。彼の表情の理由は、俺にも理解できた。
「そもそも、彼女はどうして克死状態になったのか、だろ?」
指摘すると、聖は大きく頷く。
「あくまで表面的に見ただけだが、傷みたいなものは見えなかったよな。院内事故だったら病気でっていうのはあり得ねぇし、危険な克死患者にやられたんなら、わかりやすい怪我を負ったんだと思うんだよ。まあ、あの女が克死状態になった理由がわかったところで、何があるわけじゃねぇんだけどさ」
「その理由が判明するかはわからないが、他の場所も調べに行こうか。地下にはリネン室もあるはずだから、ここで手に入らないものも入手できるかも。非常用は見つけたが、普通のトイレなんかの場所や安全も把握したいし」
「そうだな。探索はおれとアンタの二人で行きてぇんだが、どう思う? この倉庫内が安全なことは、さっき物を集めてきてる段階でわかったし」
「俺も同意見だ。いけそうなら、早速出ようか」
聖との会話がまとまったところで、俺はゆめちゃんを見た。
「いま話していたとおり、俺たちは他の場所の様子を確認してこようと思うんだ。ゆめちゃんは、ここで待っていてくれるかな?」
それまで大人しく俺たちの会話を聞いていたゆめちゃんは、大きな瞳で俺の顔を見てから、コクリと頷いた。
「わかった。待ってる」
返事を聞いてから、聖は彼女の頭にポンと掌を乗せる。
「すぐに帰ってくるから、絶対に一人で倉庫から出るなよ。ここは安全だと思うが、もし万が一危ないことがあったら、全力で叫んでおれたちを呼べ」
ゆめちゃんはもう一度頷くと、自分の頭に乗せられた聖の手を取り、もう片方の手で俺の手も引き寄せた。そして、俺たち二人の手を合わせて、小さな両手でキュッと握る。
「気をつけてね」
握られた手から、子供特有の高めの体温が伝わってくる。短くも健気な言葉に、俺と聖は同時に目を細めていた。
倉庫の鍵はかけずに出ることにした。克死院内での一番の危険は、克死患者からの危害になる。しかし克死患者は、ノブを回してドアを開けることができない。鍵をかけておく必要性はないのだ。
俺と聖は懐中電灯を手に、地下をひととおり見て回っていく。地下は、他の階とは根本的に構造が違っていた。建物の中心に倉庫があり、その周りを廊下が囲んでいた。さらにその外側に、一般的なトイレに加え、リネン室、給食調理室、霊安室、病理解剖室などの、別の機能を持った部屋が配置されている。廊下には俺たちの他に、いっさいの人影はなかった。場所によっては、一階へつながる階段の上から女医の悲鳴と巨漢の立てているであろう物音がするのみだ。その音が不快でもあるが、脅威が離れたところにいると場所を把握できているのは逆にありがたかった。
「まずは、ここからいくか」
ひととおり見て回ってから聖が促した入口は、『給食調理室』と書かれたプレートが掲示されている。ここのドアは他の場所とは形状が違い、両開きの引き戸だ。
慎重に戸を開けて中へと入る。内部はごく一般的な病院の調理室だ。しかし、使われていた形跡はなく整えられていて、食材が置かれていないということはわかった。
「院内事故があって、突然放棄されたって感じではねぇな」
「克死院であれば、入院患者への給食は必要ないからな。おそらく、藤薪病院の経営が終わった時から使ってないんだろうな」
蛇口のハンドルを捻って確かめると、克死院内の他の場所と変わらず、普通に水が出てくる。これであれば、地下にいても水を心配する必要はない。
かがみ込んで台の下の収納を探ると、調理器具は整理された状態で残されていることがわかった。俺は目に付くものの中で、もっとも大きい包丁を取り出した。
「これ、一応持っていくか。聖も何本か持っとく?」
「武器としてか?」
「ああ、危険な克死患者から追われたときの護身用に。搬入口に向かうことを考えたら、なにかは必要だ」
「刺したところで殺せねぇよ」
「殺せはしないが、足とか切れれば、多少は動きの阻害にはなると思う。いままで出会った克死患者の様子からして、動きには肉体の制約は受けるみたいだから……包丁で足が切れるかは、わからないけど」
言いながら、少しずつ気分が沈んでいくのを感じた。俺も、昨日までは克死患者だったのだ。克死患者も時間が経てば回復することがわかっていながら、自分の身の安全のために、別の者の体を傷つけることを考えている。それは、なんとも罪深いことのような気がした。
俺が俯くのを見てなにを思ったのかはわからないが、聖は無言で横から手を伸ばし、別の包丁を取る。
「それなら、おれも一本持っとくよ。備えあれば憂いなしだからな。ゆめが待ってる、さっさと別の場所行くぞ。さっき見た感じ、たしか隣にはリネン室があったよな。毛布を持って帰りたい」
俺は頷き、倉庫から背負ってきたリュックのポケットへ、ケースに入ったままの包丁を入れる。
「そうだな。様子を見て、もしリネン室の居心地が良さそうだったら、拠点をそっちに移してもいいかもしれない」
「居心地の良さを求めるなら、霊安室にするか?」
「どうして霊安室なんだよ」
「カプセルホテルみたいに個室として寝られるぜ」
聖はニヤリと笑って言う。
「普通に却下で」
「誰も死ななくなってんだから、どの部屋も空いてるぞ」
「遺体保管庫のことを部屋って言うな」
また軽口を叩きながら立ち上がり、廊下へ出ようとしたときだった。
俺の目の前を、なにかが駆け抜けていく。慌てて動かした懐中電灯の光では捉えられなかったが、廊下に足音のような物音が響いた。突然のことに、心臓が大きく跳ねる。
「どうした、克死患者か?」
「わからない。ただ、なにかがいた。でもこの中にいるんだから、克死患者としか考えられないよな。さっきまで廊下には誰もいなかったのに」
「階段から来たのかもしれねぇ。確認しようぜ」
聖に促され、足音が抜けていった方向へと歩き出す。
突き当たりの角を曲がるまでは直線の一本道のはずなのに、廊下の先へと光を向けても、人の姿はない。耳を澄ますが、先ほどからしている女医と巨漢の立てる不快な物音と悲鳴のほかは、いまはもう俺たちの足音しか聞こえなかった。
「どこに行ったんだろう」
緊張に体をこわばらせながら歩いて、俺は薄く開いているドアの存在に気がついた。地下にある出入り口の横にはすべてプレートが掲示され、施設名が記されているのだが、そのドアのプレートには何の表記もされていない。
「聖、さっきもここ、開いていたか?」
「いや、おぼえてねぇな。はじめから開いていたのかもしれない。ただ、もしドアを開けて中に入ったんなら、もう克死状態から脱してるヤツかもしれねぇ」
「だったら、どうして会話をしている俺たちに、声をかけてこないんだ?」
聖は首を振って答える。俺も咄嗟に問いかけたものの、聖が答えを知っているわけがないことは了承している。短く息を吐き、ドアノブに手をかけた。
「気をつけろよ」
聖からの声に頷く。力をかければ、ドアは実にスムーズに開いた。懐中電灯の光で部屋の中を照らす。身構えていたが、中に人影はなかった。
懐中電灯の光を向けると、暗闇の中に、用途のよくわからないさまざまな機器が照らし出される。テーブルの奥はガラス張りになっていて、そのガラスの向こうには、もう一つ別の部屋が見える。まるでレコーディングルームのような構造だ。
「なんだ、ここ」
安全を確認し、中へと入る。すぐ後ろから聖が続いて入ってきた。
レコーディングルームになぞらえれば、俺たちがいまいるのはコントロールルーム側だろう。テーブルに椅子・モニター・用途のよくわからない電子機器の操作パネルなどが並んでいる。部屋の中央には、三脚の上にビデオカメラが乗せられて、ガラスの向こう側を撮影できるような形ですでにセッティングされている。
聖は、入ってすぐの部屋を確認している俺の横を抜け、ガラスの向こう側の部屋に繋がるドアへ向かった。ドアは半開きのままだ。様子を伺い、慎重に中へと入っていく。
「おい、陸玖。これ見てみろ」
「どうした」
呼ばれるままに、俺も奥の部屋へと入る。まず視界に飛び込んできたのは、人間の頭蓋骨だった。聖の懐中電灯の光によって、暗闇の中に白く浮かび上がるように照らし出されている。
よくよく見てみれば、そこには頭蓋骨だけでなく、人一人分の人骨があった。火葬されたのか完全に白骨化しており、ステンレスの台の上に、元の人間の形を再現するように配置されている。
「これは、人骨?」
「そうみたいだな。いくら人が死ななくなったって言っても、さすがに骨だけになったらもう動かねぇんだな。まあ、これは世界が変わる前から、ここにあったものかもしれねぇけどさ」
「いや、火葬場ならまだしも、さすがに、病院だったときからここにあったとは考え難い気がする。何でこんなものがここにあるんだ」
わけがわからないまま、人骨を含めて辺りを観察する。
すると、足の裏になにか軽く張り付くような感触を覚える。タイル張りの床の上に、赤黒い血溜まりがあった。もうほとんどが乾燥している。その血溜まりからよくよく観察してみれば、俺たちが先ほどいたコントロールルーム側まで、点々と垂れたような血の跡もあった。
「ここで何かがあったことは、たしからしい」
そう呟いたとき。視界の端に、何か異質なものを捉えた。視線を向ければ、暗闇の中に、小さな赤い点が宙に浮かぶようにして光っている。
正体を確かめるべく、懐中電灯の光を向ける。小さな光は、コントロールルームの中央に設置されているビデオカメラの小さなランプだった。ランプがついているということは、あのビデオカメラには、まだ電源が入っているということになる。
慌てて部屋を出ると、コントロールルームへとビデオカメラを取りに向かった。三脚から外し、ボタンを操作する。すると、羽のように開いた付属の液晶モニターに、ビデオカメラの操作画面が映し出された。
「聖! このビデオカメラ、まだバッテリーで動いてるみたいだ。ここで撮影された映像記録が確認できるかもしれない」
「嘘だろ。克死院が放棄されてから、もう一ヶ月は経ってんだぞ」
驚きの声を上げながらも聖が横にやってきたことを確認してから、ビデオカメラの再生ボタンを押す。俺たちは、メモリに残されていた映像を頭から見ていくことにした。
聖はメスで切られた頬の傷に絆創膏を貼り、俺とゆめちゃんは一般的なパーカーを得て、極寒の中で入院着という布一枚の格好からは卒業する。
物資の中で一際目を引いていた大量のポリタンクは緑色で、側面には軽油と書かれていた。なんの用途に使うために置かれているものなのかはわからないが、当面は燃料にも困らなさそうだ。見つけた膨大な非常食も、ナースセンターにあったものよりバリエーション自体が豊富だ。
俺たちはある程度のところで物資の収集作業をきりあげると、ひとまずは食事を摂って落ち着くことにする。それぞれに好きな非常食を選んだ結果、俺はきのこの炊き込みご飯に味噌汁、聖はカレー、ゆめちゃんは白米と肉じゃがというメニューになった。
聖は発見したカセットコンロにガスボンベをセットして、ペットボトルの水を注いだ鍋を火にかけはじめる。その間、俺は集めた物資の整理をしていたが、小さな歌声が聞こえてくることに気がついた。
そちらへ視線を向けると、パウチを開けて食事の準備をしながら、ゆめちゃんがハミングをしていた。表情は変わらないが、その歌が優しくも明るい曲調であることから、彼女の精神状態が良いことは察せられる。
「ゆめちゃん、なんだか楽しそうだね」
声をかけると、ゆめちゃんはハッとしたように俺を見てから、軽く俯く。
「ごめんなさい」
「いや、なにも謝る必要はないよ。ただ、ゆめちゃんが楽しそうで、よかったなと思っただけ。物資の中から、欲しかったものでも見つけた?」
物資が手に入ったとはいえ、克死院の中に閉じ込められていることは変わりなく、ランタン型のライトを点灯させていても倉庫の中は暗い。そのような中で気分が上昇する理由といえば、俺にはその程度しか思いつかなかった。
ゆめちゃんは、俺からの問いかけにおずおずと首を振る。一瞬の沈黙の後で、ゆっくりと口を開く。
「三人で一緒にごはんを食べられるのが、嬉しくて」
その言葉に、昨日の靄の中で見た光景を思い出してハッとした。自分を除いた家族が楽しそうにリビングで食事をしているとき、彼女は浴室で独り、聖からもらったラーメンを食べて泣いていた。
「歌っていたのは、なんていう曲?」
胸に差し込む痛みのようなものを堪えながら平静を装って問うと、ゆめちゃんは小さく首を横に振る。曲名はわからないということだ。
「家の近くで、ピアノを弾いている人が、いて。たまたま聞いてて、おぼえただけ」
「そうか。そうやってタイトルも知らずに曲を覚えるのは、なんだかロマンティックだね。ゆめちゃんの声、とても綺麗だから、また聞かせてほしいな」
ゆめちゃんはどこか恥ずかしそうに、また顔を俯かせる。と、冗談めかした口調で聖が口を挟んできた。
「アンタも好きなときに歌っていいんだぜ。もしかしたら、今後おれたちが聞ける曲は、自分たちの歌声だけになるかもしれねぇからな」
その口ぶりには、聖もまたゆめちゃんと同様に、この場所で腰を落ち着けたような印象がある。極限状態において食料に余裕があるということは、精神の安定に一番の効果を発揮するものなのかもしない。
「そう言う聖も、いつでも歌って構わないんだぞ?」
「俺のはそう安くねぇからなぁ」
「そんなに上手いのかよ」
「俺の歌声聞いて、惚れない女はいねぇんだから。地元ののど自慢大会では幼稚園生から老婆にまでモテモテよ」
「嘘だって明らかにわかる嘘をつくな」
聖と軽口を叩き合いながら、物資の中から出したアルミの保温シートを広げた。性能を確かめるように軽く手を当ててみると、ただの薄いアルミであるにもかかわらず暖かさを感じた。シートの効果を感じられたので、ゆめちゃんの肩からかけて小さな体を包むようにする。
「ありがとう。すごくあったかい」
ゆめちゃんからの言葉に俺は微笑みで応える。
「さ、湯が沸いたぞ」
聖の声かけに促され、各々選んだパウチの中に沸かした湯を注ぐ。数分待ってパウチの口を開けると、ふっくらとした米は美味しそうに湯気を立てていた。
「いただきます」
暖かい味噌汁を飲み下すと、ほうっと息が漏れる。冷え切った体の中を、味噌汁が臓腑を温めながら通っていく。じんわりとした心地よい熱が、胃から身体中に染みていくようだ。
「あー……あったかい飯久しぶりだ。いっそ泣きそうだぜ」
聖はしみじみと呟く。口調的には冗談めかしてはいるが、その瞳には実際に僅かに光るものがあった。その隣で、ゆめちゃんも真剣な表情でコクコクと頷く。俺が目覚めたのは昨日だが、二人は、もっと前からこの克死院でサバイバル生活を強いられていたのだ。
いまの状態では今日の日付さえもわからないが、聖が一月一五日に克死院へ入ったということを考えると、彼が回復する期間が必要だった上に、一週間前に目覚めているのだから、少なくとも二月にはなっているだろうか。俺が克死状態になって記憶がない間に、もう二ヶ月間。そう思うと妙におかしい。自然と小さく笑い声が漏れた。
聖が顔を上げる。
「どうかしたか?」
「いや、こうやって社会のサイクルから外れてみると。あのときの俺はいったい、なにをそんなに必死になっていたんだろうな、と思って」
「克死院に入る前のことか? アンタはどんな仕事をしてたんだ」
「広告の制作会社にいて、下っ端のディレクターをしていたんだ。あ、と言っても、俺自身は下っ端ディレクターだったけど、大手広告代理店の下請けをやっていたから、手掛けていた案件は、大きなものが多かったんだぞ」
なんとなく、流れで自慢するようなことを口にしてしまった。あまりにも器の小さい己を自覚すると妙に気恥ずかしさを覚えて、咳払いを一つ。話を進める。
「あのときの俺にとっては、スケジュールを守ることが絶対の使命だった。もちろん、小さなものであれば交渉できるものもある。でも、クライアントの大企業が年末ローンチって言って、上流工程の奴らが同意していたら、それは確定事項だ。だから俺は、一番コストの払いやすい自分を犠牲にして、自分にしかできないって自分を過大評価して、無理をし続けていたんだ。スケジュール通りにいかないと、世界が終わるような気さえしていた」
仕事から距離を置いた状況で改めて口に出して話していると、そのバカらしさが身に染みてわかる。
「あのとき、俺が一ヶ月も会社に泊まり込んでやってた案件は、どうなったんだろうな。会社にいた他の誰かが、俺の代わりに犠牲になったのか、はたまた、確定事項だったはずのものがあっさり変わったのか。どっちにしろ、俺がやらなくたって、社会はなにかがなんとかなっていく。改めて考えてみれば、いくら大企業だって言ったって、いち会社の広告が一つ世に出るのが遅れたところで、世界にはなんら影響がない。あのときは、そんな当たり前のことすら見えていなかった」
「スケジュールに遅れても死人はでないが、間に合わそうとして死人がでたってことか」
聖は口角を上げて、俺を指差した。この世界のルールが変わっていなければ、俺は、たしかにあのときに死んでいた。彼の言葉がもっともすぎて、笑いながら頷く。
冷静になってみれば、特にやりがいを感じていたわけでもない、好きでもない仕事に命をかけていただなんて、本当に愚かだ。バカバカしすぎて、漏れた笑い声が低くなる。そのまま自己嫌悪に陥りそうになったとき、聖が呟いた。
「過労死するまで働くなんて、おれには想像もつかねぇし、やっぱり改めてバカだとは思うけどさ。そこまで自分を犠牲にできるくらいに責任感があるアンタのことは、素直にすげぇと思うよ。おれだったら、絶対に途中で全部放り投げて逃げ出すもんな」
「それが賢い判断だろう」
俺の言葉は謙遜でもなんでもなく本心だった。しかし、聖はスプーンを口に咥え、うーんと小さく唸る。
「おれさ、高校中退してんだ。母さんはシングルマザーだけど、必死に働いて、俺のこと高校まで行かせてくれたのにさ」
「どうして中退することになったんだ?」
「母さんは学校に行かせたがったんだけどさ。あのときは、俺自身が学校とか勉強することとかに意味を見出せなかったんだよな。高校に入ったらバイトもできるようになってたし、学校に行く時間があったら、その分バイトしたほうが金になるって思っちゃってさ。いや、ただ単に、勉強することが好きじゃなかったから、それから逃げたかっただけなのかもしれねぇけど」
聖の言葉は独白めいてくる。俺も口を挟まず、ただ聞いていた。
「高校中退して、バイトにだけ専念してたけど。バイト先で喧嘩してクビになって、別のところで働き出して、適当やってクビになって、また別のところ行って、叱られて嫌になって辞めて、みたいなこと繰り返してたら、どこにも居場所がなくなった。
一八歳になって、ちゃんと働きたいって思ったときになってようやく、なんで母さんが俺を高校に行かせたがったのかが、身に染みてわかったよな。もしおれの人生がまだ続いてたら、きっと歳とっていくにつれて、もっと辛くなってたんだろうな」
まるで、もう人生が終わったかのような口ぶりだ。
「それで、最近はデリバリーの仕事をしていたのか」
「そうそう。他に選択肢なくてやってたことではあるんだけど、デリバリーは結構好きだったな。バイク走らせてるのも好きだったし、誰かと共同作業とかしなくていいだろ。スマホに来る通知のまま物を受け取って、渡しての繰り返しだけでさ。
でも、おれがいなくなったところで、困るやつは一人もいない。今ここにいても、誰が外で待ってるとか、悲しんでるって気もしねぇんだ。アンタがいなくなって、きっとアンタの会社のヤツらは大変だったと思うけどな」
「聖の母親は、聖が帰ってくるのを待っているだろう。きっとすごく悲しんだだろうな」
当然のことだと思い込んで言葉を返したが、聖はあっけらかんと笑った。
「それはないと思うぜ。母さんさ、おれが一八歳になったときに再婚したんだよな。相手の連れ子で、まだ六歳の息子がいてさ。そっちの世話で手一杯。ごく普通の家族として幸せそうだったし、おれはそのときに家を出たから、それ以来会ったのなんて、数えるほどだし」
ゆめちゃんの体が、ピクリと動いた。ゆめちゃんの家も、再婚の家庭だったのだろうか。今度はうまく返す言葉も思いつかなくなって、俺はただ暖かい食事を食べ進める。
聖の言葉をきっかけに、では、俺はどうだろうかと想いを馳せる。克死院の外に、俺を待っていたり、俺がいなくなって悲しんでいたりする人間が誰かいるだろうか。
俺がいなくなって、たしかに会社や取引先で困った人間は生まれただろう。だが、それもきっとすぐに誰かがなんとかしたに決まっている。途中で倒れた迷惑な男がいたくらいの認識で忘れ去られているはずだ。
母親とはずっとだが、このところは父親とも疎遠だった。一瞬は悲しんでくれたかもしれないが、父親が悲しみを引きずっている所は想像もできなかった。当然のように恋人はいなかったし、学生時代はあれだけいた友人たちとも、このところの社畜生活で完全に断絶状態だ。結局いくら考えてみても、自分のことを待っていそうな人間が、一人たりとも浮かんでこなかった。
非常食の一食分は、そう量があるわけではない。パウチはすぐに空になってしまった。しかし、もう一食分を追加で食べてしまおうという気にはならなかった。搬入口に行けばどうにかなるのではないかという解決策は見えているが、外に出られるという保証はないのだ。
それに、なぜだか俺は、もう少しここにいても良いのではないかという気持ちになっていた。理由は、この三人だけが存在する世界が、妙に居心地の良いものだったからだろうか。非常食は、三人で節約して食べていけば、困ることなく数年はここに滞在できるくらいの量がある。
聖とゆめちゃんが俺と同じような考えを持っているのかどうかはわからないが、空になったパウチを捨てても、誰もその場から動こうとはしなかった。
「陸玖。階段の途中で会った克死状態の女について、どう思う」
静かにランタンを囲んだまま、聖が問いかけてくる。
「彼女か……この地下から来たよな。地下の安全を確保する面でも、彼女が地下のどこから来たのかは気になっている。道中、他の克死患者の姿はなかったから、ある程度は安心しているんだが。そもそも、あの格好をしてるってことは患者じゃなくて、克死院の医者だったんだろうな」
「ああ、おれも同感だ。ゆめが言ってた、院内事故で克死状態になったヤツなんだろう、とは思ったんだが」
聖は困惑の表情を浮かべ、言葉を途切れさせる。彼の表情の理由は、俺にも理解できた。
「そもそも、彼女はどうして克死状態になったのか、だろ?」
指摘すると、聖は大きく頷く。
「あくまで表面的に見ただけだが、傷みたいなものは見えなかったよな。院内事故だったら病気でっていうのはあり得ねぇし、危険な克死患者にやられたんなら、わかりやすい怪我を負ったんだと思うんだよ。まあ、あの女が克死状態になった理由がわかったところで、何があるわけじゃねぇんだけどさ」
「その理由が判明するかはわからないが、他の場所も調べに行こうか。地下にはリネン室もあるはずだから、ここで手に入らないものも入手できるかも。非常用は見つけたが、普通のトイレなんかの場所や安全も把握したいし」
「そうだな。探索はおれとアンタの二人で行きてぇんだが、どう思う? この倉庫内が安全なことは、さっき物を集めてきてる段階でわかったし」
「俺も同意見だ。いけそうなら、早速出ようか」
聖との会話がまとまったところで、俺はゆめちゃんを見た。
「いま話していたとおり、俺たちは他の場所の様子を確認してこようと思うんだ。ゆめちゃんは、ここで待っていてくれるかな?」
それまで大人しく俺たちの会話を聞いていたゆめちゃんは、大きな瞳で俺の顔を見てから、コクリと頷いた。
「わかった。待ってる」
返事を聞いてから、聖は彼女の頭にポンと掌を乗せる。
「すぐに帰ってくるから、絶対に一人で倉庫から出るなよ。ここは安全だと思うが、もし万が一危ないことがあったら、全力で叫んでおれたちを呼べ」
ゆめちゃんはもう一度頷くと、自分の頭に乗せられた聖の手を取り、もう片方の手で俺の手も引き寄せた。そして、俺たち二人の手を合わせて、小さな両手でキュッと握る。
「気をつけてね」
握られた手から、子供特有の高めの体温が伝わってくる。短くも健気な言葉に、俺と聖は同時に目を細めていた。
倉庫の鍵はかけずに出ることにした。克死院内での一番の危険は、克死患者からの危害になる。しかし克死患者は、ノブを回してドアを開けることができない。鍵をかけておく必要性はないのだ。
俺と聖は懐中電灯を手に、地下をひととおり見て回っていく。地下は、他の階とは根本的に構造が違っていた。建物の中心に倉庫があり、その周りを廊下が囲んでいた。さらにその外側に、一般的なトイレに加え、リネン室、給食調理室、霊安室、病理解剖室などの、別の機能を持った部屋が配置されている。廊下には俺たちの他に、いっさいの人影はなかった。場所によっては、一階へつながる階段の上から女医の悲鳴と巨漢の立てているであろう物音がするのみだ。その音が不快でもあるが、脅威が離れたところにいると場所を把握できているのは逆にありがたかった。
「まずは、ここからいくか」
ひととおり見て回ってから聖が促した入口は、『給食調理室』と書かれたプレートが掲示されている。ここのドアは他の場所とは形状が違い、両開きの引き戸だ。
慎重に戸を開けて中へと入る。内部はごく一般的な病院の調理室だ。しかし、使われていた形跡はなく整えられていて、食材が置かれていないということはわかった。
「院内事故があって、突然放棄されたって感じではねぇな」
「克死院であれば、入院患者への給食は必要ないからな。おそらく、藤薪病院の経営が終わった時から使ってないんだろうな」
蛇口のハンドルを捻って確かめると、克死院内の他の場所と変わらず、普通に水が出てくる。これであれば、地下にいても水を心配する必要はない。
かがみ込んで台の下の収納を探ると、調理器具は整理された状態で残されていることがわかった。俺は目に付くものの中で、もっとも大きい包丁を取り出した。
「これ、一応持っていくか。聖も何本か持っとく?」
「武器としてか?」
「ああ、危険な克死患者から追われたときの護身用に。搬入口に向かうことを考えたら、なにかは必要だ」
「刺したところで殺せねぇよ」
「殺せはしないが、足とか切れれば、多少は動きの阻害にはなると思う。いままで出会った克死患者の様子からして、動きには肉体の制約は受けるみたいだから……包丁で足が切れるかは、わからないけど」
言いながら、少しずつ気分が沈んでいくのを感じた。俺も、昨日までは克死患者だったのだ。克死患者も時間が経てば回復することがわかっていながら、自分の身の安全のために、別の者の体を傷つけることを考えている。それは、なんとも罪深いことのような気がした。
俺が俯くのを見てなにを思ったのかはわからないが、聖は無言で横から手を伸ばし、別の包丁を取る。
「それなら、おれも一本持っとくよ。備えあれば憂いなしだからな。ゆめが待ってる、さっさと別の場所行くぞ。さっき見た感じ、たしか隣にはリネン室があったよな。毛布を持って帰りたい」
俺は頷き、倉庫から背負ってきたリュックのポケットへ、ケースに入ったままの包丁を入れる。
「そうだな。様子を見て、もしリネン室の居心地が良さそうだったら、拠点をそっちに移してもいいかもしれない」
「居心地の良さを求めるなら、霊安室にするか?」
「どうして霊安室なんだよ」
「カプセルホテルみたいに個室として寝られるぜ」
聖はニヤリと笑って言う。
「普通に却下で」
「誰も死ななくなってんだから、どの部屋も空いてるぞ」
「遺体保管庫のことを部屋って言うな」
また軽口を叩きながら立ち上がり、廊下へ出ようとしたときだった。
俺の目の前を、なにかが駆け抜けていく。慌てて動かした懐中電灯の光では捉えられなかったが、廊下に足音のような物音が響いた。突然のことに、心臓が大きく跳ねる。
「どうした、克死患者か?」
「わからない。ただ、なにかがいた。でもこの中にいるんだから、克死患者としか考えられないよな。さっきまで廊下には誰もいなかったのに」
「階段から来たのかもしれねぇ。確認しようぜ」
聖に促され、足音が抜けていった方向へと歩き出す。
突き当たりの角を曲がるまでは直線の一本道のはずなのに、廊下の先へと光を向けても、人の姿はない。耳を澄ますが、先ほどからしている女医と巨漢の立てる不快な物音と悲鳴のほかは、いまはもう俺たちの足音しか聞こえなかった。
「どこに行ったんだろう」
緊張に体をこわばらせながら歩いて、俺は薄く開いているドアの存在に気がついた。地下にある出入り口の横にはすべてプレートが掲示され、施設名が記されているのだが、そのドアのプレートには何の表記もされていない。
「聖、さっきもここ、開いていたか?」
「いや、おぼえてねぇな。はじめから開いていたのかもしれない。ただ、もしドアを開けて中に入ったんなら、もう克死状態から脱してるヤツかもしれねぇ」
「だったら、どうして会話をしている俺たちに、声をかけてこないんだ?」
聖は首を振って答える。俺も咄嗟に問いかけたものの、聖が答えを知っているわけがないことは了承している。短く息を吐き、ドアノブに手をかけた。
「気をつけろよ」
聖からの声に頷く。力をかければ、ドアは実にスムーズに開いた。懐中電灯の光で部屋の中を照らす。身構えていたが、中に人影はなかった。
懐中電灯の光を向けると、暗闇の中に、用途のよくわからないさまざまな機器が照らし出される。テーブルの奥はガラス張りになっていて、そのガラスの向こうには、もう一つ別の部屋が見える。まるでレコーディングルームのような構造だ。
「なんだ、ここ」
安全を確認し、中へと入る。すぐ後ろから聖が続いて入ってきた。
レコーディングルームになぞらえれば、俺たちがいまいるのはコントロールルーム側だろう。テーブルに椅子・モニター・用途のよくわからない電子機器の操作パネルなどが並んでいる。部屋の中央には、三脚の上にビデオカメラが乗せられて、ガラスの向こう側を撮影できるような形ですでにセッティングされている。
聖は、入ってすぐの部屋を確認している俺の横を抜け、ガラスの向こう側の部屋に繋がるドアへ向かった。ドアは半開きのままだ。様子を伺い、慎重に中へと入っていく。
「おい、陸玖。これ見てみろ」
「どうした」
呼ばれるままに、俺も奥の部屋へと入る。まず視界に飛び込んできたのは、人間の頭蓋骨だった。聖の懐中電灯の光によって、暗闇の中に白く浮かび上がるように照らし出されている。
よくよく見てみれば、そこには頭蓋骨だけでなく、人一人分の人骨があった。火葬されたのか完全に白骨化しており、ステンレスの台の上に、元の人間の形を再現するように配置されている。
「これは、人骨?」
「そうみたいだな。いくら人が死ななくなったって言っても、さすがに骨だけになったらもう動かねぇんだな。まあ、これは世界が変わる前から、ここにあったものかもしれねぇけどさ」
「いや、火葬場ならまだしも、さすがに、病院だったときからここにあったとは考え難い気がする。何でこんなものがここにあるんだ」
わけがわからないまま、人骨を含めて辺りを観察する。
すると、足の裏になにか軽く張り付くような感触を覚える。タイル張りの床の上に、赤黒い血溜まりがあった。もうほとんどが乾燥している。その血溜まりからよくよく観察してみれば、俺たちが先ほどいたコントロールルーム側まで、点々と垂れたような血の跡もあった。
「ここで何かがあったことは、たしからしい」
そう呟いたとき。視界の端に、何か異質なものを捉えた。視線を向ければ、暗闇の中に、小さな赤い点が宙に浮かぶようにして光っている。
正体を確かめるべく、懐中電灯の光を向ける。小さな光は、コントロールルームの中央に設置されているビデオカメラの小さなランプだった。ランプがついているということは、あのビデオカメラには、まだ電源が入っているということになる。
慌てて部屋を出ると、コントロールルームへとビデオカメラを取りに向かった。三脚から外し、ボタンを操作する。すると、羽のように開いた付属の液晶モニターに、ビデオカメラの操作画面が映し出された。
「聖! このビデオカメラ、まだバッテリーで動いてるみたいだ。ここで撮影された映像記録が確認できるかもしれない」
「嘘だろ。克死院が放棄されてから、もう一ヶ月は経ってんだぞ」
驚きの声を上げながらも聖が横にやってきたことを確認してから、ビデオカメラの再生ボタンを押す。俺たちは、メモリに残されていた映像を頭から見ていくことにした。
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