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九章 雲となり雨となるとき
雲となり雨となるとき【8】
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それからというもの、私の日常が少しだけ変わった。
諏訪くん――もとい翔は、これまでスキンシップできなかった日々を挽回するかのごとく、毎晩と言ってもいいほど私を自身のベッドに招き入れるようになった。
あれこれ理由をつけてみても当然承諾されるはずもなく、夜毎彼に抱かれていた。
疲れているときや遅くなった夜には、ただ抱きしめられて眠るだけの日もあるけれど……。とにもかくにも、ここ最近の私は意識を失うように眠りに就く寸前に翔におやすみのキスを与えられ、朝も彼の優しいくちづけで目を覚ますのだった。
なんだか面映ゆくて、毎日がくすぐったいような幸福で彩られている。これほどの幸せで満たされている今、不満なんてひとつもない。
ただ、このままエスユーイノベーションで働いていいのか……とは頻繁に考えるようになった。
美容師への未練は、以前よりもさらに強まっている。
週末の恒例になっている翔へのヘッドスパで喜んでもらえることが嬉しくて、同時に美容師時代のお客様たちとのやり取りをよく思い出すようになった。
お客様の要望を汲み取るのも、流行を追い続けるのも、その上で似合うヘアスタイルを提供するのも、とても難しくて大変だった。
ときにはクレームを受け、指名替えも複数回され、施術後にお客様に不満そうな顔をさせてしまったこともある。そのたびに落ち込み、美容師に向いていないのかもしれないとへこたれそうになり、悔しさを抱えて数え切れないほど泣いた。
けれど、お客様が喜んでくれるとつらいことが全部消化されるくらい嬉しくて、また頑張ろうと思えた。セクハラやパワハラがつらくても、負けたくなかった。
いつか、小さくても自分のお店を持つために。
そして今も、本当はまだその夢を捨て切れずにいる。
そんな状態でエスユーイノベーションで働き続けることになれば、真摯に仕事に取り組む翔に後ろめたい気持ちを抱きそうだった。努力している彼や同僚たちを余所に、私だけ優しい場所で守られているのはずるい。
なにより、翔と付き合っているからこそ、彼に甘えてばかりではいけない。
甘えるのは悪いことじゃないと翔が教えてくれたけれど、今の私は彼の傍にいたくて過去から目を背けているだけ。だから、余計にこんな気持ちになってしまうのだ。
(私はどうしたいんだろう……)
翔には触れられても平気になったどころか、彼に抱かれるたびに幸福感が募っていく。異性であっても、同僚とは随分と普通に接することができるようになった。
(でも、美容師に戻ったら? 同じ店で働くことはなくても、また同じような目に遭うかもしれない……。それでも頑張れる?)
堂々巡りの中にいると息が苦しいけれど、それでも私自身が向き合って答えを出さなければ、きっと本当の意味で翔の隣で胸を張ることはできない。
彼の傍で恥ずかしくない生き方をしたいと思うのなら、私は過去とも自分自身とも向き合わなければいけないのだから。
ちゃんと考えよう、と心に誓う。これまでは考えているようでいて、結局は心のどこかで優しい場所で過ごすラクさに甘んじ、現状維持を望んでいた部分があった。
それでいいはずがない。だから、ちゃんと目を背けずにいよう。
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