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第64話 鶴首

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「あんたが、カリナさん、ですか?」

 風に遊ぶ髪が鼻先を掠める。
 青い草の香りだ。ここが時を超えた大地であることなど露ほども感じさせない、足が慣れ親しんだ景色だ。
 彼は漁火のぼうぼう立ちのぼる海を眺めたまま、何かを待つようにして動かない。
 空には光が乱反射するように青く細く棚引いては消えて、ゆっくりと光の樹が天空の奥地に向かって成長していっている。これが彼が雪星を喚ぶ方法なのかも知れない。

「……どうして俺の名を知っている」

 奇しくも先に話しかけたのはしづるであった。カリナはその気配に気が付いていて動こうとはしなかった。どう見ても丸腰のその青年がとても自分を他害する為に現れたとは思えなかったからだ。
 聞き及んでいた力に比べ余りにも温厚な声に、しづるは言葉を詰まらせたように咳払いをして、その質問の答えを淀んでいた。正直に言っていいのか、それが正しいのか、彼にその回答を知る権利はない。

「俺を、止めに来たのか? 誰かの差し金かね」

 しづるを追い立てるようにカリナの言葉は続く。背中にしか視線を当てていないのに、しづるはまるでその背中に睨み付けられているように幻視していた。逃げ出したい程の圧倒感、圧迫感が場を支配していた。

「半分は当たりです。俺の目的はあなたが今から降らせようとしてる雪だ、それを止めに来た」

 微動にもしない。
 まるでカカシのように立ち尽くし、服や髪が揺れるばかりでカリナは何も動くことはない。しづるはその不気味さに茫洋とした不安に駆られていた。

「無為な問答だ。俺をどうやって止める」
「交渉。だってやりあってもあなたには敵わない。こっちは生身の、妙な術も技も武器もない一般人なもんで。それより聞かないんですか? どうしてあなたがやろうとしていることを俺が知ってるのかって」

 しづるは両手を開いて天に向かって挙げた。それはまさしく投降の意味である。無意味な戦いはしないという先制の意思表示である。

「……どこからか俺を見張ってる人間くらいはこの世の中にいるだろう、だが確かにお前の言う質問も真っ当だ。もし俺を悪意あって見張っている人間ならば、こんな風に会うなり投降の意志を見せるはずがない。俺に気が付かれないように侵入し、俺に気が付かれないように攻撃するだろう。それをしてこなかったということは、俺のことを目的以外知らないか、それか本当に戦う意志がないかの二択だ。お前はどちらだろうな」

 カリナはそこでようやく振り向いて見せた。高身長のひょろ長い身体に、青みがかった闇色の髪が揺れている。切れ長の瞳は不信感の強さを表すように刻み込まれた深い皺があった。肌の感じはまだ三、四十手前といった様子で若さがあるが、その用心深そうな居振る舞いはある意味もっと年上の一木よりも立ち入りがたい雰囲気があった。

「正解は後者。だって俺はあなたが時間を操ることが出来る魔法使いだってことを知ってるから。だからここはもう既にきっとあなたの間合いだ。だから敢えて近寄った。ここで投降するってことは、あなたに命を投げ渡してるっていうのが本気でわかる距離だからだ。だってあなた、用心深いでしょう?」

 精一杯の虚勢を張ってしづるは答えた。場には再び沈黙が広がり、しづるとカリナはにらみ合ったまま何秒かの時間がそのまま過ぎた。

「一旦は信じよう。交渉をしにきた、と言ったな。なら本題に入る前に担保を渡せ。お前の交渉に乗れば俺にどういう利益がある。それを見てからだ。……そしてもういい。手を下ろせ。お前の手が上がっていようといまいと、俺が動けば変わらない」

 しづるは一つ大きな息を吸って手を下ろした。そして意を決したように言葉を継ぎ始めた。

「俺の交渉にあんたが乗ってくれるなら、カリナという魔法使いはもう一度自分の娘であるレイカに会える。十年後くらいかな、その雪星を喚ぶ魔術のせいで世界は滅びかかってる。それをあなたの娘が必死に止めようとしてるが、間に合わない。だからあなたが今日行う雪星の召喚をやめてほしい。そうしないと世界は滅びてしまうからだ」

 カリナの表情に初めて揺るぎがあった。そしてしづるの眼には波紋が映った。

「――今、なんと言った?」

 激しい視界の揺れの先、しづるは身体が持ち上がっていることに気が付いた。
 宙ぶらりんの恰好になったしづるはなんの前触れもなく自らの身体が浮き上がり、目の前のカリナの瞳が激しい瞋恚に包まれていることを確認すると、そのまま身体を委ねた。

「十年後から来た。そしてあんたは娘に、会える。そう、言ったんだ」
「俺の娘がどうなったか知って言っているのか? あの日、異端狩りに襲われた村がどうなったかお前は知らない。人一人残さない大災害だったんだ。建物も、その場所に人間が生活していた痕跡さえも全て、全て全てがなかったことになった。娘もその余波で死んだんだ。皆死んだ、皆死んだ。死んだんだぞ! 帰ってこないんだ。何も。何も! それを、お前は……」

 空気が震える。
 気圧されながらもしづるは言葉をやめない。むしろここで言葉を止めれば殺される、わかっていた。寧ろここまではしづるにとっては予想内の出来事だった。入れ込ませることが出来れば出来るほど、この先に用意された言葉はより強くカリナに打ち込まれる楔になるはずだ。

「レイカは死んでない! 生きてるんだ! カリナさん、あなたはレイカの死体を発見したのか!?」
「――!」

 腕から伝わる震えには、手応えがあった。拘束が解かれて、しづるは膝から地面に叩きつけられた。

「……っ。見つけて、ないだろう!」
「だが、それは生きていた証拠にはならない。生きているのなら――」

 しづるはカリナの言葉を断ち切って続ける。これが決め手と言わんばかりにその手を緩めない。

「レイカはここに来てる! ああ、俺でもそう言うと思うさ。長い間あってないんだろ。信じられるはずもない。わかってる。俺が先に出てきたのは、あんたに警戒を解いて欲しかったからだ。レイカは近くに居る。あなたに会いたがってる。だから連れてきたんだ」

 しづるは手応えを感じた。着実に積み上がってきている。
 ゆっくりと、交渉のための信頼の土台を形成できはじめている。

「ほんの少しだけ心を穏やかにしてほしい。カリナさん。レイカはもうすぐそこにいるんだ。ただ、あなたが思っているよりも少しだけ大きい。理由は後で話す」
「いい、御託はいいっ……! レイカはどこだ!」
「教会だ、レイカにはそこで待ってて貰ってる」
「どけっ」

 堰は切れた。
 そこには父親の姿があった。みっともない姿だった。しづるのことなどもうとうに見向きもしていなかった。子煩悩な、ただの人間。力のあるだけのただの人間。それがわかっただけでも、しづるの心には光明が差していた。
 
「――よかった」

 心の底から胸を撫で下ろした。きっとこれならなんとかなるはずだ。そう自分に言い聞かせた。けれど本番はこれからだった。交渉の成否が決したわけではない。
 
「悠里、頼むぜ……」
 
 祈るようにしづるは教会に向かって手を合わせた。
 
 
「任せて、ってお前……何するつもりなんだよ」

 しづるがカリナとの交渉を行う前のことだった。
 悠里がしづるの裾を引っ張って、礼香との別働隊を提案したのだ。

「一つ確かめておきたいことがあるの。そして多分、それがわかればカリナさんが本当に悪意でおじさんと私たちを襲ったのかがわかるはず」
「でも……単独は危険だ」
「それはお互い様」
「……っ」
 
 悠里はしづるの視線を振り切るように礼香の手を握った。

「悠里さん、内容は教えてくれないんですか?」
「礼香ちゃんには後でね。しーちゃんはダメ」
「何でだよ……」
「いいのはいいんだけど、多分見てくれた方がわかりやすいはず。それに、もし私の推測が正しいとするなら――ひょっとすると礼香ちゃんと私としーちゃんが並んでいるところも良くないのかも知れない」

 考え込むように顎に手を当てた悠里は、殆ど確信めいたように言葉を括った。

「どういう意味だ?」
「……しーちゃんがおじさんに言ってた『何かしらの社会的関係性』だっけ。それが正しいってこと!」
「……?」

 相も変わらず悠里の言葉は雲を掴むようなことを言い、しづるは苦そうに眉間に皺を寄せた。けれどしづるもしづるでそれを咎めることもしない。つまり二人の間では、既に意見の取引が終了していた。感覚器の判断で会話する悠里の言動を理解するのは、本人以外では難しい。それを知っているしづるは無理に彼女の解答を言語化されたものを引き出そうとしない。それには信頼以上に深い理解があった。感覚器によって作り出された疎集合とも、あるいは適当とも取れる計画だが殊に悠里に限ってはそれも侮れない。

「まあまあ見てなよ。じゃあ最初の交渉、頼んだから! 私たちは教会の中で待ってるから、絶対仮那さん連れてきてね。交渉はファーストインプレッションが九割五分! 得意だろ、社会人くん頼んだぜ」

 ひらひらと手を振りながら、悠里と礼香は闇の中へ消えていく。しづるは背中に『お前は半分営業も兼ねてるだろ』と吐き捨てたい欲望を肚の内に毒を抑え、仮那と向かい合う為に広場へ向かった。

「かくして今のところ交渉は順調、しかし悠里の言ってたこともかなり気になるな。見れば分かるって言ってたから見ればわかるんだろうが――」

 しづるは廃教会へ足を進め始めた。いつ喧々諤々になってもおかしくない状況であることは間違いない。一秒だって目を離す隙などあるはずもない。

「――言ってる場合じゃないな」


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