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第五章
蠍ノ心臓(アンタレス)・34
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◆◇◆
日曜は五月晴れとなった。久々の日照に、心なしか外を出歩く人の姿も多く見える。
広大な桜公園の端、バイト先の「sweet smack」とは反対の方角にぽつんと外れて置かれたベンチに鞍吉は腰掛けていた。芝生を駆け回る子どもたちや犬を連れ散歩する者たちが行き交っていたが、彼の姿には目もくれない。もっとも彼自身、それらが視界に入っても情報として脳に届くことは一切無かった。
午前中はカフェで仕事をしていた鞍吉だが、午後から和宏と交代になった。天気が良いので客足は途絶えず、副店長である釈七は当然引き続き居残っている。先にアパートに戻り、溜まった洗濯物でも片付けるべきだと考えはしても、どうしてもその気になれない。
光一郎と釈七に宥められ普段の生活では落ち着きを取り戻したものの、夢露が突きつけた言葉の澱は今も鞍吉の奥深くに留まっていた。
疑っている、信用していない──彼の過去や経験から、自身で「信じまい」と抑制していたこともある。が、意志とは裏腹に「信じ切って良い」とは到底思えなくなるような要因がひとつ、現在はあることも気付いている。
当の鞍吉にさえ影響を与えた、圧倒的に大きな存在。本人が想う想わないをよそに、誰にでも光と活力を降り注がせる太陽のような。
「帰り道の分からなくなった迷子が途方に暮れている、といった様子だな」
驚くほど、背後の気配は唐突だった。びくりと背筋を瞬時に伸ばして振り返る。声の主を認め、鞍吉の表情はますますげんなりと沈んだ。
「あんたって、一体どっから湧いてくるんだ」
さも愉快そうに肩を揺らして笑う様はどこか無邪気さも感じられるが、鞍吉にとっては今一番会いたくなかった相手だ。泣き出しそうな怒鳴りつけそうになるような、複雑な困惑顔をよそに、楽しげな含み笑いを夢露は零す。
「湧くとは失礼だな。どうにもお前とは縁がありそうなんでな」
「はぁ、それはなんとも傍迷惑な話で」
目を合わせずに、鞍吉は返す。大体あそこまで精神的に追い詰めた者に対し、これほど気さくに話し掛けるなど神経を疑う。だが夢露はまったく意に介さず、不躾極まる態度で鞍吉の隣に座った。
「なんてな。なに、簡単な推測だ。さっきカフェを覗いたら宮城がいた。無論釈七もな。今日はイベントではないし、宮城がいるならお前は仕事を上がっているだろう。とはいえ、釈七が勤務中の間に奴のマンションには戻りづらい。先日のこともあるから、光一郎先生を頼って宮城家に行くのも気が引ける。ならば、釈七が上がる時間までカフェの近くで待つか。しかしカフェから姿を目視され、待っているとばれるのも気まずい。というわけで、お前はここに座ってぼんやりしていた、と」
さすがに、鞍吉は目を丸くして隣にある顔を見た。まるで彼がカフェを出てからずっと見ていたような口振りだ。しかも、自分はいつこの男に釈七と同居していることを洩らしたというのか。
「探偵かなんかっすか、あんた」
「まさか。以前も言っただろう、お前のことを気に掛けていると。見ていればそれくらい分かる。お前、案外分かりやすいからな」
そんなに見られていた記憶もないけど。言いそうになった口を噤む。先日は鞍吉の暴かれたくもない本心まで抉った男だ。これくらいの憶測は実際容易いのかもしれない。猜疑の目を再び逸らした鞍吉の横で、夢露は楽しげにクツクツと笑い続けている。
「で?俺になんか用すか」
「そうだな、ナンパでもしようと思って」
「はああぁ?!」
逸らした視線を再度向ける羽目になった。言葉の内容は理解できても、なぜここでその単語を口にしたのか意味不明だ。毒気に当てられあんぐりと口を開いたまま、鞍吉は腰を引いた。
「なんだその反応。俺にナンパされるんだ、喜べよ」
「…………間に合ってますさようなら」
立ち上がり、即座に離れ去ろうとした腕を素早く掴まれる。振り払おうとしたが、体勢のせいかそれができない。
「暇なんだろお前。だったら、少しくらい付き合えよ。この間の詫び、でもある」
夢露の顔からわずかに笑みが引いた。握った手にも、口調の割に強引さは無い。奇妙な感覚に、つい首を縦に振ってしまう。
「ま、まぁ、ちょっとくらい、なら」
「よし、ナンパ成立な」
急に力がこもり、鞍吉の腕を引いて夢露は歩き出した。変化の早さについていけない。
「ちょっ、別にナンパにひっかかたんじゃっ!」
「エスコートしてやってるんだよ、気にするな。楽しそうにしてろよ」
「気にするなって、そんなん無理だ!!」
おたおたと引きずられる鞍吉を振り返った笑顔は、やたらと美しい。以前感じた冷酷さが今は見えない。それどころか、久々の外出を待ちに待っていた子どものような浮かれた様相さえ垣間見える。鞍吉にすればそんな姿も、尚得体が知れなくて及び腰になる。
「安心しろ、良いところに連れていってやるから」
「あっ、安心できませんいろんな意味で!」
これまでの経緯はなんだったんだ、と叫びたくなるのを辛うじて飲み込み、どうにか歩を進める鞍吉。前を行く夢露は細々とした路地を入り、やがて住宅地の狭間のような人気の無い場所に辿り着く。
一挙に不安が押し寄せる。「もう夢露とは関わるな」と言った釈七の声が、鞍吉の頭に響いた。軽率に応じた判断を悔やむ。
「ここだ」
木製の扉は怪しさこそ感じないが、連なる窓は若干歪んで薄暗い。ギィ、と軋んだ音を立てた狭い入り口から恐る恐る顔を覗かせると、香ばしく芳しい香りが鼻を掠めた。
「き、っさ、てん?」
「あぁ。『sweet smack』以外の店も、たまにはいいだろ?」
『sweet smack』にももちろんコーヒーは置いているが、基本的にケーキ類がメインだからかここまで濃密な豆の香りはしない。
明らかにこの場で焙煎し、挽き立てを淹れている薫香。見るからに年季の入ったカウンターと古めかしい椅子。少し煤けたようなガラス窓が、初夏の日差しを柔らかく遮っている。外観の印象より店内は広く、奥まったテーブル席に外光は届かないが、代わりに暖色のレトロなランプから程良く灯りが落ちていた。
「いらっしゃいませ」の声こそ無いが、夢露と顔を合わせ頭を下げたマスターは穏やかな笑顔で、そんなところも含めて心地の良い静けさが満ちた場所だ。
「へぇ、意外とまともだ」
ほっと息を吐くも、テーブル席に夢露と向かい合って座った鞍吉の肩肘はまだ固い。カウンター席でカップ片手に新聞や文庫本を広げている客を、きょろきょろと窺い見る。
「そんな緊張するなって。俺まで緊張する」
微笑を浮かべて頬杖をつく姿に、緊張などまったく感じられないが。所在に困り、これまた年季がかった革張りのメニューを広げる。
「俺の奢りだ、好きなもの頼め」
コーヒーの品種名がずらっと並んでいる。飲み比べたことなどない鞍吉に味の差なんて見当も付かない。転じて甘味の欄に目を走らせると、こちらの種類は幾つもなかった。チーズケーキにクラシックショコラ、それにカスタードプティング。好物の名称に軽く喉が鳴る。だが夢露の前でプリンを所望するのは控えておきたい気がした。
「ち、チーズケーキ、と、ブレンド」
メニューで顔半分を隠しながらぼそぼそ鞍吉が口にすると、夢露は慣れた調子でカウンター内のマスターに注文を伝えた。
日曜は五月晴れとなった。久々の日照に、心なしか外を出歩く人の姿も多く見える。
広大な桜公園の端、バイト先の「sweet smack」とは反対の方角にぽつんと外れて置かれたベンチに鞍吉は腰掛けていた。芝生を駆け回る子どもたちや犬を連れ散歩する者たちが行き交っていたが、彼の姿には目もくれない。もっとも彼自身、それらが視界に入っても情報として脳に届くことは一切無かった。
午前中はカフェで仕事をしていた鞍吉だが、午後から和宏と交代になった。天気が良いので客足は途絶えず、副店長である釈七は当然引き続き居残っている。先にアパートに戻り、溜まった洗濯物でも片付けるべきだと考えはしても、どうしてもその気になれない。
光一郎と釈七に宥められ普段の生活では落ち着きを取り戻したものの、夢露が突きつけた言葉の澱は今も鞍吉の奥深くに留まっていた。
疑っている、信用していない──彼の過去や経験から、自身で「信じまい」と抑制していたこともある。が、意志とは裏腹に「信じ切って良い」とは到底思えなくなるような要因がひとつ、現在はあることも気付いている。
当の鞍吉にさえ影響を与えた、圧倒的に大きな存在。本人が想う想わないをよそに、誰にでも光と活力を降り注がせる太陽のような。
「帰り道の分からなくなった迷子が途方に暮れている、といった様子だな」
驚くほど、背後の気配は唐突だった。びくりと背筋を瞬時に伸ばして振り返る。声の主を認め、鞍吉の表情はますますげんなりと沈んだ。
「あんたって、一体どっから湧いてくるんだ」
さも愉快そうに肩を揺らして笑う様はどこか無邪気さも感じられるが、鞍吉にとっては今一番会いたくなかった相手だ。泣き出しそうな怒鳴りつけそうになるような、複雑な困惑顔をよそに、楽しげな含み笑いを夢露は零す。
「湧くとは失礼だな。どうにもお前とは縁がありそうなんでな」
「はぁ、それはなんとも傍迷惑な話で」
目を合わせずに、鞍吉は返す。大体あそこまで精神的に追い詰めた者に対し、これほど気さくに話し掛けるなど神経を疑う。だが夢露はまったく意に介さず、不躾極まる態度で鞍吉の隣に座った。
「なんてな。なに、簡単な推測だ。さっきカフェを覗いたら宮城がいた。無論釈七もな。今日はイベントではないし、宮城がいるならお前は仕事を上がっているだろう。とはいえ、釈七が勤務中の間に奴のマンションには戻りづらい。先日のこともあるから、光一郎先生を頼って宮城家に行くのも気が引ける。ならば、釈七が上がる時間までカフェの近くで待つか。しかしカフェから姿を目視され、待っているとばれるのも気まずい。というわけで、お前はここに座ってぼんやりしていた、と」
さすがに、鞍吉は目を丸くして隣にある顔を見た。まるで彼がカフェを出てからずっと見ていたような口振りだ。しかも、自分はいつこの男に釈七と同居していることを洩らしたというのか。
「探偵かなんかっすか、あんた」
「まさか。以前も言っただろう、お前のことを気に掛けていると。見ていればそれくらい分かる。お前、案外分かりやすいからな」
そんなに見られていた記憶もないけど。言いそうになった口を噤む。先日は鞍吉の暴かれたくもない本心まで抉った男だ。これくらいの憶測は実際容易いのかもしれない。猜疑の目を再び逸らした鞍吉の横で、夢露は楽しげにクツクツと笑い続けている。
「で?俺になんか用すか」
「そうだな、ナンパでもしようと思って」
「はああぁ?!」
逸らした視線を再度向ける羽目になった。言葉の内容は理解できても、なぜここでその単語を口にしたのか意味不明だ。毒気に当てられあんぐりと口を開いたまま、鞍吉は腰を引いた。
「なんだその反応。俺にナンパされるんだ、喜べよ」
「…………間に合ってますさようなら」
立ち上がり、即座に離れ去ろうとした腕を素早く掴まれる。振り払おうとしたが、体勢のせいかそれができない。
「暇なんだろお前。だったら、少しくらい付き合えよ。この間の詫び、でもある」
夢露の顔からわずかに笑みが引いた。握った手にも、口調の割に強引さは無い。奇妙な感覚に、つい首を縦に振ってしまう。
「ま、まぁ、ちょっとくらい、なら」
「よし、ナンパ成立な」
急に力がこもり、鞍吉の腕を引いて夢露は歩き出した。変化の早さについていけない。
「ちょっ、別にナンパにひっかかたんじゃっ!」
「エスコートしてやってるんだよ、気にするな。楽しそうにしてろよ」
「気にするなって、そんなん無理だ!!」
おたおたと引きずられる鞍吉を振り返った笑顔は、やたらと美しい。以前感じた冷酷さが今は見えない。それどころか、久々の外出を待ちに待っていた子どものような浮かれた様相さえ垣間見える。鞍吉にすればそんな姿も、尚得体が知れなくて及び腰になる。
「安心しろ、良いところに連れていってやるから」
「あっ、安心できませんいろんな意味で!」
これまでの経緯はなんだったんだ、と叫びたくなるのを辛うじて飲み込み、どうにか歩を進める鞍吉。前を行く夢露は細々とした路地を入り、やがて住宅地の狭間のような人気の無い場所に辿り着く。
一挙に不安が押し寄せる。「もう夢露とは関わるな」と言った釈七の声が、鞍吉の頭に響いた。軽率に応じた判断を悔やむ。
「ここだ」
木製の扉は怪しさこそ感じないが、連なる窓は若干歪んで薄暗い。ギィ、と軋んだ音を立てた狭い入り口から恐る恐る顔を覗かせると、香ばしく芳しい香りが鼻を掠めた。
「き、っさ、てん?」
「あぁ。『sweet smack』以外の店も、たまにはいいだろ?」
『sweet smack』にももちろんコーヒーは置いているが、基本的にケーキ類がメインだからかここまで濃密な豆の香りはしない。
明らかにこの場で焙煎し、挽き立てを淹れている薫香。見るからに年季の入ったカウンターと古めかしい椅子。少し煤けたようなガラス窓が、初夏の日差しを柔らかく遮っている。外観の印象より店内は広く、奥まったテーブル席に外光は届かないが、代わりに暖色のレトロなランプから程良く灯りが落ちていた。
「いらっしゃいませ」の声こそ無いが、夢露と顔を合わせ頭を下げたマスターは穏やかな笑顔で、そんなところも含めて心地の良い静けさが満ちた場所だ。
「へぇ、意外とまともだ」
ほっと息を吐くも、テーブル席に夢露と向かい合って座った鞍吉の肩肘はまだ固い。カウンター席でカップ片手に新聞や文庫本を広げている客を、きょろきょろと窺い見る。
「そんな緊張するなって。俺まで緊張する」
微笑を浮かべて頬杖をつく姿に、緊張などまったく感じられないが。所在に困り、これまた年季がかった革張りのメニューを広げる。
「俺の奢りだ、好きなもの頼め」
コーヒーの品種名がずらっと並んでいる。飲み比べたことなどない鞍吉に味の差なんて見当も付かない。転じて甘味の欄に目を走らせると、こちらの種類は幾つもなかった。チーズケーキにクラシックショコラ、それにカスタードプティング。好物の名称に軽く喉が鳴る。だが夢露の前でプリンを所望するのは控えておきたい気がした。
「ち、チーズケーキ、と、ブレンド」
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