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四章 ぬるま湯に浸かりすぎないように
ぬるま湯に浸かりすぎないように【5】
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十八時に上がらせてもらった私は、帰宅してすぐに夕食の支度に取りかかった。
今日は定時で退社できたけれど、忙しいときにはもっと遅くなるだろうし、作り置きをしておくことも視野に入れよう。なんて考えつつ夕食を完成させた頃、リビングのドアが開いた。
「ただいま」
「おかえりなさい。ご飯できたところだよ」
今夜は肉じゃがをメインに、副菜にはほうれん草の白和えとだし巻き卵、汁物は大根の味噌汁といった和風メニューだ。ロメインレタスを使ったサラダもある。
「肉じゃがだ。今日は和食の気分だったから嬉しいよ」
頬を綻ばせる彼を見て、和食にしてよかったと思う。
夕食を食べ始めると、諏訪くんは相変わらず大袈裟なくらい褒めてくれた。
「ところで初日はどうだった?」
「今日は流れを見せてもらっただけだし、まだなんとも言えないけど、木野さんが丁寧に教えてくれるから大丈夫だと思う。緊張もすぐに解れたし」
「よかった。スタッフは信頼できる人ばかりだけど、香月の言葉を聞いて安心した」
「心配してくれてありがとう」
「いや、それより社内の案内もできなくてごめん」
眉を下げた彼が、お箸を置いて息を吐いた。
「本当は俺がするつもりだったんだけど、タケと篠原に反対されたんだ。あ、タケって鵜崎のことなんだけど、あいつの名前は武則っていうんだ」
諏訪くんの呼び方からして、ふたりは社長と副社長という関係性でありながら友人でもあるんだろう。
「俺が案内しようとしたら、タケに『あからさまに目をかけることになるのはよくないし、他のスタッフと同じように指導するだけにした方がいい』って止められた。俺の紹介ってことは別に隠す必要はないけど、まぁそれも一理あるなと思ってさ」
相槌を打ちつつ、確かにそうだと思う。
諏訪くんは社長で、私は彼の紹介で入社した。それ自体は隠すことはないと言われているし、現に鵜崎副社長と篠原さんには事前に事情を伝えたとも聞いている。
とはいえ、社長自ら指導するような業務でもないのに諏訪くんに指導係のようなことをしてもらうと、場合によってはいい印象は持たれないかもしれない。
「ふたりには同居の件も伝えてあるし、公私混同しないようにってことでもあるんだと思う。俺、香月にマンツーマンで教えるくらいの気持ちでいたけど、反省したよ」
「おふたりの言うことはもっともだよ。諏訪くんはなにも悪くないし、私が諏訪くんに頼りすぎてるんだよね……。せめて公私混同しないように気をつけるね」
「俺としてはもっと甘えてほしいくらいなんだけどな」
きょとんとすると、彼は「こっちの話だ」と苦笑を零した。
「当初の予定と変わって悪いけど、木野さんは仕事ができるし、親身に教えてくれると思う。でも、俺も香月の力になりたいし、困ったことがあればなんでも相談して」
諏訪くんのこういうストレートなところがすごいな、と思う。彼自身は友達思いなだけなんだろうけれど、掛け値なしに手を差し伸べるなんてなかなかできない。
けれど、だからこそ諏訪くんに甘えすぎないように気をつける必要がある。彼にこれ以上の迷惑をかけたくないのはもちろん、今でもぬるま湯に浸かるような生活をさせてもらっているのに、このままだとどんどん甘えてしまいそうだから……。
「とりあえず、今月は忙しさもマシだろうから、あんまり肩肘張らずに仕事を覚えていってよ。木野さんに質問しにくいことは俺に訊いてくれて構わないし、俺の目が届く範囲では男性社員はできるだけ近づけないようにするから」
「ううん、そこまでしてもらうわけにはいかないよ。確かに男の人は怖いけど、みんながみんなそうじゃないし、諏訪くんみたいに優しい人もいるってわかってるから。それに、ずっと諏訪くんを頼ってばかりでいるわけにもいかないし……」
諏訪くんの態度は、友人を通り越して家族のようだ。とても心配してくれ、気にかけてくれる優しさには感謝しつつも、男性が苦手だからという理由で彼に守ってもらってばかりでいるわけにはいかない。
いつになるかはわからないけれど、いずれは美容師に戻りたい気持ちはあるし、そうなると諏訪くんがいない場所で頑張らなければいけない。すぐに助けてくれる彼に甘え続けていると、本当にひとりで立てなくなってしまう気がした。
(でも、諏訪くんがいない場所って考えると……)
確かめるように心の中で呟きながら、胸の奥底に芽生えた小さな違和感が気のせいじゃないことを確信する。
上手く言葉にできないけれど、不安や恐怖心とは違う感情が燻ぶるようで、モヤモヤとしたものが渦巻いていく気がした。
「そんな寂しいこと言うなよ」
ふと気づくと、私を見ている諏訪くんが神妙な面持ちになっていた。その表情をどう捉えていいのかわからずにいると、彼は小さく笑って立ち上がった。
「ごちそうさま。俺、ちょっと仕事するから先に風呂使っていいよ」
「あ、うん……。ありがとう」
諏訪くんが話を掘り下げる気がないのは明白で、素直に頷くことしかできない。彼は笑顔を残し、自室にこもってしまった――。
今日は定時で退社できたけれど、忙しいときにはもっと遅くなるだろうし、作り置きをしておくことも視野に入れよう。なんて考えつつ夕食を完成させた頃、リビングのドアが開いた。
「ただいま」
「おかえりなさい。ご飯できたところだよ」
今夜は肉じゃがをメインに、副菜にはほうれん草の白和えとだし巻き卵、汁物は大根の味噌汁といった和風メニューだ。ロメインレタスを使ったサラダもある。
「肉じゃがだ。今日は和食の気分だったから嬉しいよ」
頬を綻ばせる彼を見て、和食にしてよかったと思う。
夕食を食べ始めると、諏訪くんは相変わらず大袈裟なくらい褒めてくれた。
「ところで初日はどうだった?」
「今日は流れを見せてもらっただけだし、まだなんとも言えないけど、木野さんが丁寧に教えてくれるから大丈夫だと思う。緊張もすぐに解れたし」
「よかった。スタッフは信頼できる人ばかりだけど、香月の言葉を聞いて安心した」
「心配してくれてありがとう」
「いや、それより社内の案内もできなくてごめん」
眉を下げた彼が、お箸を置いて息を吐いた。
「本当は俺がするつもりだったんだけど、タケと篠原に反対されたんだ。あ、タケって鵜崎のことなんだけど、あいつの名前は武則っていうんだ」
諏訪くんの呼び方からして、ふたりは社長と副社長という関係性でありながら友人でもあるんだろう。
「俺が案内しようとしたら、タケに『あからさまに目をかけることになるのはよくないし、他のスタッフと同じように指導するだけにした方がいい』って止められた。俺の紹介ってことは別に隠す必要はないけど、まぁそれも一理あるなと思ってさ」
相槌を打ちつつ、確かにそうだと思う。
諏訪くんは社長で、私は彼の紹介で入社した。それ自体は隠すことはないと言われているし、現に鵜崎副社長と篠原さんには事前に事情を伝えたとも聞いている。
とはいえ、社長自ら指導するような業務でもないのに諏訪くんに指導係のようなことをしてもらうと、場合によってはいい印象は持たれないかもしれない。
「ふたりには同居の件も伝えてあるし、公私混同しないようにってことでもあるんだと思う。俺、香月にマンツーマンで教えるくらいの気持ちでいたけど、反省したよ」
「おふたりの言うことはもっともだよ。諏訪くんはなにも悪くないし、私が諏訪くんに頼りすぎてるんだよね……。せめて公私混同しないように気をつけるね」
「俺としてはもっと甘えてほしいくらいなんだけどな」
きょとんとすると、彼は「こっちの話だ」と苦笑を零した。
「当初の予定と変わって悪いけど、木野さんは仕事ができるし、親身に教えてくれると思う。でも、俺も香月の力になりたいし、困ったことがあればなんでも相談して」
諏訪くんのこういうストレートなところがすごいな、と思う。彼自身は友達思いなだけなんだろうけれど、掛け値なしに手を差し伸べるなんてなかなかできない。
けれど、だからこそ諏訪くんに甘えすぎないように気をつける必要がある。彼にこれ以上の迷惑をかけたくないのはもちろん、今でもぬるま湯に浸かるような生活をさせてもらっているのに、このままだとどんどん甘えてしまいそうだから……。
「とりあえず、今月は忙しさもマシだろうから、あんまり肩肘張らずに仕事を覚えていってよ。木野さんに質問しにくいことは俺に訊いてくれて構わないし、俺の目が届く範囲では男性社員はできるだけ近づけないようにするから」
「ううん、そこまでしてもらうわけにはいかないよ。確かに男の人は怖いけど、みんながみんなそうじゃないし、諏訪くんみたいに優しい人もいるってわかってるから。それに、ずっと諏訪くんを頼ってばかりでいるわけにもいかないし……」
諏訪くんの態度は、友人を通り越して家族のようだ。とても心配してくれ、気にかけてくれる優しさには感謝しつつも、男性が苦手だからという理由で彼に守ってもらってばかりでいるわけにはいかない。
いつになるかはわからないけれど、いずれは美容師に戻りたい気持ちはあるし、そうなると諏訪くんがいない場所で頑張らなければいけない。すぐに助けてくれる彼に甘え続けていると、本当にひとりで立てなくなってしまう気がした。
(でも、諏訪くんがいない場所って考えると……)
確かめるように心の中で呟きながら、胸の奥底に芽生えた小さな違和感が気のせいじゃないことを確信する。
上手く言葉にできないけれど、不安や恐怖心とは違う感情が燻ぶるようで、モヤモヤとしたものが渦巻いていく気がした。
「そんな寂しいこと言うなよ」
ふと気づくと、私を見ている諏訪くんが神妙な面持ちになっていた。その表情をどう捉えていいのかわからずにいると、彼は小さく笑って立ち上がった。
「ごちそうさま。俺、ちょっと仕事するから先に風呂使っていいよ」
「あ、うん……。ありがとう」
諏訪くんが話を掘り下げる気がないのは明白で、素直に頷くことしかできない。彼は笑顔を残し、自室にこもってしまった――。
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