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第四章
宵の明星・5
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◇◆◇
江戸期の宿場町を思わせる旅館群は駅から数分のところに連なっていたが、やがて途切れ、渓流沿いの道を歩く。二人の目指す旅館は、建物が密集する区域からやや離れていた。川のせせらぎを耳にしながら登り坂を行くと、やがて木々の狭間に二階建ての景観が現れた。
まだ新築に近い様相の、モダンで落ち着きのある和風建築。数台分の駐車スペースを経て、枯山水風の庭園を設えている。地面に置かれた灯籠型のランプが、足下をほんのりと照らしていた。後で聞いたところによると、山荘を近年改装したものだという。
立地が駅から若干離れているためか宿泊料金的にはずば抜けて高級な部類ではないが、センスの良い穴場旅館として、インターネットなどでの評判も上々だった。
「といってもね、お年寄り達には『古さ』を有り難がる人も多いから。うちはまだまだ駆け出しの方なのよ」
仲居に荷物を運ぶよう指示を出し、女将が艶やかに笑う。
「いらっしゃいませ。まさか、あなたがここに宿泊することがあるなんてね」
「俺だって真砂から聞いたときは驚いたさ。何が縁するかわかったもんじゃあねぇな」
帰山はしばらくしていない、と言った慈玄が、その地の旅館女将と親しげに会話するのを目の当たりにして、和宏はおろおろと二人の顔を見比べる。
「またずいぶん可愛らしい子を同伴しちゃって。昔から可愛い子には目がなかったものねぇ」
「人聞きの悪ぃこと言うなよ。あぁ和、実はこいつ、俺の……その、古い知り合い、でな?」
「女将の瀬尾です。本日はようこそおいでくださいました」
女将は先に立って部屋へ二人を案内すると、後から入室して三つ指をついた。年頃は三十代半ば、薄化粧で地味めの小紋を着流してはいるが、たおやかな色気に満ちた日本美人だ。
「古い、しりあい?」
和宏の訝しげな視線を受けて、女将が微笑する。
「この子にどこまで教えたの、慈玄?」
「俺が人間じゃねぇ、とこまでは。まぁそのへんはいいだろ?俺からちゃんと説明すっから」
「それもそうね。お夕食は七時頃こちらにお持ちしますから、どうぞごゆっくり」
くすくすと艶っぽい含み笑いを残して、女将は部屋を下がった。
「美人だね、女将さん」
閉まったふすまを見ながら、和宏が訊ねる。
「知り合い、ってことは、あの人も妖怪?」
「いや、ありゃあ『今は』人間だ」
「じゃあ、鞍と同じ?」
鞍吉が『元妖』、すなわち現在は人間だが前世が妖だった者だということは、和宏は事前に慈玄から聞いていた。
慈玄の正体を認識した後、真っ先に和宏が気になったのは「鞍吉との因果」だ。慈玄が鞍吉を「昔から気に掛けていた」ことは彼の口から聞いて承知していた。だから、「鞍吉もやはり人ではないのか」と。答えは否、だった。
「妖は人間のように老衰して死ぬこたぁまずねぇが、力のある術者に祓われたり、妖同士の諍いで食ったり食われたりされて、消滅する場合はある。そういった奴等が人間に生まれ変わってくることがあるんだ。魂は弱化してるから、特殊な力を備えて転生するのはまれだが、それでも過去の記憶が鮮明に残っていたり、知らず知らず環境や人間関係に影響を及ぼしたりはままある。鞍はそうやって、『人間に生まれ変わった』中の一人、だな」
慈玄の説明に、和宏は目を丸くした。
「え、じゃあ、今は人間でも前世が妖怪だった人が割といる、ってこと?」
「数はさほど多くない。が、縁は並の人間より深ぇから、俺等みてぇな生き残りの妖の周辺や、元妖同士は結構関わり合いが多い」
そもそも妖は人間と違い、親から子、子から孫、と代々続くものではない。故に縁故がない場合は大抵孤立していると、慈玄は付け加えた。
「あの女将は元飛縁魔だ。飛縁魔は僧侶などの聖職者に色欲を誑かす妖怪だが、あいつは自ら貞節を貫くことで過去の因縁を断ち切ったらしい。今となっちゃ、旦那に尽くして旅館を切り盛りしてる、というわけだ」
和宏には、慈玄の言葉は突飛すぎてなんとなくしか分からない。だが、感覚の敏さで理解力は十分補えた。
「つまり、今は旦那さんとその、ラブラブ、なんだ」
「そういうこった。だから俺ぁ、ただの知り合いだよ」
「べ、別になにも疑ってないけど。あ!この部屋露天風呂がある!!」
妬いたと思われたのが恥ずかしかったのか、すかさず和宏は話題を変えた。この旅館、「せのを荘」の客間は全十数室だが、そのうちの約半数に部屋付きの露天風呂が設置されている。ガラス戸を開けるとウッドデッキになっており、木桶型の浴槽に湯がふんだんに湛えられていた。
「入ってみても、いい?」
今にも服を脱ぎ始める勢いで、うずうずと和宏が伺いを立てる。こういうときの少年は、実年齢よりよほど幼く見えた。
「それもいいが、明るいうちに表を見て来ねぇか?見てみてぇんだろ、俺の、思い出の場所」
慈玄が指摘すると、和宏はあ、と小さく洩らして頬を赤らめた。
「う、うん!戻ったら一緒に入ろうな!」
── 情交の時に見られるのは恥ずかしがるのに、同じ裸でもやっぱり風呂は抵抗ねぇんだな。
そんな和宏の純粋さが、慈玄には実に微笑ましい。
この時点では彼もまだ、この場所がかの天狗山からほど近いという事実を置いて、単純に旅気分を満喫する心づもりだったのだ。長閑な情感を脅かす「モノ」が、音も立てず忍び寄るのも知らずに。
江戸期の宿場町を思わせる旅館群は駅から数分のところに連なっていたが、やがて途切れ、渓流沿いの道を歩く。二人の目指す旅館は、建物が密集する区域からやや離れていた。川のせせらぎを耳にしながら登り坂を行くと、やがて木々の狭間に二階建ての景観が現れた。
まだ新築に近い様相の、モダンで落ち着きのある和風建築。数台分の駐車スペースを経て、枯山水風の庭園を設えている。地面に置かれた灯籠型のランプが、足下をほんのりと照らしていた。後で聞いたところによると、山荘を近年改装したものだという。
立地が駅から若干離れているためか宿泊料金的にはずば抜けて高級な部類ではないが、センスの良い穴場旅館として、インターネットなどでの評判も上々だった。
「といってもね、お年寄り達には『古さ』を有り難がる人も多いから。うちはまだまだ駆け出しの方なのよ」
仲居に荷物を運ぶよう指示を出し、女将が艶やかに笑う。
「いらっしゃいませ。まさか、あなたがここに宿泊することがあるなんてね」
「俺だって真砂から聞いたときは驚いたさ。何が縁するかわかったもんじゃあねぇな」
帰山はしばらくしていない、と言った慈玄が、その地の旅館女将と親しげに会話するのを目の当たりにして、和宏はおろおろと二人の顔を見比べる。
「またずいぶん可愛らしい子を同伴しちゃって。昔から可愛い子には目がなかったものねぇ」
「人聞きの悪ぃこと言うなよ。あぁ和、実はこいつ、俺の……その、古い知り合い、でな?」
「女将の瀬尾です。本日はようこそおいでくださいました」
女将は先に立って部屋へ二人を案内すると、後から入室して三つ指をついた。年頃は三十代半ば、薄化粧で地味めの小紋を着流してはいるが、たおやかな色気に満ちた日本美人だ。
「古い、しりあい?」
和宏の訝しげな視線を受けて、女将が微笑する。
「この子にどこまで教えたの、慈玄?」
「俺が人間じゃねぇ、とこまでは。まぁそのへんはいいだろ?俺からちゃんと説明すっから」
「それもそうね。お夕食は七時頃こちらにお持ちしますから、どうぞごゆっくり」
くすくすと艶っぽい含み笑いを残して、女将は部屋を下がった。
「美人だね、女将さん」
閉まったふすまを見ながら、和宏が訊ねる。
「知り合い、ってことは、あの人も妖怪?」
「いや、ありゃあ『今は』人間だ」
「じゃあ、鞍と同じ?」
鞍吉が『元妖』、すなわち現在は人間だが前世が妖だった者だということは、和宏は事前に慈玄から聞いていた。
慈玄の正体を認識した後、真っ先に和宏が気になったのは「鞍吉との因果」だ。慈玄が鞍吉を「昔から気に掛けていた」ことは彼の口から聞いて承知していた。だから、「鞍吉もやはり人ではないのか」と。答えは否、だった。
「妖は人間のように老衰して死ぬこたぁまずねぇが、力のある術者に祓われたり、妖同士の諍いで食ったり食われたりされて、消滅する場合はある。そういった奴等が人間に生まれ変わってくることがあるんだ。魂は弱化してるから、特殊な力を備えて転生するのはまれだが、それでも過去の記憶が鮮明に残っていたり、知らず知らず環境や人間関係に影響を及ぼしたりはままある。鞍はそうやって、『人間に生まれ変わった』中の一人、だな」
慈玄の説明に、和宏は目を丸くした。
「え、じゃあ、今は人間でも前世が妖怪だった人が割といる、ってこと?」
「数はさほど多くない。が、縁は並の人間より深ぇから、俺等みてぇな生き残りの妖の周辺や、元妖同士は結構関わり合いが多い」
そもそも妖は人間と違い、親から子、子から孫、と代々続くものではない。故に縁故がない場合は大抵孤立していると、慈玄は付け加えた。
「あの女将は元飛縁魔だ。飛縁魔は僧侶などの聖職者に色欲を誑かす妖怪だが、あいつは自ら貞節を貫くことで過去の因縁を断ち切ったらしい。今となっちゃ、旦那に尽くして旅館を切り盛りしてる、というわけだ」
和宏には、慈玄の言葉は突飛すぎてなんとなくしか分からない。だが、感覚の敏さで理解力は十分補えた。
「つまり、今は旦那さんとその、ラブラブ、なんだ」
「そういうこった。だから俺ぁ、ただの知り合いだよ」
「べ、別になにも疑ってないけど。あ!この部屋露天風呂がある!!」
妬いたと思われたのが恥ずかしかったのか、すかさず和宏は話題を変えた。この旅館、「せのを荘」の客間は全十数室だが、そのうちの約半数に部屋付きの露天風呂が設置されている。ガラス戸を開けるとウッドデッキになっており、木桶型の浴槽に湯がふんだんに湛えられていた。
「入ってみても、いい?」
今にも服を脱ぎ始める勢いで、うずうずと和宏が伺いを立てる。こういうときの少年は、実年齢よりよほど幼く見えた。
「それもいいが、明るいうちに表を見て来ねぇか?見てみてぇんだろ、俺の、思い出の場所」
慈玄が指摘すると、和宏はあ、と小さく洩らして頬を赤らめた。
「う、うん!戻ったら一緒に入ろうな!」
── 情交の時に見られるのは恥ずかしがるのに、同じ裸でもやっぱり風呂は抵抗ねぇんだな。
そんな和宏の純粋さが、慈玄には実に微笑ましい。
この時点では彼もまだ、この場所がかの天狗山からほど近いという事実を置いて、単純に旅気分を満喫する心づもりだったのだ。長閑な情感を脅かす「モノ」が、音も立てず忍び寄るのも知らずに。
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