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第四章
宵の明星・6
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◇◆◇
「せのを荘」を出て川の上流方面へ更に上ると、道が二手に分かれている。
といっても、引き続き舗装された状態で川岸から離れていく右手の道に対し、左手の道にアスファルトはない。間隔はやや細くなり、ガードレールも途切れていた。
「こっちの道へ行くと、迂回して山を下る。こっから先上るのは、この登山道だな」
無論俺が知る頃には、どちらにも「道」と呼べるものなどなかったが……旅館のフロントに置かれていたトレッキング用の簡易地図を見ながら、慈玄が言う。
現在「迦葉山とされる」山は、実を言えばそれほど標高は高くない。人間の足でもここからなら小一時間もあれば、「頂上」まで到達できる。装備も、カジュアルパーカーにスニーカーという軽装で全く問題ない程度。
しかし本当の「天狗の霊峰」は、その奥深くにこそ存在していた。意外なことだが、天狗の住む山とされる場所は、迦葉と同じように決して高山とは言えないところも多い。万年雪が残り、背丈の低い植物しか育たないような難所では、人間同様天狗が「生活する」のにも不便だからだ。
「とりあえず行ってみるか」
二人は登山道へ踏み入った。
川幅は狭まったが、道に平行した水流はかなりの勢いだ。その脇を通る小径は川面より3メートルほど高い位置にあった。誤って踏み外さないよう柵代わりにロープが張られているが、並んで歩くには少々危なげである。和宏の手を握り、慈玄が先に立つ。慎重に歩を進めると、向かう先から瀑布の音がこだまする。
「滝だ」
和宏が感嘆の声を上げた。高いところから一筋の水が急落する形ではなく、数段に分かれた岩肌を流れ落ちるものなので、轟々と水煙をあげて、という感じではないが、段差ごとに細かく散る飛沫が、木漏れ日を乱反射させて美しい。
「こういう景色の中にいると、すごく自然に囲まれてる、って思えるよなー」
空いた腕を上に伸ばし、んー、と深く息を吸い込む和宏。笑みを浮かべてその様子を見守っていた慈玄。だが次の瞬間、急に繋いだ手を引き寄せた。庇うように自分より一回りも小さな身体を抱きすくめる。
パシン、という破裂音が、和宏の頭上で響いた。
「……え?な……何?今の」
視線を巡らしても、和宏にはなにも見えない。ただ、彼を抱き締めたままの慈玄の表情は険しいものへと変わっていた。チッ、と舌打ちをひとつ。
「……やっぱり。のんびり旅行を楽しませちゃくれねぇ、ってわけか」
鬱蒼とした雑木林の間、虚空を睨みながら慈玄が独りごちる。
一般参拝者が訪れる弥勒寺本堂は、川を挟んだ反対側の、山の中腹に鎮座する。つまり、こことは逆方向の斜面だ。慈玄は当初、山頂を経て弥勒寺へ下り、温泉街を通ってせのを荘に戻るルートで散策しようと考えていた。こちらの登山道は人影疎らとはいえ、もう少し上部へ行けば寺側からの道と交錯する。行楽シーズン故、トレッキングをする観光客も少なくはないだろうと。
しかしその「人の目」がむしろ徒となった。弥勒寺まで行けば、退魔の結界がひととおり張られている。一応は封印が施されている「アレ」くらいは、容易く防げるはずだった。ここはあまりにも無防備すぎる。
急ぎ寺に向かうべきなのだが、未だ陽は高く、誰か人間に見咎められる恐れがある。そういう理由で和宏を抱えて「飛んで」ゆくことができない。かくなる上は……
「和、ちょっとこっち来い!」
状況が掴めず目を白黒させている和宏を伴い、慈玄は滝と逆の、木々の間を分け入った。そして素早く少年を抱き上げると、突如現した黒い翼をばさりとはためかせたのだった。
◇◆◇
いかにも古びた木造の建物は、見た目こそ寺院に似ているが、堂の中にはなにも無い。元よりなんの塗装もされていなかったと思われる柱や板張りの床は、風雪に晒されてか、白茶けた木目を浮かび上がらせていた。さりとて天井に蜘蛛の巣はおろか、床や桟にも目立った埃はなく、寂れ果てた様子はない。どうやら誰かが、定期的に清掃を行っているようだ。狭いながらも砂利の敷かれた境内にも、雑草や枯葉はほぼ見当たらない。
現世と隔離されたような光景を、和宏は見渡した。
あの大きな翼がよくも幹にぶつからないものだと感心するほど、慈玄は低空飛行で林の間を縫ってここまで来た。空を飛んでいたのは、ものの数分にも満たなかった。あんな短時間であれば、仮に羽音を耳にしたりその残像を目にしても、何人も少しばかり大きな野生動物が通り過ぎたくらいの認識しか持つまい。
「昔はもうちっとまともな山寺だったんだがな?今は行脚僧も修験者もほとんど存在しねぇからなぁ」
慈玄が言うには、この寺は過去、各地を行き交う旅の僧や山伏が足を休める場所だったらしい。誰もが参拝できる弥勒寺と違い、地図にも記されていなければ続く参道もない。境内の周囲は木々がのしかかるように生い茂っているのみで、門はおろか敷地に入り込めそうな道幅もまったく見当たらなかった。それこそ「上空から」しか辿り着けないのではないかと思うほど。
和宏を連れてここまで来たのは、慈玄にとっては苦渋の選択だった。本来ならば「普通の人間」が足を踏み入れて良い箇所ではない。なぜならこの寺こそが……
「せのを荘」を出て川の上流方面へ更に上ると、道が二手に分かれている。
といっても、引き続き舗装された状態で川岸から離れていく右手の道に対し、左手の道にアスファルトはない。間隔はやや細くなり、ガードレールも途切れていた。
「こっちの道へ行くと、迂回して山を下る。こっから先上るのは、この登山道だな」
無論俺が知る頃には、どちらにも「道」と呼べるものなどなかったが……旅館のフロントに置かれていたトレッキング用の簡易地図を見ながら、慈玄が言う。
現在「迦葉山とされる」山は、実を言えばそれほど標高は高くない。人間の足でもここからなら小一時間もあれば、「頂上」まで到達できる。装備も、カジュアルパーカーにスニーカーという軽装で全く問題ない程度。
しかし本当の「天狗の霊峰」は、その奥深くにこそ存在していた。意外なことだが、天狗の住む山とされる場所は、迦葉と同じように決して高山とは言えないところも多い。万年雪が残り、背丈の低い植物しか育たないような難所では、人間同様天狗が「生活する」のにも不便だからだ。
「とりあえず行ってみるか」
二人は登山道へ踏み入った。
川幅は狭まったが、道に平行した水流はかなりの勢いだ。その脇を通る小径は川面より3メートルほど高い位置にあった。誤って踏み外さないよう柵代わりにロープが張られているが、並んで歩くには少々危なげである。和宏の手を握り、慈玄が先に立つ。慎重に歩を進めると、向かう先から瀑布の音がこだまする。
「滝だ」
和宏が感嘆の声を上げた。高いところから一筋の水が急落する形ではなく、数段に分かれた岩肌を流れ落ちるものなので、轟々と水煙をあげて、という感じではないが、段差ごとに細かく散る飛沫が、木漏れ日を乱反射させて美しい。
「こういう景色の中にいると、すごく自然に囲まれてる、って思えるよなー」
空いた腕を上に伸ばし、んー、と深く息を吸い込む和宏。笑みを浮かべてその様子を見守っていた慈玄。だが次の瞬間、急に繋いだ手を引き寄せた。庇うように自分より一回りも小さな身体を抱きすくめる。
パシン、という破裂音が、和宏の頭上で響いた。
「……え?な……何?今の」
視線を巡らしても、和宏にはなにも見えない。ただ、彼を抱き締めたままの慈玄の表情は険しいものへと変わっていた。チッ、と舌打ちをひとつ。
「……やっぱり。のんびり旅行を楽しませちゃくれねぇ、ってわけか」
鬱蒼とした雑木林の間、虚空を睨みながら慈玄が独りごちる。
一般参拝者が訪れる弥勒寺本堂は、川を挟んだ反対側の、山の中腹に鎮座する。つまり、こことは逆方向の斜面だ。慈玄は当初、山頂を経て弥勒寺へ下り、温泉街を通ってせのを荘に戻るルートで散策しようと考えていた。こちらの登山道は人影疎らとはいえ、もう少し上部へ行けば寺側からの道と交錯する。行楽シーズン故、トレッキングをする観光客も少なくはないだろうと。
しかしその「人の目」がむしろ徒となった。弥勒寺まで行けば、退魔の結界がひととおり張られている。一応は封印が施されている「アレ」くらいは、容易く防げるはずだった。ここはあまりにも無防備すぎる。
急ぎ寺に向かうべきなのだが、未だ陽は高く、誰か人間に見咎められる恐れがある。そういう理由で和宏を抱えて「飛んで」ゆくことができない。かくなる上は……
「和、ちょっとこっち来い!」
状況が掴めず目を白黒させている和宏を伴い、慈玄は滝と逆の、木々の間を分け入った。そして素早く少年を抱き上げると、突如現した黒い翼をばさりとはためかせたのだった。
◇◆◇
いかにも古びた木造の建物は、見た目こそ寺院に似ているが、堂の中にはなにも無い。元よりなんの塗装もされていなかったと思われる柱や板張りの床は、風雪に晒されてか、白茶けた木目を浮かび上がらせていた。さりとて天井に蜘蛛の巣はおろか、床や桟にも目立った埃はなく、寂れ果てた様子はない。どうやら誰かが、定期的に清掃を行っているようだ。狭いながらも砂利の敷かれた境内にも、雑草や枯葉はほぼ見当たらない。
現世と隔離されたような光景を、和宏は見渡した。
あの大きな翼がよくも幹にぶつからないものだと感心するほど、慈玄は低空飛行で林の間を縫ってここまで来た。空を飛んでいたのは、ものの数分にも満たなかった。あんな短時間であれば、仮に羽音を耳にしたりその残像を目にしても、何人も少しばかり大きな野生動物が通り過ぎたくらいの認識しか持つまい。
「昔はもうちっとまともな山寺だったんだがな?今は行脚僧も修験者もほとんど存在しねぇからなぁ」
慈玄が言うには、この寺は過去、各地を行き交う旅の僧や山伏が足を休める場所だったらしい。誰もが参拝できる弥勒寺と違い、地図にも記されていなければ続く参道もない。境内の周囲は木々がのしかかるように生い茂っているのみで、門はおろか敷地に入り込めそうな道幅もまったく見当たらなかった。それこそ「上空から」しか辿り着けないのではないかと思うほど。
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