ハイブリッド・ブレイン

青木ぬかり

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第一章 14歳の真実

9 後悔

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  バタン。

 安っぽい玄関ドアの音が、安っぽい3DKに響いた。岩崎、中西らを見送った加藤はコーヒーで一息しようとダイニングに向かう。

 ジャー 、キュッ。カタン、ピッ。
 ギーッ 、カチャ、カチャン 。
 キィッ、ガサガサ、サーッ。

 水を注いで湯沸かしをセットしたあと、食器棚からマグカップとドリップ器を出して、そこに冷蔵庫から出したレギュラーコーヒーを入れた。そうして湯が沸くのを待つ。

 それにしても美咲が死んでからというもの、物音の一つひとつがやけに鮮明に頭に響く。
 そしてそれを感じるたびに加藤は、自分の孤独が深まっていくような気持ちになった。

 家で一人きりという時間……。それがこれまで案外少なかったということに、美咲を失って初めて加藤は気が付いた。
 通勤に1時間以上かかる加藤は、朝早くに美咲に見送られ、帰宅すれば美咲が「おかえり」と言ってくれていたのだ。
 つまり美咲は加藤を送り出してから学校に行き、部活を終えて夕食を用意し、独りテレビを観ながら加藤の帰りを待っていたのだ。
 週末は週末で、一緒に出かけることもあったが、加藤が仕事で空ける日も少なくなかった。それに仕事柄、短くて一泊、長ければ一週間という出張もしばしばあった。

 この家で一人きりという時間は、美咲にとっては日常だった……。
 いや、それは正確ではない。加藤から見れば美咲がいつも家にいたと錯覚しそうになるが、常に家にいたとは限らないから、正しくは、加藤が知らない美咲の時間が相当にあったというべきなのだ。
 その長い時間、美咲は一人で何をしていたのだろうか。いや、これも違う……。一人でいたとは限らないのだ。
 美咲の生活をあまりに知らなすぎた。
 親として失格だったか……。加藤はそう自省した。

 ともあれ、今さら何を悔やんでも遅いのだ。
 反省したところで美咲が戻ってくるわけではない。そうだ……戻ってこないのだ。
 じゃあ、どうして俺は自殺の理由を探そうしているんだろう……。

 それは俺の単なる自己満足のためではないのか。
 家庭……いや、自分に原因がないということを確かめて安心し、あわよくば怒りの矛先、感情の捌け口を見つけようとしているだけではないのか。

 ……これは危険だ。
 追求した結果、原因が自分にあったとき、俺は正気を保てるだろうか……。
 美咲はなにも語らずに死んだ……。それすら父親に対する心遣いであったとして、その事実を突き付けられて俺はこの先の半生を生きていけるだろうか?
 そして、そのおそれは充分にあるのだ。

 岩崎に啖呵を切った覚悟が揺らぐ。
 少なくとも自殺に至る美咲の心を察知してやることができなかったのだから、既に相応の責任があるのだ……親として。
 加藤は、大人とも子供とも言えない年齢にあった美咲に、自分の都合に合わせて大人の役割を担わせたり、子供と見なしたりしていた。それに文句ひとつ言わない美咲に甘えていたのだ。

 富永は昨日、美咲の部屋を父親の部屋と勘違いした。
 棚の本も中学生のものとは思えないと言った……。
 そうだ、美咲の立場で世界をみなければ何も解るはずがないのだ。

 ついさっき加藤は中西に対し、中西の置かれた立場を考えて対応した。
 他人である中西の心に寄り添うことができるのに美咲の心を看てこなかったのは怠慢以外のなにものでもない。既に手遅れなのだが、今からでも美咲の立場になって追求しなければ、真実には近づけないだろう。
 岩崎は富永に「三日で加藤美咲になれ」と指示したらしいが、なんと端的で的確な指令だろうか。やはり岩崎はプロの刑事だ。

 ……自分も美咲になろうとすれば何か解るだろうか。
 加藤はそんなことを考えながら、普段であれば美咲が淹れてくれていたコーヒーをひとりで啜る。 
 その音までもが、加藤の心にまた一つ孤独を刻んだ。


 よし、俺もなってやろうじゃないか、美咲に。
 コーヒーを飲み終えた加藤は、今度は孤独を打ち消すために、ドン、と大きな音をたててマグカップを置き、美咲の部屋に向かう。

 六畳フローリングの美咲の部屋……。
 あるのは本棚と机、ベッド……それと加藤のおさがりのステレオセットだ。
 貧相な造りの部屋に対して本棚は大きく、机は広く、ベッドは高級で、ステレオは洒落ている。

 服はクローゼットに納められているので整然としている。富永はこの部屋に中学生らしからぬ印象を受けたようだが……そもそも普通、女子中学生の部屋には他に何があるべきなのだろうか? テレビやパソコンはダイニングにあるものを加藤と共有していたし、美咲は部屋にアイドルのポスターを貼るなどという趣味はなかった。

 ぬいぐるみ……か?
 そういえばこの部屋にはぬいぐるみが無い。美咲が持っているクマやウサギなどのぬいぐるみは、ダイニングないし和室には飾ってある。なんで自分の部屋に置かなかったのだろう。
 まあ、美咲にとってこの部屋は寝るためだけの場所で、ここの3DK全部が美咲の部屋であったと言えないこともない。
 寝るため……。ベッドしかり机も本棚も、この部屋にある調度品は、2年とちょっと前、ここに美咲と転居してきたときに新調したものだ。
 2年前……机と本棚は大きい方がよいと加藤が主張したのに対し、美咲はベッドと照明にこだわった。

 『ベッドがリッチなら、人生の3割セレブだよ』

 たしか美咲はそう言った……。
 結果として、たいして広くもないこの部屋に、しっかりした造りに高級マットレスが載った立派なベッドが置かれることになった。しかもセミダブルの広さだ。運び入れるのに難儀したのを思い出す。
 そして照明……。これも美咲が自分で選んだ。洒落ているのかなんなのか判らない、小振りのシャンデリアのようなキラキラした照明が天井に吊られている。こういう照明は普通、リビングあたりに吊るすものじゃないのか?
 ……まあ、綺麗と言えないこともないが。

 次に加藤は本棚を見る。
 富永はここにある本を「中学生が読む本じゃない」と言った。
 言われてみればそのとおりだ、と加藤も思う。
 「財政界ジャーナル5月号」……こんなものを中学生が読んでどうなるのだ? そう思いながら加藤はその小難しい雑誌を手に取る。ん? 付箋のついたページがある……。
 開いてみるとそこは、各省庁の春の公開人事と有名企業の公開役員人事のページだった。
 いくつかの人名にはマーカーペンでしるしがされている。……なんだ? これは……。美咲がしるしを付けたのか? ……考え難い。
 こんなページの人名をチェックするのは……そうだ、それこそ、ここに名を連ねるような人間だ。
 ……ああ、そうか、おそらくこの本は美咲のものではないのだ。……男、か。
 彼氏などいらないと言いながら美咲は、若冠14歳にしてこの部屋に男を連れ込んでいたのかもしれない。
 美咲が精神的に早熟であったであろうことは加藤にも判る。加藤は美咲をほとんど対等なパートナーのように扱っていたのだ。
 そして実際に美咲は、学識のないそこいらの大人よりもはるかに加藤の話し相手になっていた……。
 それならば、この部屋だけに徹底した清掃にも合点がいく。後ろめたかったのだ、流石に。
 だから父親に気取らせまいとしたのだろう。

 では、相手の男は誰だろう……。
 そうだ、携帯電話に履歴があるかもしれない。
 その男が美咲の自殺に絡んでいる可能性は高い。
 加藤は美咲の遺品を確認するために、今度は和室に向かう。

 加藤に自覚は無かったが、ドアを閉める音も、短い廊下を歩く音も、もう加藤に孤独を刻みつけることはなかった。


 和室で加藤は美咲の携帯電話を手に取る。
 青い子どもケータイ……。操作して通話履歴を確認したが、残っているのは通話、メッセージともに加藤とのやり取りだけだった。
 電話帳にも加藤の知らない電話番号はなく、加藤と親族が登録されているだけだった。
 手掛かりなし……か。

 しかし、と加藤は考える。自分が今、この時代の中学二年生だったとして、この子どもケータイで日常に事欠くことはなかっただろうか? おそらく不満だったろう、まして早熟な美咲には。
 美咲は何も言わなかったが……もう1台、別の携帯電話を維持することは、そう、経済的には可能だったはずだ。
 毎月の生活費7万円をやりくりすれば。
 だが、中学生がひとりで新規に携帯電話の契約をすることはできないはずだ。いや、大人の男の影を疑っているのだから、その男から与えられていたことは充分に考えられる。死に臨む前に隠したか……。
 加藤は遺品として受け取った学生カバンの中を改める……が、めぼしいものは何もなかった。

 ふと、もうひとつの遺品が目に入る。……鍵束。
 鍵束には4本の鍵がある。一つは家の鍵、それと自転車の鍵……あとは昨日、富永と一緒に開けた机のひきだしの鍵だ。
 この、残りの一本……いちばん小さい鍵はなんだ?
 見たところ、南京錠かなにかの鍵のようだが……。
 もしかしたら自転車にもう一つ鍵を付けていたのかもしれない。これは岩崎か富永に聞いてみるしかないか……。
 まあ、聞く前にもう一度、その鍵に合うものが家の中にないか探してみるか。加藤は再び家捜しをすることにした。

 ひととおり家の中を探したが、果たしてその小さな鍵に合う錠前は見つからなかった。
 こうして改めて家の中を見て回ると、やはり美咲の部屋だけが特殊な雰囲気を放っていた。清潔で生活感がない。そして派手な照明と広いベッド……。
 それと、これまでは気にも留めなかったが、美咲の部屋にだけ芳香剤が置いてあるのだ。本棚の上に、目立たぬように……。
 シトラスの香り……。「個」を感じさせないこの空間は、男を連れ込む部屋というよりも……まるでラブホテルの一室だ。
 加藤は、自分の知らない美咲の姿に得体の知れないものを感じ始めた。


 真実に近付いた手応えはある。
 だが踏み出した第一歩の感触は湿り気を帯びていた。進んだ先にあるのは沼かもしれない……。
 それも底無しの。

 しかし、父の知らぬところで何をしていたとしても、美咲は決して「悪」ではなかったはずだ。それは信じたい。
 加藤は結末への怖れを振り払うために気分を入れ替えようと、丸一日ぶりに外に出ることにした。
 ……俺も現場に花をたむけよう。歩けば20分くらいか。途中に花屋もあったはずだ。

 気分転換にはちょうどいいと考え、加藤は歩いて事故現場に行くことにした。
 黒いコートを羽織ってマフラーを纏う。
 そういえば、このマフラーは美咲の手編みだ。
 ちゃんと女の子らしい一面もあったのだ。
 首の温もりは、萎えかけた加藤の勇気を僅かに奮い起たせた。


 途中で花屋を物色し、おおよそ30分をかけて、加藤は現場である跨線橋に着いた。花束を握り直して歩道を登る。
 正確な現場は向こう側に下りはじめた地点だが、献花は橋の最上部に置かれているようで、早くも花束の一群が見える。
 近付くにつれ、加藤は献花の量が想像を超えていることを認めた。今も誰かが目を閉じて手を合わせている。若い女性だ。富永と同年輩の。
 女性は近づいてくる気配に気が付いたのか、目を開けて加藤の方を見た。一瞬目が合う。そして女性は向こう側へと橋を降り始めてしまった。加藤は登りきったところで女性の背中を見やる。
 どこかで会ったか……。通夜と葬儀では見なかった気がするが、学校関係者だろうか。
 いずれにしろ、この場で「こんにちは、死んだ娘の父です」と挨拶するのもおかしいし、単にニュースを見て事故を知り、冥福を祈ってくれたのかもしれない。

 加藤はその場で、女性の背に向けて心で礼を言った。

 それにしても、この花の数はなんだ……。まるで花畑ではないか。
 加藤にそんな感想を抱かせるほどに、多くの花が供えられていた。ご丁寧に誰かがビール瓶ケースを持ってきてくれており、そこに花束が立ててあるのだが、ケースが5個もあるのだ。
 これは芸能人並みではないのか?
 加藤はそんなことを考えながらケースに新たな花束を押し込んだ。
 やはり逝くのは早計だったんじゃないか? 美咲……。

 そうして橋の頂点で加藤が感傷に浸っていると、携帯電話が着信を告げた。……岩崎からだ。

「どうした?」

(今いいか?)

「ああ、大丈夫だ」

(確認なんだが、本当に美咲ちゃんは他の携帯電話を持ってなかったのか?)

 つい先刻に加藤が抱いた疑問を、岩崎が口にした。

「俺が把握していた限りでは、持っていなかった」

(……お前も何か見つけたのか?)

「いや、なんとなく……だ。ん? 今、お前〝も〟、と言ったか?」

(ああ、いや……こっちも、なんとなく、なんだ)

「そうか……。そうだ、俺も岩崎に聞きたいことがあった」

(なんだ?)

「美咲の遺品は、あと何があるんだ?」

(自転車と服だけだ。服は学生服だ)

「そうか……。じゃあ、自転車にワイヤー錠とか付いてなかったか?」

(ん? いや……付いてなかったと思うぞ。ちょっと待て。おい富永、自転車にワイヤー錠とかなかったか?…………そうか。加藤、付いてなかったようだぞ)

「分かった。で、そっちはどうなんだ? なにか判ったのか?」

(いや、具体的には……まだだ。でも、そうだな……富永からは明日、ある程度まとまった報告を受けることにしてるから、お前も聞くといい。明日の夕方、会えるか?)

「ああ、構わない」

(そうか、じゃあ、悪いが夕方の4時に東署まで来てくれ。署から持ち出せないものを見てもらうかもしれん)

「了解だ」

(じゃあな)

 岩崎と富永も何かを掴みかけているようだ。
 ……優秀な奴らだ、本当に。そして手を抜く様子がない。

 天職……。加藤の胸中で、そんな言葉が岩崎らの姿に重なった。
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