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第34話 瀟殺
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おじさんは頑なに自分の過去を語りたがらない。
一度ママにおじさんは昔何をしていたのか、どんな人だったのかを聞いたことがある。
小さい頃、空港のラウンジカフェで外をぼんやりと見つめて、ママはこう言った。
『一木とはね――子供の頃にはあんまりあったことないから知らないんだ』と。
ママは幼い頃から外国に留学していたそうだ。小学生の頃から特待生として国際スクールに招待されて寮暮らしをしていたから、両親ともあまり話したことがないらしい。
ママが覚えている限りではずっと何かにおどおどしていて、扇ちゃんという妹を目に入れても痛くないほど可愛がっていたらしい。篠沢の家系は末子以外は外に出して育てるという慣例があったらしく、おじさんも妹が産まれてからはどこかに養子に出されていたみたいだった。
『アタシが日本に帰ってきたのってさ、成人してからなんだよ。ちょうど悠里が腹の中にいた頃のことなんだけどねえ。腹が重たくなって日本に帰ってきて、そこでようやく一木に会ったんだ。ほとんど二十年ぶりか。随分大きくなって、そしたらアイツったら若白髪だらけでさ。で、扇はどうだ元気かって聞いたら泣き出しちまってさ。死んだんだってその時知ったんだ。両親も死んだんだってさ。世界中連絡も入れずに飛び回ってたもんでアタシなんにも知らなくってね。悪いことしちまったなって、その時本当に思ったよ。ずっと家族と会ったことも話したこともなかったから、みんなそれくらい興味ないもんかと思ってたんだ……』
『ママ、あたしに興味ないの?』
『今は違うよ。わかってるだろ』
『えへへ。ママは悠里のこと大好きだもんね』
『……誰に似たんだかな。一木か――そうだったな。一木もアタシが知ってる間だけでも両親にも妹にもべったりだった――。だから亡くなったって知ってその時はお前も悲しかったよな、姉失格だなあって思ったよ。よくアイツが下手なことした時はこうしてこうすれば上手くいくぞってなんでも教えてやってたんだけど、その時ばっかりはアタシが下手なことしたなってさ。今もなんだかんだ面倒は見てるけど、アイツすごく努力するだろ。そこが一番変わったとこだよ。アタシの知ってる頃のアイツって本当にダメダメでね。なんでもアタシの後ろばっかりついてくる子だったんだよ』
『じゅるじゅる――そうなの?』
『こら、ストローから口離しな。後は……そうだな。悠里が知ってるとおり、悠里が大好きなおじさんだ。んで悠里に構ってる一木を見るとさ、扇と一緒にいたアイツを思い出す。本当に無理しちゃってまあ……。はは、星が好きなのも変わらないねぇ』
『ふ~ん。ママみたいにおじさんも子供産めばよかったのに』
『アタシは女だから産もうと思えばできるけど一木はなぁ……それにもし仮に出来ちゃったら一木に構ってもらえなくなるよ悠里』
『なんで?』
『子供は手間がかかるんだよ。自分の子供じゃねえのをわざわざ相手にしてらんねえのよ』
『え~、でもママならできちゃうと思うよ』
『どうだかな、できないことはないだろうな。だがアイツには無理だろうな。どっちも頼まれごとされてダブルブッキングするのがオチってとこだねぇ』
『ん~。じゃあどうしよっかな。でもそれでおじさんがもっと幸せなるんだったら……それでもいいかも……』
『……ふ。時間だ。ほら、行くよ』
その時、おじさんがあたしのことを本当に大事に思ってくれているのは、きっと扇さんにしてあげられなかっったことをしてあげられた気持ちになるからなんだろうってことを知った。だからきっと、あたしがおじさんにしてあげられることはいっぱい甘えてあげることなんだって思ったのだ。とはいえ、そんなことを思わなくてもあたしはおじさんが大好きだったのだけれど。
きっと――おじさんは今度こそ大事な人と一緒にいたいって、誰よりもずっと強く思っているのだろう。
だから、あたしは信じている。この先にあるべき未来のことを――。
月明かりの理科室にて、黒塗りの仕掛け箱は呆気なく開き果せた。
もう役目は終わってるとでも言いたげなように錠前は掛け金を壊しながら開き、その中にあるものがあたしを迎合しているかのようだった。
「ぐ……ぅ」
暗くて深い眠りの筺は錠が壊れてなおその中身を闇に落として隠していた。
そっと触れる中身は、いくつかのものが乱雑に詰め込まれている。
手を突っ込み中身を確認すると、まず手元にあったのはさらさらとした繊維の束だった。
「……これなんだろ」
やわらかく細い毛束のようだ、それは全体が淡く月明かりを反射している。
ということは、色は白色。数は一つ、二つ。と半分だけ。何の毛束だろう……山羊、羊、アルパカ――白くて長い毛を持つ動物は数あるけれど、どれとも違う気がする。
留め具を外し手に乗せた。
どうだろう、肌なじみがあるようでないような――これはなんだろう。
柔らかくて細くて白くて……そしてすこしだけ覚えがあるような、ないような。
「……」
考え込んで指先が前髪を撫でた。
「あ――」
これ、は。
意識はぱっと思い当たる。髪だ。毛髪に違いない。
そして、白い――?
「ぐぁっ!?」
脳内に弾ける電撃のパルスが走った。
「あ――」
時の流れが遅く感じる。
辺りが急に引き延ばされたようなそんな感覚だ。
浮かび上がる真夏の空、小さな手、燃え上がっている――あれはなんだろう、車だろうか? 車の隣に男の子が倒れている。右手と左足が肉体から引きちぎれて、胴にはガソリンがかかったのか発火している――。
その反対側に振り向いた。崖の方向、何十メートルか先に大きな人影が見える。しかしそれはまるで立ち上る煙のように存在しては消滅を繰り返す闇黒の陽炎だった。じりじりと間合いを詰めるように歩いたかと思えば、既にその影は直線となって足下まで伸び、あたしの首元に到達しかかっていた。
その刹那、あたしの体は空に抱かれて飛び上がった。何が起こったかもわからないままあたしのは重力の奔流をその身に受けて地面に向かって加速した。
目は見開いていた、閉じる隙間さえなかったから。瞳には星が映っていた。いつかの星空を覚えている。
夏の終わり、夏の大三角と秋の四辺形の境目を擁する天球――どうして忘れていたのだろう。
「……思い出した。あの日、あたしとしーちゃんとおじさんは――廃教会の丘に」
現実の肌に少しだけ感覚が追いつく。
「そうだ――。しーちゃんから貰った手紙の前の日……あたしたちは星を見に行ったはずなんだ――どうして」
ズタズタの記憶の切片が繋がれて、絡まっていた糸口が解け始めた。
何重にも固められた記憶の檻が壊れていく。
あの日、あたしが見たのは廃教会の前に現れた大きな黒い影――。
「そうだ――しーちゃんはあの日……」
影が狙ったのは一緒にいたおじさんとあたしだった。おじさんはあたしを隠すように覆い被さったんだ。
――上空を切り裂くまっさらな光の線があたしたちの上を瞬時に駆けた次の瞬間、車が爆発していた。
その先は――。
「どうしてあたしはっ」
筺の中を急いで引き出す。足りない記憶のかけらは絶対にそこにあるのだと直感が告げていた。
中にあったのは、フラスクの魔法瓶ほどのポットとシースルーの液体が詰まった円筒だった。
円筒を引き出して、中身をより詳しく見ようとした。その時、ガタンと視線が地面に吸い込まれた。
――肉体が重い。今度は今までよりも、ずっとずっと重い。
それでも知らなければならない――。
きっとその答えもあるはずなんだ……。
「しゃきっと、しろ。悠里ちゃんの凄さはこんなもんじゃないでしょ。いっぱい褒めてもらうんでしょ……よいしょっと!」
口元には笑みを、世界には幸福を。それがあたしなのでした。
円筒を抱えると、ごろんと転がして中身を透かす。
「――!」
中に入っていたのは大きな管が上下に繋がった、握り拳ほどもない肌色と血液の色をちょうど中間にしたような臓器だった。
もし記憶が正しいんだってするならこれは、人間の心臓だ。
「動い……てる。生きてるんだ」
薄気味悪い光景だけれど、怖気付いている暇も怯んでいる暇もない。あたしの時間はもう有限であることはわかっている。
なんでこんなものがあるの――その問いは、自分の記憶に聞くしかない。それはあたしが見つけるしかないのだ。
「車の隣りにいたのはしーちゃん……爆発を受けたのも」
そうとしか考えられない。でもしーちゃんは生きている――。どうして? 心臓を失うような怪我をして生きていられるはずがないのに。
あたしの記憶が間違っているのだろうか――でもそうではない気がする――もっと何か重要なことをあたしは忘れているはずだ。
なぜ、髪の束がここにあるんだろう。なぜ、ここに心臓があるのだろう。あたしはなぜ、こんなに大きな全てのことを忘れてしまっていたのだろう。
「思い出すんじゃない――そこにあった感覚を辿る……そう、あたしは感覚でしか生きてない――! 自信ありッだぜ!」
目を閉じて、髪に触れたまま指先に感覚を集中させる。
瞼の裏にはあの夜空を思い浮かべて――そこにあった音を聞くんだ。
だって、答えはあたしそのものなんだから。
『うん、答えはアタシ自身なんだから』
「――!」
あたしの声がどこかから聞こえた気がして、そこにあったはずの振動が次元を持ち始める。
ノイズ混じりの記憶の殻が割れた音がした。
燃えた車の爆発音に交じる悲鳴――これはあたしのだ。
『しーちゃ――!』
『しづるくん――!』
瞬間、あたしの視界は夜空に放り上げられた。直後に異音があった。
雷の落ちたようなバリバリという音と共に、強い光を背中に受けたのだ。
『仮那ァ――!!!』
『一木――!!! 貴様はここで――』
おじさんの声と仮那と呼ばれた男の声。次いで激しい衝突音が一秒の間に連続して炸裂した。
一際激しい鼓膜がアイスピックで突き刺されたような甲高い音の次の瞬間、あたしは耳を塞いで叫んでいた。
風を切る音、それはあたしが崖から落下していく音ともう一つ――こちらへ恐怖を感じるほどの速度で近付いてくる一つの気配。
そのコンマの後、あたしの体は空中で抱えられていた。
『悠里――螟ァ荳亥、ォ縺』
「うっ――!」
ちくりとした頭痛が脳髄に走る。
記憶は段差ができたようにモノグラムを作りながら崩れていく。
『しーちゃんが死んじゃう――! 死んじゃう』
震えている――あたしは今苦しんでいるんだ。
泣いている声だ。あたしの声だ。揺れている。世界が暗い。
胸が掻き毟られるようだ、痛い、苦しい、悲しい。
きっと、もう目の前には広がっているのだ。血で溺れる少年の姿――しーちゃんが死んでいく過程が。
真っ黒に染まっていく小さな肢体。砂時計が割れてしまったように、もう戻らないものが流れていく――。
燃えてしまった切れ端を集めても戻らない。胴を引きちぎってしまった虫は、例えあるべき場所に体を戻しても生き返りはしない。
だのに、そうすれば治る、そう信じているあたしがそこにはいたんだ。
どうしようもなく突然な傷と、どうしようもなく溢れていく命そのもの。
目の前で失うには大きすぎる痛み――これなんだ。
あたしが忘れていた記憶は――。
「く……ぅ」
感覚を辿るたびに胸の痛みは増して行く。
目尻から涙が溢れていく。どうしてこんな記憶があるのだろう――どうして――。
「ぐぁっ――」
重力が反転したように三半規管が役に立たなくなって、額を思い切り地面にたたきつけた。
「く――う、いっったぁ……」
視界が酷く掠れている。視界が白く飛んでは揺れ、自分の居る場所がどこなのか――そんなうつろうだけの思考でさえ許されない。
今までよりも酷い症状だった。けれど、そんなのはもう覚悟済みだ。
「……もう少し、もう少し――」
がんばれ、あたし。できる。できるっての。
自分に言い聞かせてなんとかゆっくり立ち上がって、もう一つの魔法瓶のようなものに触れた。
「これは、何……ぁ」
視界が暗転し、何も聞こえなくなった。真っ暗な中に浮いている気分だ。
ここは……まるで深海だ。どこまでも光が遠い。見えなくなっていく。
瞳だけが開いている。光だけが水面の反射に揺らぎながら光を伝えている。
けれどそれも薄くなっていく。手足は動かない。感覚を奪われているのだ、動けるはずがない。
カラン――遠い水面で何かの蓋が開いた音がした。
水面からの光は増していく――違う……。
茫洋と漂う光の粒子は決して増えはしない、私が水面に近付いているのだ。
どうして――?
やがて光の中に私は吸い込まれるように飛び込んでいった。
光がゆっくりと眩しさから穏やかな温かい光になり、あたしは小さな縁側に座っていた。
穏やかな初夏の風が首元を吹き付ける。
足下には草むらの緑の絨毯と生き物の羽音、虫たちが陽光に群れて踊っている。
あたしは誰かを待っている。この場所で誰かが隣に座ってくれるのを待っている。
そうして、隣にその人が来た。
『悠里、今日も外を眺めてどうしたんだい』
『眺めてないよ。何もしてないだけ』
『じゃあ何もしないことをしてどうしたんだい』
『待ってたの』
『誰をだい』
『――それは』
「悠里、ごめんね。一人にさせて」
急激に周波数が現実に戻った。視界がノイズだらけで目の前の人の姿がズレている。視界のには蓋の開いて転がった瓶がある。あたしは、倒れていたみたいだ……。
「かラだハハ、だいじょウブじゃないみたいダネ」
音の位相は極端だ。接触不良のスピーカーにディストーションをかけて再生してるみたいだ。
けれどわかる、ここに来てくれるのは一人しか、居ないのだから。一つだけ深呼吸して、できるだけ笑顔であたしは答えた。
「おじさん……おかえりなさい」
「ただいま――未来が、変わったみたいだ」
静かにそう告げたおじさんは、あたしのことを静かに抱きあげた。
一度ママにおじさんは昔何をしていたのか、どんな人だったのかを聞いたことがある。
小さい頃、空港のラウンジカフェで外をぼんやりと見つめて、ママはこう言った。
『一木とはね――子供の頃にはあんまりあったことないから知らないんだ』と。
ママは幼い頃から外国に留学していたそうだ。小学生の頃から特待生として国際スクールに招待されて寮暮らしをしていたから、両親ともあまり話したことがないらしい。
ママが覚えている限りではずっと何かにおどおどしていて、扇ちゃんという妹を目に入れても痛くないほど可愛がっていたらしい。篠沢の家系は末子以外は外に出して育てるという慣例があったらしく、おじさんも妹が産まれてからはどこかに養子に出されていたみたいだった。
『アタシが日本に帰ってきたのってさ、成人してからなんだよ。ちょうど悠里が腹の中にいた頃のことなんだけどねえ。腹が重たくなって日本に帰ってきて、そこでようやく一木に会ったんだ。ほとんど二十年ぶりか。随分大きくなって、そしたらアイツったら若白髪だらけでさ。で、扇はどうだ元気かって聞いたら泣き出しちまってさ。死んだんだってその時知ったんだ。両親も死んだんだってさ。世界中連絡も入れずに飛び回ってたもんでアタシなんにも知らなくってね。悪いことしちまったなって、その時本当に思ったよ。ずっと家族と会ったことも話したこともなかったから、みんなそれくらい興味ないもんかと思ってたんだ……』
『ママ、あたしに興味ないの?』
『今は違うよ。わかってるだろ』
『えへへ。ママは悠里のこと大好きだもんね』
『……誰に似たんだかな。一木か――そうだったな。一木もアタシが知ってる間だけでも両親にも妹にもべったりだった――。だから亡くなったって知ってその時はお前も悲しかったよな、姉失格だなあって思ったよ。よくアイツが下手なことした時はこうしてこうすれば上手くいくぞってなんでも教えてやってたんだけど、その時ばっかりはアタシが下手なことしたなってさ。今もなんだかんだ面倒は見てるけど、アイツすごく努力するだろ。そこが一番変わったとこだよ。アタシの知ってる頃のアイツって本当にダメダメでね。なんでもアタシの後ろばっかりついてくる子だったんだよ』
『じゅるじゅる――そうなの?』
『こら、ストローから口離しな。後は……そうだな。悠里が知ってるとおり、悠里が大好きなおじさんだ。んで悠里に構ってる一木を見るとさ、扇と一緒にいたアイツを思い出す。本当に無理しちゃってまあ……。はは、星が好きなのも変わらないねぇ』
『ふ~ん。ママみたいにおじさんも子供産めばよかったのに』
『アタシは女だから産もうと思えばできるけど一木はなぁ……それにもし仮に出来ちゃったら一木に構ってもらえなくなるよ悠里』
『なんで?』
『子供は手間がかかるんだよ。自分の子供じゃねえのをわざわざ相手にしてらんねえのよ』
『え~、でもママならできちゃうと思うよ』
『どうだかな、できないことはないだろうな。だがアイツには無理だろうな。どっちも頼まれごとされてダブルブッキングするのがオチってとこだねぇ』
『ん~。じゃあどうしよっかな。でもそれでおじさんがもっと幸せなるんだったら……それでもいいかも……』
『……ふ。時間だ。ほら、行くよ』
その時、おじさんがあたしのことを本当に大事に思ってくれているのは、きっと扇さんにしてあげられなかっったことをしてあげられた気持ちになるからなんだろうってことを知った。だからきっと、あたしがおじさんにしてあげられることはいっぱい甘えてあげることなんだって思ったのだ。とはいえ、そんなことを思わなくてもあたしはおじさんが大好きだったのだけれど。
きっと――おじさんは今度こそ大事な人と一緒にいたいって、誰よりもずっと強く思っているのだろう。
だから、あたしは信じている。この先にあるべき未来のことを――。
月明かりの理科室にて、黒塗りの仕掛け箱は呆気なく開き果せた。
もう役目は終わってるとでも言いたげなように錠前は掛け金を壊しながら開き、その中にあるものがあたしを迎合しているかのようだった。
「ぐ……ぅ」
暗くて深い眠りの筺は錠が壊れてなおその中身を闇に落として隠していた。
そっと触れる中身は、いくつかのものが乱雑に詰め込まれている。
手を突っ込み中身を確認すると、まず手元にあったのはさらさらとした繊維の束だった。
「……これなんだろ」
やわらかく細い毛束のようだ、それは全体が淡く月明かりを反射している。
ということは、色は白色。数は一つ、二つ。と半分だけ。何の毛束だろう……山羊、羊、アルパカ――白くて長い毛を持つ動物は数あるけれど、どれとも違う気がする。
留め具を外し手に乗せた。
どうだろう、肌なじみがあるようでないような――これはなんだろう。
柔らかくて細くて白くて……そしてすこしだけ覚えがあるような、ないような。
「……」
考え込んで指先が前髪を撫でた。
「あ――」
これ、は。
意識はぱっと思い当たる。髪だ。毛髪に違いない。
そして、白い――?
「ぐぁっ!?」
脳内に弾ける電撃のパルスが走った。
「あ――」
時の流れが遅く感じる。
辺りが急に引き延ばされたようなそんな感覚だ。
浮かび上がる真夏の空、小さな手、燃え上がっている――あれはなんだろう、車だろうか? 車の隣に男の子が倒れている。右手と左足が肉体から引きちぎれて、胴にはガソリンがかかったのか発火している――。
その反対側に振り向いた。崖の方向、何十メートルか先に大きな人影が見える。しかしそれはまるで立ち上る煙のように存在しては消滅を繰り返す闇黒の陽炎だった。じりじりと間合いを詰めるように歩いたかと思えば、既にその影は直線となって足下まで伸び、あたしの首元に到達しかかっていた。
その刹那、あたしの体は空に抱かれて飛び上がった。何が起こったかもわからないままあたしのは重力の奔流をその身に受けて地面に向かって加速した。
目は見開いていた、閉じる隙間さえなかったから。瞳には星が映っていた。いつかの星空を覚えている。
夏の終わり、夏の大三角と秋の四辺形の境目を擁する天球――どうして忘れていたのだろう。
「……思い出した。あの日、あたしとしーちゃんとおじさんは――廃教会の丘に」
現実の肌に少しだけ感覚が追いつく。
「そうだ――。しーちゃんから貰った手紙の前の日……あたしたちは星を見に行ったはずなんだ――どうして」
ズタズタの記憶の切片が繋がれて、絡まっていた糸口が解け始めた。
何重にも固められた記憶の檻が壊れていく。
あの日、あたしが見たのは廃教会の前に現れた大きな黒い影――。
「そうだ――しーちゃんはあの日……」
影が狙ったのは一緒にいたおじさんとあたしだった。おじさんはあたしを隠すように覆い被さったんだ。
――上空を切り裂くまっさらな光の線があたしたちの上を瞬時に駆けた次の瞬間、車が爆発していた。
その先は――。
「どうしてあたしはっ」
筺の中を急いで引き出す。足りない記憶のかけらは絶対にそこにあるのだと直感が告げていた。
中にあったのは、フラスクの魔法瓶ほどのポットとシースルーの液体が詰まった円筒だった。
円筒を引き出して、中身をより詳しく見ようとした。その時、ガタンと視線が地面に吸い込まれた。
――肉体が重い。今度は今までよりも、ずっとずっと重い。
それでも知らなければならない――。
きっとその答えもあるはずなんだ……。
「しゃきっと、しろ。悠里ちゃんの凄さはこんなもんじゃないでしょ。いっぱい褒めてもらうんでしょ……よいしょっと!」
口元には笑みを、世界には幸福を。それがあたしなのでした。
円筒を抱えると、ごろんと転がして中身を透かす。
「――!」
中に入っていたのは大きな管が上下に繋がった、握り拳ほどもない肌色と血液の色をちょうど中間にしたような臓器だった。
もし記憶が正しいんだってするならこれは、人間の心臓だ。
「動い……てる。生きてるんだ」
薄気味悪い光景だけれど、怖気付いている暇も怯んでいる暇もない。あたしの時間はもう有限であることはわかっている。
なんでこんなものがあるの――その問いは、自分の記憶に聞くしかない。それはあたしが見つけるしかないのだ。
「車の隣りにいたのはしーちゃん……爆発を受けたのも」
そうとしか考えられない。でもしーちゃんは生きている――。どうして? 心臓を失うような怪我をして生きていられるはずがないのに。
あたしの記憶が間違っているのだろうか――でもそうではない気がする――もっと何か重要なことをあたしは忘れているはずだ。
なぜ、髪の束がここにあるんだろう。なぜ、ここに心臓があるのだろう。あたしはなぜ、こんなに大きな全てのことを忘れてしまっていたのだろう。
「思い出すんじゃない――そこにあった感覚を辿る……そう、あたしは感覚でしか生きてない――! 自信ありッだぜ!」
目を閉じて、髪に触れたまま指先に感覚を集中させる。
瞼の裏にはあの夜空を思い浮かべて――そこにあった音を聞くんだ。
だって、答えはあたしそのものなんだから。
『うん、答えはアタシ自身なんだから』
「――!」
あたしの声がどこかから聞こえた気がして、そこにあったはずの振動が次元を持ち始める。
ノイズ混じりの記憶の殻が割れた音がした。
燃えた車の爆発音に交じる悲鳴――これはあたしのだ。
『しーちゃ――!』
『しづるくん――!』
瞬間、あたしの視界は夜空に放り上げられた。直後に異音があった。
雷の落ちたようなバリバリという音と共に、強い光を背中に受けたのだ。
『仮那ァ――!!!』
『一木――!!! 貴様はここで――』
おじさんの声と仮那と呼ばれた男の声。次いで激しい衝突音が一秒の間に連続して炸裂した。
一際激しい鼓膜がアイスピックで突き刺されたような甲高い音の次の瞬間、あたしは耳を塞いで叫んでいた。
風を切る音、それはあたしが崖から落下していく音ともう一つ――こちらへ恐怖を感じるほどの速度で近付いてくる一つの気配。
そのコンマの後、あたしの体は空中で抱えられていた。
『悠里――螟ァ荳亥、ォ縺』
「うっ――!」
ちくりとした頭痛が脳髄に走る。
記憶は段差ができたようにモノグラムを作りながら崩れていく。
『しーちゃんが死んじゃう――! 死んじゃう』
震えている――あたしは今苦しんでいるんだ。
泣いている声だ。あたしの声だ。揺れている。世界が暗い。
胸が掻き毟られるようだ、痛い、苦しい、悲しい。
きっと、もう目の前には広がっているのだ。血で溺れる少年の姿――しーちゃんが死んでいく過程が。
真っ黒に染まっていく小さな肢体。砂時計が割れてしまったように、もう戻らないものが流れていく――。
燃えてしまった切れ端を集めても戻らない。胴を引きちぎってしまった虫は、例えあるべき場所に体を戻しても生き返りはしない。
だのに、そうすれば治る、そう信じているあたしがそこにはいたんだ。
どうしようもなく突然な傷と、どうしようもなく溢れていく命そのもの。
目の前で失うには大きすぎる痛み――これなんだ。
あたしが忘れていた記憶は――。
「く……ぅ」
感覚を辿るたびに胸の痛みは増して行く。
目尻から涙が溢れていく。どうしてこんな記憶があるのだろう――どうして――。
「ぐぁっ――」
重力が反転したように三半規管が役に立たなくなって、額を思い切り地面にたたきつけた。
「く――う、いっったぁ……」
視界が酷く掠れている。視界が白く飛んでは揺れ、自分の居る場所がどこなのか――そんなうつろうだけの思考でさえ許されない。
今までよりも酷い症状だった。けれど、そんなのはもう覚悟済みだ。
「……もう少し、もう少し――」
がんばれ、あたし。できる。できるっての。
自分に言い聞かせてなんとかゆっくり立ち上がって、もう一つの魔法瓶のようなものに触れた。
「これは、何……ぁ」
視界が暗転し、何も聞こえなくなった。真っ暗な中に浮いている気分だ。
ここは……まるで深海だ。どこまでも光が遠い。見えなくなっていく。
瞳だけが開いている。光だけが水面の反射に揺らぎながら光を伝えている。
けれどそれも薄くなっていく。手足は動かない。感覚を奪われているのだ、動けるはずがない。
カラン――遠い水面で何かの蓋が開いた音がした。
水面からの光は増していく――違う……。
茫洋と漂う光の粒子は決して増えはしない、私が水面に近付いているのだ。
どうして――?
やがて光の中に私は吸い込まれるように飛び込んでいった。
光がゆっくりと眩しさから穏やかな温かい光になり、あたしは小さな縁側に座っていた。
穏やかな初夏の風が首元を吹き付ける。
足下には草むらの緑の絨毯と生き物の羽音、虫たちが陽光に群れて踊っている。
あたしは誰かを待っている。この場所で誰かが隣に座ってくれるのを待っている。
そうして、隣にその人が来た。
『悠里、今日も外を眺めてどうしたんだい』
『眺めてないよ。何もしてないだけ』
『じゃあ何もしないことをしてどうしたんだい』
『待ってたの』
『誰をだい』
『――それは』
「悠里、ごめんね。一人にさせて」
急激に周波数が現実に戻った。視界がノイズだらけで目の前の人の姿がズレている。視界のには蓋の開いて転がった瓶がある。あたしは、倒れていたみたいだ……。
「かラだハハ、だいじょウブじゃないみたいダネ」
音の位相は極端だ。接触不良のスピーカーにディストーションをかけて再生してるみたいだ。
けれどわかる、ここに来てくれるのは一人しか、居ないのだから。一つだけ深呼吸して、できるだけ笑顔であたしは答えた。
「おじさん……おかえりなさい」
「ただいま――未来が、変わったみたいだ」
静かにそう告げたおじさんは、あたしのことを静かに抱きあげた。
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