蒼海の碧血録

三笠 陣

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幕間 1943年の断片

2 レイキャビク会談、トライデント会談、大東亜会議

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 一九四三年の後半は、会談の季節であったということが出来る。
 この年の六月以降、連合国、枢軸国ともに、何度かの首脳会談を開いているのである。
 まず首脳会談を開いたのは、連合国側であった。
 セイロン島が陥落した後の六月十六日より二十四日まで、米ルーズベルト大統領と英チャーチル首相がアイスランド王国首都レイキャビクにおいて会談を開いたのである。アイスランドはドイツ軍の侵攻を恐れた英米軍によって保障占領されており、事実上、連合国の支配下にあった。
 議題は東部戦線の状況、ソ連の要求する第二戦線の形成時期などであった。
 この時期連合軍は、太平洋、インド洋、ヨーロッパと、すべての戦線において守勢に立たされており、艦艇や航空機、人員の被害も甚大なものであった。
 唯一の光明といえるのは、一九四三年五月以降、大西洋に多数の護衛空母が展開出来るようになったことで対Uボート掃討戦が本格化し、大きな戦果を挙げていたことだろう。
 それ以外には、戦艦アイオワのインド洋脱出などがあったが、燃料不足からコーチンに取り残された艦艇も多く、またそうした残存艦艇、沈没艦の乗員の三〇〇〇人近くをインドに残したままの状態であったので、無事にアイオワが本国に帰還出来たからといって手放しで喜ぶことは出来なかった。
 インドに取り残された乗員はシベリア経由での帰国が検討されたが、ソ連はシベリア鉄道経由での米兵送還を渋っていた。中立条約を結んでいる日本を刺激しないためであった。
 現状、ソ連にとって唯一の安全な援ソルートは太平洋ルートのみなのである。このルートだけで、援ソ物資の半分を賄っていた。そのため、日本に海上封鎖を許す口実を、ソ連は与えたくなかったのである。
 結果として多くの乗員たちが本国への帰還の目途が立たない状況に置かれることとなったのであった。
 さて、会談に臨むにあたって、アメリカ統合作戦本部のキング作戦部長、マーシャル参謀総長、アーノルド陸軍航空隊司令官の三名は合衆国の軍事的主張をそれぞれにまとめた。
 キングは太平洋戦線における攻勢、マーシャルは一九四四年のフランス北部への上陸作戦、アーノルドはドイツへの戦略爆撃の強化を、それぞれ重視していた。
 だが一方、イギリス側、特にチャーチルの意見は異なっていた。
 彼は戦後世界を見据えて、まずは地中海全体の制海権を奪取し、枢軸軍の東西連絡路を遮断、北アフリカ、シチリア島、イタリア本土、バルカン半島にも上陸して、東欧地域に英米の政治的影響力を及ぼせるようにすることを主張したのである。
 これに猛反発したのは、キングであった。
 地中海の制海権を奪還するための艦隊兵力、上陸のための輸送船、上陸用舟艇、兵員がこの方面に引き抜かれることを警戒したのである。
 インド洋にてイギリス海軍の虎の子ともいえる主力艦隊は壊滅しており、特に空母戦力の消耗は激しかった。今や、イギリス海軍に残された空母は、護衛空母系統のものを除けば、旧式化したフューリアス、イラストリアス級のインドミタブル、航空機補修艦としての能力を持つために空母としては中途半端な性能しか持たないユニコーンの三隻だけなのである。
 これでは、未だ旗幟を鮮明にしていない北アフリカのフランス艦隊、空母は持たないものの未だ十分な戦力を持つイタリア艦隊を撃破することは出来ないだろう。
 そのようなイギリス海軍を支援するために、また合衆国は再建された機動部隊を派遣しなければならない。そうなれば対日反攻作戦は決定的に遅れ、その間に援助物資を断たれた蒋介石はジャップと単独講和を結び、一〇〇万のジャップが太平洋の防衛に転用されるだろう。
 キングはそう主張して、イギリス側の示す戦略構想に真っ向から反論した。
 こうした彼の姿勢に対して、イギリス陸軍参謀総長アラン・ブルック大将は「キングは何ものをも犠牲にして太平洋での戦争に没頭している」と日記に批判的な記事を書き残している。
 戦後の国際情勢も含めた政治的な面から戦争計画を練り上げようとするイギリスに対して、キングは純軍事的な主張一本槍であり、話が噛み合わなかった。
 キングはまた、未だアメリカの国力の十五パーセントしか向けられていない太平洋方面に、倍の三〇パーセントを向けることを主張した。つまり、太平洋方面における兵器や人員、軍需物資の供給量を今の倍にせよと言っているわけである。
 一方で、政治的配慮も出来るマーシャルのお陰で、欧州戦線での議論については比較的順調に行われていた。しかし、最後までキングは太平洋戦線の問題について譲ることはなかった。
 結局、中部太平洋方面での攻勢作戦をイギリス側は認め、欧州方面での攻勢作戦の準備に支障を来さない程度の適切な戦力を太平洋戦線に投入するという文言を、合意文書の中に盛り込むこととなった。
 そして会談最終日である六月二十四日午前十一時に開かれたルーズベルト、チャーチルによる共同記者会見において、ルーズベルトはドイツ、イタリア、日本に対する無条件降伏のみが戦争終結の条件であると明言した。
 三ヶ国に対する無条件降伏要求は、イタリアを含めるか含めないかという議論があったものの、概ねルーズベルト、チャーチル間において合意されていた。
 この無条件降伏による戦争終結構想については、すでに一九四二年五月六日、アメリカ国務省戦後対外政策諮問委員会の安全保障小委員会における検討結果として、ルーズベルトに報告されていた。
 ルーズベルトが枢軸国に対する無条件降伏を要求した背景には、戦後世界の平和を永続化させたいという彼なりの理想があったといわれる。
 第一次世界大戦において敗北したドイツでは、戦場では決して負けていなかったというドイツ国民の意識が第二次世界大戦を引き起こしたとルーズベルトは認識していたようであり、今次大戦ではそうした思いを枢軸国の国民が抱かないよう、徹底的に敗戦を認識させる必要があると考えていたのである。
 また同時に、苦境に立たされ孤立感を深めているソ連と中国(蒋介石)に対して、英米も共に最後まで戦い抜くという決意を示す目的もあったといわれている。
 英米首脳はその後、八月十二日から九月四日にかけてワシントン.D.Cにおいても会談(暗号名「トライデント」)を行った。特に連合軍参謀長会議は十三回も開かれ、両国における対枢軸国戦略の調整が行われている。
 第一回の会議では地中海作戦問題、欧州北部上陸作戦問題、重慶政府問題、対日戦問題について話し合いがもたれた。特に対日戦に関しては、ソ連の対日参戦を要請するという方針が示されている。
 その後の会議では重慶政府問題に絡めてインド洋奪還作戦についても議論されたが、イギリスは現状ではインド洋奪還作戦は目途が立たないとし、キングも太平洋方面以外に戦力を振り向けるのには反対の意向を示したため、何ら決定がなされることはなかった。
 最終的に、両国は四つの合意を得ることになった。一つ目は、イギリスは地中海において限定的な作戦を行うこと、二つ目はインド洋奪還作戦の延期、三つ目はフランスへの上陸作戦の実施、最後にイギリスは太平洋方面での攻勢の強化を認めること。これらが、トライデント会談での成果であった。
 なお、その後行われたケベック会談において、北フランス上陸作戦は地中海作戦に優先して行われることが決定している。

  ◇◇◇

 一方で、枢軸国側でもセイロン島攻略前後から日独間で人的交流の動きがあった。
 その要因の一つが、ヒトラーによる二式飛行艇二〇機の譲渡要求であった。彼は東部戦線においてこの巨人機を運用することを目論んでおり、日本海軍がインド洋作戦のために二式大艇をジブチに派遣して以来、二式大艇に目を付けていたという。
 二式大艇を譲渡する対価としてヒトラーは、日本に対する技術供与を約束していた。
 元々、日独連絡航路の打通によるドイツの最新技術の導入を目論んでいた日本側にとって、ヒトラーからの提案は渡りに船であった。ただし、二式大艇は数が揃わず、半数は九七式飛行艇を譲渡することになる。
 なお、この譲渡問題を巡って日本側では一悶着あった。
 一機で戦闘機数機分の資材を消費する飛行艇をドイツに譲渡する以上、資源的に負担の大きい海軍は、昭和十八年度後半において陸軍よりも優先的に戦略物資の割当を受けるべきと主張したのである。
 これに対して、重慶攻略作戦を控えている陸軍、特に参謀本部作戦課から反発が出た。大規模な攻勢作戦を控えている陸軍こそ、多くの物資を得るべきだと反論した。
 すでにセイロン島攻略作戦以前の段階で鋼材の陸海軍割当を巡って対立していた陸海軍は、セイロン島攻略という共通の作戦目標がなくなった途端、対立を再燃させた。
 もちろん、飛行艇譲渡問題以外にも、海軍としては損傷艦艇の修理と機動部隊の再建を行わなければならないために大量の戦略物資が必要であるという理由もあった。
 こうした中で嶋田繁太郎海相の指導力不足が目立ち、辞職に繋がっていく。
 一方、この問題の解決に尽力したのは東条英機首相と山本五十六連合艦隊司令長官であった。
 参謀本部は戦略物資の供給と併せて、大陸へ兵員・物資を送るための輸送船三十五万トンの増徴も要求しており、鉄鋼生産量年間三五〇万トンを絶対に下回らないようにしたい東条首相としては到底、受入れることの出来ないものであった。
 山本としても、中部太平洋での決戦のために海軍戦力を再編・強化しなければならない関係上、戦略物資の確保は絶対の課題であった。
 山本は参謀長の宇垣らを使って海軍内部の説得工作に乗り出した。セイロン島への陸軍部隊の輸送に利用した海軍徴用船などを、そのまま重慶攻略作戦のために転用すること、ドイツから供与された技術は海軍が独占しないことなどで、参謀本部との間に妥協案を成立させることを目論んだのである。
 また、支那方面艦隊も揚子江遡行作戦などで陸軍を全面的に支援することなども、山本は主張した。もっとも、支那方面艦隊の主力は河川砲艦であり、これらの艦艇が陸軍の支援のために大陸に拘束されることになったところで、海軍にとって大きな痛手とならない。陸軍に恩を着せる一方で、自らの負担を最小限にする、軍事的というよりも政治的な手法であった。
 東条英機と彼の子飼いの部下である軍務局長・佐藤賢了も、船舶問題・資源割当問題の解決に関して尽力し、陸軍と海軍の調停、陸軍の省部間の合意形成に奔走した。特に海軍が海軍徴用船の一部貸与を申し出てくれたことは大きく、これを材料に参謀本部の説得にかかった。
 結果、鋼材に関しては生産量の関係から海軍の要求量を満たせなかったものの、海軍側割合を多くすることで合意出来、アルミニウムに関しては陸海軍折半とし、陸軍機の大陸への輸送に海軍の空母を融通すること(輸送船に積み込んで現地で組み立てるよりも、完成した機体を空母で運んだ方が効率がいい)で陸軍は取得分の中から三〇〇〇トンを海軍に譲るという形を取って双方の面子を立てることとした。
 もちろん、これでも海軍には不満の残る結果ではあったが、陸軍に戦略資源を多く取得されるという最悪の事態だけは防ぐことが出来たわけである。
 さて、飛行艇譲渡問題が日本の軍部内で対立を生む一方、譲渡自体は比較的円滑に事が進められた。
 ヒトラーの意向故か、ドイツ側の飛行艇取得の熱意には並々ならぬものがあり、セイロン島攻略後二週間ほどが経った五月中旬、ドイツ側は操縦要員と整備要員を空路で派遣してきた。
 またドイツ外務省側からの催促もあり、五月下旬、二〇機の飛行艇はドイツに向けて出発することになった。
 この時、日本側は遣欧特別使節団を飛行艇に同乗させていた。
 団長は四月に東条内閣の外相に就任した重光葵であり、陸海軍関係者、ドイツの技術を取得するための技術者も同行していた。
 日本ではセイロン島攻略後の五月八日の大本営政府連絡会議において「今後ニ於ル枢軸側戦争指導ノ件」を決定しており、「枢軸国側ノ攻勢力ヲ共同ノ敵米英ノ戦力破摧ニ指向スル為今後ニ於ル枢軸側戦争指導ニ関シ」て、ドイツを対ソ持久、ジブラルタル方面の米英軍撃破の方向に誘導することを目標として「独伊ト隔意ナキ協議ヲ行フ」ことを目指していた。
 重光外相が欧州に派遣されることになったのは、この決定が影響している。そしてこれは、第二次世界大戦における枢軸国による最初の戦争指導者層同士による会談となるのであった。
 使節団の陸軍側代表者はかつて陸軍ドイツ視察団団長も務めた山下奉文大将、海軍側は加藤隆義大将であった。この二人の経歴を見ると、それぞれ陸軍航空総監、海軍航空本部長を務めており、日本がドイツに何を求めていたのかが明確に判る。特に加藤は国際聯盟軍事諮問委員会海軍・空軍代表、第一航空戦隊司令官なども務め、一九二〇年代から航空機との関わりが深かった。
 ただし、作戦系統の最高責任者が首脳会談に同席した英米側に比べると、日本側が枢軸軍の共通戦略をまったく具体化出来ていなかったことが、使節団の人選に現れていた(加藤は軍令部次長まで務めた経験があるが、それも過去のことである)。
 二〇機の飛行艇はアレキサンドリアでドイツ空軍に引き渡され、日本海軍側搭乗員はドイツ空軍側搭乗員の養成のために、しばらく留め置かれることになった。また、機体の予備部品などはインド洋の制海権奪取によって帰還が可能となったドイツの海上封鎖突破船(日本軍占領下の東南アジアから戦略物資をドイツに輸送するための船舶の総称)などによって、後日、アレキサンドリアに運び込まれた。
 使節団一行はドイツ側の用意した航空機に乗り込み、まずはイタリア半島に向かい、重光外相はムッソリーニと会談。
その後、一行は鉄道でベルリンまで移動し、重光はまずリッベントロップ外相との会談の席を設けた。ここで重光は日本が独ソ和平を仲介する用意があることを伝えたが、リッベントロップは総統閣下はソビエトの完全なる屈服のみをお望みであると答え、逆に日本に対し対ソ参戦を求める発言を行った。重光は、日ソ間には中立条約があり、また兵力的な余力がないため、現状では応じることが出来ないと回答し、会談は実質的に実りなく終わってしまう。
 この時に重光は日本が独ソ和平を仲介するのは不可能であると悟り、帰国後、政府内でそれを説いて回ることになる。
 その後、ヒトラーとの会談も行われたものの、ヒトラーがツィタデル作戦の準備に没頭していたこともあり、会談は短時間で終わり、しかも枢軸軍の強固な同盟を宣伝するための写真撮影が行われた以外には何ら成果のない会談となってしまった。
 重光はその後、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮のベルリン・フィルの演奏会に招かれるなどの歓迎を受けたものの、外交的な成果は何も得られないままに、陸海軍使節や技術者たちに先んじて帰国の途に就くことになった。なお、帰国に際しては立川飛行機が中心になって開発した双発長距離機「キ七七」が欧州に派遣され、重光はそれに乗って空路、東京まで飛行した。
 一方、技術の取得などを目的とした残りの使節団は四ヶ月ほど欧州に滞在し、ドイツから供与された様々な兵器・装備と共に、日本側が派遣した輸送船と共に帰国している。その後も、日本側はたびたびドイツに技術陣を派遣している。
 これらの技術供与によって、特に日本の航空機開発は半年から一年ほど早まったと評価されている。
 また、使節団が欧州各地を巡っている最中の九月八日、地中海においてマルタ島へ向かっていた英戦艦ヴァリアントがドイツ空軍によって撃沈されるという事件が起こった。この時にドイツ空軍が使用した兵器が誘導滑空爆弾「フリッツX」であり、ヴァリアント撃沈事件に注目した使節団によって、この技術も日本に持ち帰られることになる。
 さて、帰国した重光外相が次に取組んだのは、大東亜会議であった。
 重光は、国民政府(汪兆銘政権)に対して認めた租界や治外法権の撤廃、物資取得に際しては日本側の独占を戒めるといった、対支新政策の内容をアジア全域に広げようとしており、これに東条首相も同意していた。
 重光帰国後の御前会議において「大東亜政略指導大綱」が決定され、これによりフィリピン、ビルマの独立を容認し、「大東亜戦争完遂ノ為帝国ヲ中核トスル大東亜ノ諸国家民族結集ノ政略態勢ヲ更ニ整備強化シ以テ戦争指導ノ主動性ヲ堅持シ世界情勢ノ変転ニ対処ス」ることが目指された。ただし、「『マライ』『スマトラ』『ジャワ』『ボルネオ』『セレベス』ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発竝ニ民心ノ把握ニ努ム」とされ、アジア全域の独立を認めるものではなかった。
 会議の開催は十月二日の大本営政府連絡会議において正式に決定され、十一月五日、六日の二日にわたり、東京にて大東亜会議が開催された。
 出席者は日本・東条英機首相、中華民国(汪兆銘政権)・汪兆銘行政院長、満洲国・張景恵国務総理、タイ・ワン・ワイタヤーコン親王(ピブン首相の代理)、フィリピン・ホセ・ラウレル大統領、ビルマ・バー・モウ首相、自由インド政府・チャンドラ・ボース首班であった。
 この当時、日本軍はインド・アッサム地方を完全に制圧しており、その地域にチャンドラ・ボースを首班とする自由インド政府を樹立していた。
 彼らによって、「大東亜各国ハ相提携シテ大東亜戦争ヲ完遂シ大東亜ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衛ヲ全ウ」して「以テ世界平和ノ確立ニ寄与センコトヲ期ス」という内容の「大東亜共同宣言」が採択された。
 一九四三年後半は連合国、枢軸国共に会談の年となったといえるが、その政戦略両面における成果は、連合国と枢軸国で大きな隔たりがあったといえよう。
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