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第9章 第3話

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 本当に地震が起きた。
 本当に本州がふたつに割れた。
 本当に日本中が津波に呑み込まれた。

 銀色の髪や白い肌は雨に濡れ、赤い瞳は地獄のような光景を映している。
 葦原イズモ(あしはら いずも)は、目の前に広がる窓の外の光景に唖然とし、青ざめた顔で見つめていた。

 ひとつの島国が水没していくさまは、まるで映画か神話や伝説の中の出来事のようだった。

 そこは、雨野市内にある20階建てのマンションの18階、昨日までの10年間、誰も住んでいなかった部屋だった。
 彼はその日の真夜中に、そのマンションに移り住んできたばかりだった。

「この街に来れば、地震や津波から助かるとか、本当にそんなことがあるんだな」

 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
 あの女性(ひと)の言葉は本当だった、と彼は思った。
 雨野市は巨大地震が起きても一切揺れることはなく、津波に呑み込まれることもなかったからだ。

 東京から国道1号線をひたすら西に歩き、彼が雨野市内に入ったのは、2026年10月31日の午前2時過ぎ、真夜中のことだった。
 巨大地震の発生は、午前6時36分。
 到着が数時間遅れていたなら、今頃自分は瓦礫に押し潰され、津波に呑み込まれていただろう。


 3週間ほど前、彼の13歳の誕生日の夜、今日この日に巨大地震が起きることを彼に教えてくれた女性がいた。
 だから彼は今ここにいる。彼はその女性に心から感謝した。

 彼はその日、いつも通り渋谷にいて、暴徒に殺された人たちの死体を何体か1ヵ所に集めては、火をつけて燃やしていた。
 焼いていたのではなく燃やしていたのは、食べるわけではなかったからだ。
 そんなことは人間であることをやめた人間のすることだ。
 そこまでしてでも生きたいと思える理由も彼にはなかった。
 彼の行為は火葬であり、そして、秋から冬に移り変わろうする少し肌寒くなりはじめた夜に暖を取るためでもあった。

 彼には家がなかった。親もいなかった。4年前まで養護施設でそれなりに平和に暮らしていた。
 しかし、災厄の時代が訪れると、養護施設ではすぐに食糧の醜い奪い合いが始まった。どこにも行くあてのなかった彼は、醜い争いに加わることなく、空腹に耐えながらしばらくそこで過ごしていた。

 だが、ある日、施設の何人かの子どもたちが行方不明になった。
 先生と呼ばれ、こどもたちから慕われていた大人たちは、その子どもたちは施設を出ていったと説明したが、実際にはその大人たちが男女関係なく子どもたちを強姦したあとで殺害し、証拠隠滅と空腹を満たすためにその死体を喰らっていた。
 そのことを知った彼は、大人たちに殺される前に施設を出ることを決めた。

 それ以来、彼は渋谷を拠点にしていた。
 渋谷の夜の街中で死体を燃やしていると、暴徒はなぜか寄ってこなかった。人であることをやめてしまった彼らは、獣のように火を怖がるようになってしまったのかもしれなかった。

「あなた、葦原イズモくんでしょう?」

 死体を燃やす火で暖を取る彼に、突然声をかけてきた女性がいた。
 一度も会ったこともない、見知らぬ女性だった。

 この災厄の時代に似つかわしくない、まったく汚れのないきれいな衣服を着ており、控えめだが化粧もちゃんとしていた。長い黒髪はしっかりと手入れされており、艶があり美しかった。
 その顔も声もとてもきれいで、その立ち振舞いはいかにも大人の女性という感じだった。
 香水のにおいなのか整髪料のにおいなのか、いいにおいがした。
 この4年間、渋谷では見かけたことがない、不思議な女性だった。

「あなたに大切な話があるの。あなただけに教えるわ。他の誰にも教えてはだめよ」

 その女性はそう言うと、10月31日の早朝に地震が起きること、本州が真っ二つに割れ、津波で日本中が水没することを教えてくれた。

「だけど、ここに行けば、あなたは地震からも津波からも自分の身を守れるわ」

 マンションの住所が書かれたメモといっしょに、水や食糧などが入った災害用のリュックを渡された。新品の衣類を何着かとスニーカーも二足くれた。
 暴徒から身を守るための防刃・防弾チョッキや、スタンガンや警棒などもくれた。

「どうして、あなたは俺にこんなにしてくれるんですか? 俺だけを助けようとしてくれるんですか?」

 本州が真っ二つに割れるほどの巨大地震や、日本中が津波に飲まれるといった予言めいた彼女の言葉は信じられなかったが、施設を出てから、いや、生まれてから15年、こんなに人に優しくされたり特別扱いされたことは、今までの人生で一度もなかった。

 まさか、こんなにきれいで若々しく優しい女性が、自分を捨てた母親やその親族というわけではないだろう。
 自分を捨てた親なんて、きっと何の計画性もなく子作りをするような馬鹿な人間で、一応生んではみたものの、いざ子育てが始まると育てることなど到底できないとわかり、施設の入り口の前に自分を捨てることにしたに違いない。かなり偏見が入っているが、彼はそんな風に考えていた。
 むしろそんな親に育てられ、虐待やネグレクトをされたり、その挙げ句殺されてしまうくらいなら、捨ててくれたことを感謝したいくらいだった。

 金持ちの道楽とも思えなかった。
 金にはもう何の価値もない時代だからだ。
 彼が渡された品々は、どれも闇市で手に入れることができるだろうが、そのためには闇市の売人に相当な食糧を渡さなければいけなかった。
 相当な食糧とは、売人やその家族が一週間は生活できるだけの何人分かの人肉だ。ただの死体ではいけない。血抜きし解体まで済ませ、一目ではそれが人肉だとわからないようにしたものでなければいけなかった。売人の家族が人肉を調理して食べるという行為に対する抵抗を少しでも和らげてやらなければいけなかった。

「暴徒に殺された人たちをこうやって毎日のように弔ってあげているあなたの心の優しさが理由といったら理解してくれる?」

 その女性は、彼の問いに対し、はぐらかすように応え、微笑んだ。
 本当の理由があるはずだったが、話したくないのだろうと思った。だから彼はそれ以上訊ねることはやめた。

「地震も津波も、日本中でその街だけを回避する。その街はそういう街なの」

 最初はもちろん信じなかった。
 信じられるわけもなかった。
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