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第65話 玄冬

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――止むことの無い吹雪の中、青年は皮だけになったやせこけた笑顔で袖から服を抜いた。

『寒くないかい。俺は大丈夫だから、君がこの毛布と服を使うんだよ。見たところ君はまだ肌色がいい。直に死んでしまう俺とは大違いだ』
  
 真っ白に横殴りの吹雪が洞穴に入ってなお渦を巻く。もう一週間以上になる。安心して眠れる洞穴を探し回っている内に孤児院から集めてきた荷物は殆ど濡れそぼって、毛布もオイルランプも寝袋も、既に防寒具とは言えない程に能力は落ちていた。食事はもう既に枯渇し、例え必死に雪の斜面を掘り起こそうとも、既に秋の頃リスたちが埋めたドングリさえなくなっていた。
 しかしこの死にかけの青年にとって幸せだったのは、既にこの青年が低体温にあって指先に触れる物の温度がわからなくなっていることだった。青年は受け継いだ荷物を健気にも目の前の少女を活かす為に手解きをしていた。それが終わればもう眠ってもいいとさえ感じていた。少年は使命感で春夢の永遠との誘惑から抗っていた。

『食べ物はほんの少しの乾いたパンと、ホットチョコレートが一杯分だけある。こうして、石を掠ると火花が出る。これをストーブのつまみを少し回してから近付けるんだ。最初は見えない火が出ているからもし炎が見えなくても触っちゃいけない。火が出来たら、枯れた小枝のできるだけ乾いてるのを集めてくべるんだ。そしたら、火が安定出来る。もしなかったらここにある服を燃やすんだ』

 青年は自らの袖を引っ張りながらそう説明する。少女は唖児なのか、小さく頷くだけである。

『食べ物は他にない。ごめん。でも食べ物がなくなれば俺を食えばいい。村の奴らに食われるより、君の血肉になる方がずっとマシだ。……それにしても、君は何者なんだい?』

 一通りの説明が終わり、力尽きた横たわった青年は少女に訊く。しかし少女は無垢にも説明された簡素なストーブに興味を引かれたのか、機械いじりに夢中になり青年の言葉には耳を傾けることはない 。
 その無垢さに青年は久しぶりに温かい気持ちが胸に込み上げるのを感じた。もう久しく触れることなかった人間的感覚だった。

『――ふふ』

 やがて青年は満足したように冷たい岩に身を預けた。鼓動が弱まっている。肉体から伝わる波動が刻々と消え失せていた。それでも満足していたのは、少女が自らの教授した通りにストーブを扱い、かちゃかちゃと不器用な音を立てながら極めて旨そうに炙ったパンと湯気の立つホットチョコレートを口へ運んでいたからだった。これであの子は俺よりも長い時間を生きていく。吹雪が止むまで足りるだろうか、足りないだろう。けれどその時は俺の肉を食らえばいい。
……時間という感覚は不思議だ。孤児院の中で餓死を待つだけの時はあんなにも苦しい時間が長く続いていたのに、今こうして静かに流れる時間は穏やかで――永遠だ。
 静かな気持ちだった。終わり。向こう側に融けていく神経の感覚。繋がっている境界線が入れ替わる。そこにあって手の届かない大いなる者に抱かれる、その実感で満たされていく。

『あなた、名前は?』

 ふと、消え失せかけていた肉体に精神が呼び戻される。
 声は、なんとなく少女のものであるとわかった。

『カリナ。ファミリーネームはまだ貰ってない』
『欲しいものは?』

 カリナには、言っている意味がわからなかった。極寒の絶望と越冬することは絶望的な物資不足の飢餓の中、少女は己に欲するものを訊く。
 問い掛け、神託、お告げ、そんなお伽噺めいたことを思ってカリナは苦笑した。そんなに都合の良いことはどこにもない。この場にあるのは、貧困と断絶の吹雪の檻だった。

『……』

 カリナの脳裏に飛び回ったのは、やはり友人達のことだった。ハンス、マリア、レヴヴェッロ、ティエーナ、ミルユ、他にも沢山の、まだ名前もない子供達。俺だけを森の奥へ逃がす為に、皆が大切なものを託してくれた。大事な一つしか持っていない人形を泣きながら渡してくれた子もいる。俺達は、生き延びることを諦めた。その中であって、一人だけを選び抜いた。絶対に生き残ることを、絶対に生き残ることを……誓った。
 けれど、現実は、どうだ。
 必死に探した。
 食べられるものを、木の切れ端でも、草でも、死骸でも良かった。
 大切な人形に火を付けながら、小さな灯りで眠った。
 日々小さくなっていく荷物を顧みながら歩き続けた。
 でも、なかった。
 もう食べられるものも、火を付けられる乾いた枯れ木すら。
 同じく飢餓の森の動物たちが食べたのだろう。人間の領域ではなかった。
 甘かった。何も知らない子供だった。力不足だ。
 誓いは果たせない。
 今もう既に肉体は限界を迎えた。明日の朝、もし吹雪が止んだって間に合わないだろう。
 けれどもし、けれどもし――一つだけ願いに縋っていいのなら。

『運命だ。運命が欲しい』

――カリナ、頼んだよ。
――行ってらっしゃい。もし生きていたらまた。
――お兄ちゃん、どこ行くの?
――さよなら。あなたに加護がありますように。
――嫌だ! 私も連れてってよお。森にはごはんあるんでしょ~!
――……お前はずるいよ。カリナ、皆お前を恨んでる。早く死んじゃえ。

「行ってくる。頼んだぞ。ハンス、マリア」
「うん。任せろ。カリナ」
「もしダメだったら、その時はいつでも……ううん」
「……何か言ったか?」
「ううん、なんでもないわ。いってらっしゃい。幸運を。さようなら」
「本当に、すまない」

『諦めなければ、なんとでもできる運命を。――俺さえ苦しめば、未来を変えられる力が――それさえあれば』
『力を望むの?』
『ああ、欲しい! 俺は欲しい! 運命が欲しい! 願えば、その分の代償を払えば願いが叶う運命の力が――!』

――あなたが願うのならば、叶えましょう。
  けれどあなたの望みは、決して消えることはない。
  その運命からもう逃れることは出来ない。
  それでも望むの?

『望むさ! それで救えるなら! 俺はやってみせる! 俺がやってみせる! 俺は託されたから――やってみせる!』



 古びた扉を蹴破る音が教会に響き渡った。
 息を切らしてカリナは月明かりに照らされた教会の暗闇を見回すと、その中へ一歩踏み入れた。

「どこだ……! レイカ! いるのか!? 大丈夫か? 俺だ、カリナだ――! レイカ!」

 倒れ伏した十字架を妖精が舞うように塵が光る。
 風化した天井には肝胆を砕いた声が突き抜ける。
 それは獣の咆哮だった。生き別れた娘を探す孤独な遠吠えだった。
 声に応えるように朽ちた椅子が軋みをあげて倒れ、カーテンはレールから落ちて銀河の中に教会は取り込まれて漂っていた。
 ふと、舞台の袖から気配があった。
 カリナはぴたりと動きを止めて、暗がりの上手を注視していた。

「レイカ……」

 袖のドアの奥に、赤い瞳が浮いていた。
 中学生か、もしくはもう少し背の低い少女だ。
 月明かりに反射する赤い光、そして月明かりにはくものはない程の流麗な金糸銀糸の髪が小さな足音を立てて恐る恐る……そこで立ち止まった。
 カリナは息を呑んで、くらくらするような拍動の高まりが胸を拍っていた。

「あ――あ――」

 間違いはない。
 あの髪は、あの瞳は、あの立ち姿は。
 
「レイカ! レイカ――! どこにいたんだ! 絶対に離れるなと言ったのに――」

 カリナは胸を押さえると、身悶えするかのように少女に近寄る。それは聖母の前に項垂れる使徒達の姿に似ていた。
 少女はカリナの瞳をジッと見つめたまま動かない。

「どうしたんだ? レイカ。カリナだ、わかるだろう? 俺だ、俺だ」

 カリナはその両手を開き、少女の身体を抱きすくめようとした。
 しかし少女は一歩、その手を離れるように後ろへ引いた。
 少女は暗闇の中、その小さな指先をカリナの頬に沿わせた。

「ほとんど眠ってないのね。酷い肌。頬骨も痩せすぎて張り出してる、髪も伸びることが出来ずに途中で切れてるのね」
「レイカ――? レイカ、のはずだ。その姿は――な、なぜ、俺が、俺がわからないのか……?」
「よく見て」

 少女は小さく一言だけ告げる。
 スカートの裾を持ち上げ、少し目を伏せるとカーテシーの仕草を取った。
 身のこなしは嫋やかに、少女らしくも女性的に、高貴に、その仕草は洗練されている。

「は――」

 カリナは電撃に撃たれたように一歩飛び退くと、目の前の少女に向かって叫んだ。

「……! 君は、レイカじゃない! 偽物――か!!!」
「違う。本物の彼女もここにいる。今私があなたに最初に見てもらったのは、あることを確認する為。私が礼香ちゃんに見えたのね」

 少女の瞳が怪しく緩んだ。

「それがわかっただけでいい。良かった。カリナさん、あなたは悪い人じゃなかったのね」

 少女の声の届いたすぐ後、カリナは振り向いた。
 呼ばれるように振り向いた。
 もし理由があるとすれば、それは音だったかもしれない、それとも空気の流れが変わったことが過敏に感じ取れたのかも知れない、それとも匂いが、光が――。
 しかしそれは紛れもなく、血に呼ばれて、そう答えるのが最も正しかっただろう。
 倒れた十字架の隣に、もう一人の少女がいた。
 少女はゆっくりと、手のひらを希うように口を開いた。

「お父さん、ですか? 私の、お父さん、ですか」
「レイカ……!」

 ふらつくようにカリナは揺らめいて足を縺れさせて歩き出した。
 悠里はとどめを刺すように、後ろから言葉で背を押した。
 
「少し大きくなっているけれど、わかるでしょう? だってあなたの娘だもの。あなたに会うために、十年以上先の未来から来た」
 
 カリナはレイカの足下に力が抜けたように倒れ込んだ。
 レイカはその身体を抱きしめて受け止める。

「お父さん……ごめんなさい。あの日、火事の日。言いつけを破ってごめんなさい……!」
「――レイカ。生きていて、本当に良かった。レイカに会いたかった。生きていて良かった」

 それ以上語る必要は無かった、ただ二人の声、涙倶に下る声だけが教会の中を埋めていた。
 音もなく、教会の入り口に立つ影があった。そして、少女が待ち受けるようにそれに伴った。

「しーちゃん、言ってた意味、わかった?」
「ああ――。あの夜おじさんと居た俺達が襲われたのは、『悠里とレイカが余りにも似ていたから』か。妻と娘の仇であるおじさんが娘と一緒に居るように見えて我を失ったっていうのが答えだったんだな」
「そういうこと」
「確かに、これならあの一件が本当に事故だったって確かめられる」

 唖然とするしづるに悠里は悪戯っぽく微笑み、しづるは苦そうに口の端を上げて笑った。
 

「……これで終わったみたいな顔してるけどしーちゃん」
「わかってるよ」

 満たされたように一息の束の間を過ごして、しづるは頬を張ると足音を立てて進み始めた。
 しづるは神経が張り詰めるのを感じていた。一歩一歩踏みしめるに肩に力みが入るのがわかる。差し出された悠里の小さな手を握って、少しだけ視線を合わせる。
 ――できるよ、しーちゃん。
 悠里の表情はほんの少しだけ笑みを浮かべていた。瞳はそう言っている。
 こつ、こつ。
 踵が揃う。
 レイカは涙で真っ赤に腫らした視線をしづるに投げて、その手をカリナの背に回して紹介した。

「お父さん、しづるさんと悠里さんです。ここまで私を連れてきてくれた人」

 魔法使い、とレイカは言った。実際、特級の魔法使いだと思う。好き勝手に時間を巻き戻したり流れ星を呼び込んだり、絵本の中で見たような魔法そのものだ。
 けれど今の彼を恐れるのは違う。
 さっきまでは違ったかも、俺が敵意を見せればその即座この肢体は地面にばらまかれていただろう、だが凍った視線も背中に纏ったドス黒い覇気も今はない。
 それは単純に彼の牙が抜けたのではなく、礼香がその牙をそっと覆い隠して見せてくれているだけだ。
 俺達にどれくらいの時間が残されているのだろう、この狂った時間の流れに身を置いて、その渦に干渉するという離れ業をやってのけているこの異常に。その発生と術の渦そのものに自身を置いている悠里は自分たちよりも短いだろう。容易に想像できて然るべきだ。
 ……では、この俺は、桜庭しづるはどのように動けば良いだろう? 

「桜庭しづるです。今日はあなたと交渉をするために来た。だから、話を聞いてほしい」 

 しづるは手を伸ばす。
 一つの解答が意識の上澄みに表出していた。直感的でなく、経験的にでもなく、蓋然的に仕組まれた必然。自明に瞭然で、そうなるだろうという予測だ。

――何か恵まれたい、特別になりたい。ずっと回ってきた、諦めてきた。ただの人間の俺は壮大な岩壁のような魔法使いに叶うはずがない。……そして、だからこそ抗して立ち会って、見える境地がある。ずっと完璧な人間だと思っていた。おじさんや、例えばカリナのような力ある人。けれど彼らは恐ろしい程の力を持ちながら、それ以上に“人間”だった。
 みな涙して、戦いに奮い、傷付き、進み、壊れながら前へ前へ、傷を化膿させながら、骨身を毒に蝕まれながらその存在を必死に証明した。なら、俺がそこに双びならび立つならば。……そろそろ、俺も捨てるべきなんだろう。強い人はつよいという幻想を。

 今、桜庭しづるは恐怖しない。受け容れていた。必要ならば嵐の海にだって飛び込むだろう、闇黒の冥界にだって進むだろう、その先に光明があるのならば。
 特別なことはできない、それこそが前に身体を押し出していた。何もない。手元には何もない。だからこそこの手は掴んでいける。賭けていける。

 “目の前にいるのが苦しんでいる『人間』なら
       俺にはまだ、やれることがある”

 奪うように抱き竦めるとレイカの小さな身体を二度と引き剥がされないように引き寄せて、カリナの視線がしづると噛み合った。

「何度でもいいます。戦う気は無い。俺は平和的に解決したい。宥和でもなく妥協でもなく、完璧に、かつ穏便に、これ以上誰も泣いて欲しくない。だから、雪を止めてくれませんか」

「――」

 カリナの唇が言葉の形をなぞる。
 風が止まった。
 礼香がカリナの表情を怯えたように凝視している。
 
「お父さん……今、なんて言ったの?」
「できない。できないと言ったんだ。止めることはできないんだ。絶対に」

 できない――?
 そんなはずはない。できるはずだ。だってあなたの仕掛けた術だろう。そこまで出掛かって、しづるはその言葉を飲み込んだ。
 
「お父さん、私はここにいます。もうお母さんは……お母さんは……」
「違うんだ、レイカ。彼女のことじゃない。君たちと争う気は無い。それでももう止めることは出来ないんだ」

 争う気は無い、しかし止めることは出来ない、その言葉はしづると悠里の間で意味よりも早く反応となって駆け巡っていた。視線の先にある表情は困惑よりも洞察だ。
 しづるは悠里の瞼がゆっくりと一つ瞬きしたのを皮切りに、悠里はしづるの鼻先がつんと上がったのを目印に、お互いが並列コンピューターのように各々の思考を進めていた。

「もう止めることは出来ない……ってことはもう既に術は起動されてるのか?」
「いや、それもあるかも知れないけどそれよりも私たちにはまだ知らないことがあるはず。だって直接聞いたことはないでしょう、カリナさん目的を教えて! こんな大がかりなことをした理由を」

 一歩先んじていたのは悠里だった。
 確かに訊いたことはない。一木の予想では娘と妻に起因するものだと予想していたが、しかしそれはあくまでも予想でしかないのだ。
 本当の目的が違う場所にあったなら? そのせいで術を止めることができないとしたら?
 しづるの背筋には冷たいものが走る。言い知れない計算外れ、処方ミス――全てのリソースが枯渇した今、ここに時間移動した結果が“ただ目的を知ることだけ”になってしまったらそれは即ちしづる達の敗北を意味する。
 何も変えられないまま、ただ滅び行く現代に戻り意識の死を待つ――。
 しづるは唇の端を噛み千切った。そして弱気になりそうな思考を断ち切った。
 
「よかった――十年後、と言ったね。もし十年後があるってするなら」

 カリナは大きく息を吸い込んで、口の端に笑みを浮かべながらこう言った。

「俺の計画は成功している。だってこの後に世界は滅ぶはずだったんだから。君たちには見えるかな、未来から来た君たちになら」


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