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14 夜の始まり

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 数日後に目覚めた聴蝶はひどく私を責めた。路傍を助けられたはずなのに見殺しにした。一生口もききたくないと――そして半狂乱の状態になり看護師たちに押さえつけられる。そんな毎日が続き,医者のアドバイスを受け,私たちはしばらく距離を置くことにした。
 私は以前のように昼夜逆転の生活を送り,観空の店で払うものも払わず飲んだくれている。手話通訳も辞めた。
 毎度のごとくトイレで吐いていると,今夜から店に出はじめた観空が入ってくる。
「体はもういいのかい?」右手2指でピストルを模り,おどけた調子で狙い撃ちしてみせる。
「それはこっちの台詞だよ」大理石のウォッシュスタンドに腰かけ,鏡に映る荒くれ女を見つめてくる。
 私の体調は至って良好だった。飛行船に乗っていた人々のうち大方がリドルに感染した。16人の死亡者を出し,依然不調を訴える人も多い。感染しなかったのは3人。いずれも路傍と親交のあった者たちだ。だが,その3人のリドルに感染しなかった理由を現代医学は説明できない。
「そんな飲み方してると,そのうち体まで壊れちまうぞ――聴蝶の我が儘は気にするな。おまえは命の恩人だ。あいつだって本当は感謝してるんだよ」
 口中に血の味が広がった。唇を嚙む癖がまた出たのだ。焦点の定まらない細い目が鏡のなかでより細くなる。醜くて悪い顔をしている――「ふふっ……」
「何だよ。何がおかしい?……」
「観空は全く分かっていないねぇ」
「……何が……何が分かってねぇんだよ」
「聴蝶はいっそ死にたかったんだ。路傍が死ぬなら一緒に死にたかったんだよ」
「でも彼は生きて欲しかった――」観空は鏡から目を逸らし,私を直視した。「聴蝶の生きることが彼の願いだった。そのために自滅してリドルを封じこめたんじゃねぇのか」
 両眼と鼻孔とが水っぽくなる。
「あいつはさ――彼の願いを受けとめなきゃなんねぇ。それができるのはおまえのおかけだ。おまえが助けてくれたから,あいつは彼の分まで頑張って生きられんのさ」
 意味もなく乱暴にペダル式の流水装置を踏みつけ,無茶苦茶に顔面を洗った。何もかも忘れるまで飲みあかしてやる――
「時間が解決してくれるさ。あいつがおまえに感謝の言葉を言う日はきっと来る。でも俺は違う――」
 顔をあげた。
「俺は――」漆黒の瞳が揺れている。「俺はおまえにありがとうって言えねぇ。次からはやめて欲しい。聴蝶を助けてくれなくていい――」
「どういう意味だい――」
「聴蝶を助けるために危険を冒すのはやめてくれ。今回,正直思った――聴蝶がいなけりゃ,おまえは危ない目に遭わずに済むのにって――」
 腹の奥底から抑えようのない怒りがこみあげた――拳に痛みが走る。多分指が折れた。観空がクッション仕立ての両開き戸にぶつかり外部の廊下に倒れこんだ。追っていけば私の剣幕に驚いた男女が逃げていく。観空の胴に飛び乗りもう一発お見舞いしてやる。綺麗な顔が台無しだ――誰よりも涼やかで清らかな目が腫れあがり,誰よりもチャーミングでナチュラルな高い鼻が折れ曲がっていた。私が観空の美しさを同等に醜くしていく――
「結良,何処にも行くな」腕を摑まれる。「聴蝶も俺もいつまでもおまえの面倒を見てやるから。俺らが役に立たなくなったら捨ててもいい。けど,使えるまでは使ってくれよ。だから利用価値のあるまではずっとそばにいてくれ――」
 憑かれたみたいに拳を振りおろし続けた。ほかのホストたちが6人がかりで観空と私を引き離す。
「また言ってみろ!――ぶっ殺してやる!」金切り声を発して店を飛び出た。
 人生を一緒に歩いてきた彼らと別れるときが来たのだと思った。
 歩行者天国の手前で学生の集団とぶつかりかけて走るのをやめる。白いものが睫毛を掠めて落ちていく。3月の空を見あげれば,また雪が降っていた。
「夜はまだこれからじゃない――」女の子たちがビジネスマンに纏わりついている。そのなかの1人と視線を絡ませ刹那の楽しみを得た。
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