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~第二幕~
虚柩の霊 Chapter.2
しおりを挟む不思議な事だが悪夢は見なかった。
姉に慰められて以来、悪夢は見なくなった。
無自覚ながらも安心を得たからだろうか。
自然な緩やかさに目覚めを誘ったのは、意外にも物静かな空気のみである。
覚醒の倦怠感に弄ばれつつも、エレンは朧気な思考に呟いた。
「姉さん……わたし……」
あれ以来、真っ先に脳裏を占めるのは姉だ。
それだけで情緒は安堵を覚える。
が、その幸福感は即座に呑み潰された!
ゾッとする黒に!
身の毛もよだつ赤に!
「いやぁぁぁ!」
戦慄に半身を跳ね起こした!
刷り代わりに脳裏を支配したのは、父!
恨めしくも睨み付ける凝視!
無念の呪詛を孕んで開かれた瞳孔!
「ハァ! ハァ! ハァ!」
両手に顔を塞いで荒げた息を整える!
必死に!
懸命に!
この苦難を乗り越えねば呼吸が止まるかとさえ思えた!
然れど、そうしたところで〈罪〉は消えない。
殺したのだ!
自分が!
「わ……たし……わたし……」
ワナワナと小刻みに震えるのは、果たして自責故か……それとも、恐怖か…………。
「……姉……さ……」
絞り出す己の声が、張り詰めた気力を綻びに崩す。
やがて、くぐもる声音は嗚咽と変わっていた。
泣いていた。
子供に返って泣いていた。
迷子にも似た心細さであった。
だが───。
──アタシが調べる。
光が聞こえた。
心の底から輝いてくる光は、深い暗闇の中でも輝く黄金の如く。
姉は戦ってくれている。
おそらく、現在、この瞬間も。
「……うん、きっと姉さんが救けてくれる」
みっともなく染め上げた涙を細指で拾い拭いつつ、気持ちを立て直す。
いつも、そうだった。
エレンのピンチには必ず駆けつけ、そして守ってくれた。
必ず……必ずだ。
幼い頃から……。
ならば、柔和な平静を飾らねば。
無理矢理にでも。
それが現状の彼女に出来る精一杯にして唯一の抵抗なのだから。
と、部屋のドアが軋みを鳴いた。
どうやら誰かが来たようだ。
「イムリス?」
真っ先に思い浮かんだ候補へと呼び掛けるも、それはものの見事に外れた。
「……え?」
一瞬、思考が惑わされる。
入室者は、まったく予想外の顔見知りであった。
「ィッヒッヒッ……久しぶりだねぇ? エレンちゃん?」
「マティナおばあちゃん?」
燃え朽ちた人型。
山盛りの黒炭を前に、ヴァレリアとクリスは疲労の緩和に努めた。
軽く小休止だ。
まだまだ先は見えない。
養えるタイミングで英気は補填しておく。
「燃やす……ですか」
呪怪の排斥方法を見て、イムリスは軽く感嘆を覚えていた。
キンッと奏でられるジッポライター。
ヴァレリアは紫煙蒸かしの素っ気ない対応を向ける。
「大方、実戦を見たのは初めてだろ?」
「ええ。しかし、こんな退治方法とは……目から鱗ですよ」
「二度目なんでね」
「成程」と、肩竦めの苦笑に砕けを見せる。
とはいえ、まったくのノーダメージではない。
その流れに持っていくまでに悪戦はした。
あの怪物特有の怪力とタフネスさは接近戦に於いて恐ろしい脅威である。
その豪腕に捕まれば、最悪、女の肢体など木片同然だ。
だから、クリスが負った。
ヴァレリアを庇う矢面は、全面的に引き受けた。
時折に覗かせる無言の男気を覚るからこそ、ヴァレリアはコイツを切れない。無下に出来ない。
結果、欠かせない相棒になっていた。
常日頃から傍らに居る存在に……。
無関心を装いつつ離れて座る隆々は、時折、腕の筋肉を擦っていた。
何処かダメージを負ったのだろうか?
多少の心配を覚え、また、自分の内にそうした繊細な念が芽生えている事にも戸惑う。
とりあえず、少し長めの休憩を取ろう──そう決めた。
「しかし、よく閃きましたね? 確かに乾燥死体ですから、よく燃える……ですが、かといって半端な火力では短時間で燃やし尽くすのは不可能です。だから、酒を浴びせる……染み込ませる。よく出来た連携プレイでしたよ」
「偶然見つけた即興策だよ。そして、その時には、たまたま酒があった」
「帰ったら消費分は奢れよ」と、そっぽに投げ掛けるクリス。小難しさは蚊帳の外とばかりに離れで座り込んだまま、酔いの小瓶を煽っていた。
まだダメージは疼くであろうか?
まさか骨に異状とかは無いと思うが……。
いや、待て。
アタシは何を心配している?
柄じゃない。
共に……。
「それにしても──」
「何です?」
「──いや」
消化不良に説明を閉じるヴァレリア。
何故か?
それは自身にも分からない。
分からないが、真意を曝すのを渋った。
彼女流に言うならば「女の勘」というヤツであろうか。
(正直、不自然な要素は何ひとつ解消されていない。そもそも、何故〈ミイラ男〉は復活した? 何故、活動範囲を墓跡内部のみに絞っている?)
これらがヴァレリアの胸中に攪拌される淀みであった。
(間違っても、ミイラ男復活の要因は〈ダークエーテル〉じゃねえ。起因は〈呪術〉だ。とすりゃ、その背景にあるのは、何者かの意図……そして、それだけの呪力を秘める)
そう考えれば多少ゾッとする。
(活動範囲が王墓内部に限定されているのは、それ自体が目的だからだろう。そこから察せる可能性は、ふたつ。ひとつは『侵入者の排斥』──もうひとつは『何かを護っている』────)
どちらにしても腑に落ちない考察点である。
それが彼女の憶測力に揺らぎを覚えさせるのである。
金色の羽根は息吹く。
人知れずに……。
具体的な解決策とはならぬとも、誰かに話す事で精神面が楽になる側面はある。
だから、マティナ婆は穏やかに聞き手へと徹した。
ベッドに半身を起こしたまま、エレンはこれまでの経緯を吐露し続けた。
その抑揚は沈着に懇々としながらも、静かな熱を帯びており一息の間も見えない。
よほど思い詰めていたという事だろう。
おぞましい悪夢も……
異常な夢遊も……
父との確執も……
そして、姉への思慕も……。
「うんうん……そうかい……なるほどねぇ」
察しながらもマティナ婆は崩さない。
ただ温厚な笑顔で頷き続けた。
「エレンちゃんは、昔から我慢が過ぎる子だったからね……そりゃ辛かったろうさ」人好きが目を細める。「小さい頃から知ってるからね……エレンちゃんの強さは」
少しだけ心を回顧に浸せば、いまでも鮮明に瞼へと浮かぶ。
ぶっきらぼうに尖った姉に連れられて、ピョコピョコと後についてくる愛らしい幼女の姿。ヤンチャな姉とは対照的に可愛らしいチャイルドドレスを着て、いつもヌイグルミを抱いていた。表情にしても言動にしても、まるで人形のように無垢であった。
基本的には姉に従順で、ともすれば素直過ぎる性格であったが、時として見せる意固地さは、あの勝ち気な姉を困惑に翻弄する事もあった。
そして、それは〝芯の強さ〟だとマティナ婆は常々感受していた。
何事にも能動的に首を突っ込み事態を強引に進展させる姉と、また消極的に見えつつも実は姉以上に退く事を知らない妹──凸凹のように見えもするが、姉妹の化学反応は常に好転と機能したから不思議なものである。
「だけどね? その強さは弱さと紙一重なんだよ。我を保っている間は、そりゃ強い。自分の信念を拠として何事も斥ける鎧さ。けどね、それが保てなくなれば、一気に崩れちまう。瓦解してしまう。例えるなら、ダムのようなものかねぇ」
「ダム?」
「そう、ダム。その頑丈さは誰の目から見ても絶対的な牙城に映る……けれど、一度綻びが生じれば、そこから成し崩しに決壊しちまう。それまでの強固さが嘘だったかのようにね。そして、内に蓄積していた水嵩は、これまでの鬱積とばかりに鉄砲水と化して全てを呑み潰してしまう。荒れ狂う怒濤と化した勢いを抑え込む術なんかありゃしない。自分さえも激流に溺れさせられるままにして、残されるのは目も当てられない荒れ野原さ」
「お婆ちゃん……わたし、どうしたらいいか分からないよ」
「そうさねぇ? まぁ今回に於いては〈謎〉が多過ぎるよ。だから、いまはヴァレリアちゃんに賭けて待っていたらどうだい?」
「姉さん……そういえば、姉さんは何処へ?」
「おや、聞いてなかったかい? 今頃は〈ツタンカーメンの王墓〉さ。件の古文書こそが〈謎〉を解く鍵と判断してねぇ」
「無謀よ! あそこは未だ発掘調査の途中! 竜牙戦士の警備も厳重なのよ! 姉さん、どうして無茶ばかり……」
「昔から、そういう子だったからねぇ。気になった事は、とことん向き合わないと気が済まない。自分が納得するまで首を突っ込んじまう。けれど今回ばかりは、それだけじゃない。判っておいでだろう?」
「うん」と、宥められた子供のようにシュンと認める。「……わたしの……ため」
彫りの深い温顔は、そっと優しく髪を撫でてやった。
「よほど大事なんだよ……エレンちゃんの事が。大好きなのさ」
この二人の事は小さい頃からよく知っている。
なつかれた事もあって、その家庭背景も愚痴不満と聞かされてきた。
ヴァレリアの不遇。
エレンの純真。
姉の心境変化。
妹の思慕。
そして、父親のエゴ。
不幸な子供達とは思いつつも、率先して介入はしなかった。他人様の家庭事情に乗り込める程、偉くはない。
あくまでも終始〝聞き役〟だ。
昔も現在も……。
この娘達の成長を、マティナ婆は見守り続けてきた。
実の娘とばかりに……。
「冷え込んできたな」
体感する気温に、ヴァレリアは夜の降臨を実感する。
熱砂の国という先入観に定着したエジプトだが、夜は──殊に砂漠の──洒落にならないほど気温が下がる。
これは闇暦にても同じであった。
況してや、此処は遺跡だ。
相乗効果で冷寒は刺さる。
「少し暖を取るか……休憩だ」
的確な判断に作業を中断すると、部屋の片隅に放り置いていた背負いバッグから携帯型キャンプストーブを取り出した。
火を灯して光源と熱源を得る。
「おし、飯だな?」と、クリスは揚々。待ちに待っていたとばかりにヴァレリアの手伝いに参加する。
当然、イムリスもだが、こうした状況では初体験なので、経験者の邪魔にならぬよう細やかな補佐だけに徹する事とした。
ヴァレリアはレトルトの液体を飯盒に開けると、小規模に燃え盛る火祭へと炙る。
「シチューですか? レトルトの?」
「ああ。手頃ながらも栄養価が高く、体温復活の熱源としての役割も大きいメニューだ。そこそこ具材もゴロだから腹持ちもいい」
「成程」
「ほらよ」と、続けざまに投げ渡されたのは缶コーヒー。「飲み終われば空き缶を捨てれば善いだけだからな。合理的だ」
「確かに。コーヒードリッパーを持ち運ぶよりは合理的ですね。闇暦とはいえ、旧暦末期の利便性は遺っているのですから活用しない手はない。むしろ帰りは荷物が軽減される」
「そういう事だ。ハワード・カーターの時代には無かったってだけの話さ」
「誰だ? それ?」
晩餐準備の片手間にクリスが怪訝な表情を向けた。
「旧暦のエジプト考古学者だよ。その筋じゃ伝説的な偉人だな。資産家〝カーナーヴォン卿〟を懇意のパトロンとして発掘解析に没頭し、エジプト考古学に多大な発展を捧げた」
「多大な発掘貢献? 何処だよ?」
「此処〈ツタンカーメンの王墓〉だ」と、主食のパンを千切り分け、各人の食事と宛がう。チューブ入りのチョコレートジャムも有る。
いずれも食べてしまえば後始末に困らない。
斯くして、やがて質素さに彩られた晩餐が始まった。
キャンプストーブを中核とした車座に腰を下ろすと、必然的に結果報告と今後の指針をミーティングする形となる。
「南東に造られた宝物部屋は藻抜けの空だった。おそらくは調査隊によって回収済みなんだろうな」
ビーフジャーキーを齧り裂きつつ述べるクリス。
「隠し扉は?」と、ヴァレリアの促し。
「無いな。壁や天井も隈無く探ってみたが、少なくとも宝物部屋には無い」
「こちらも、この部屋の壁は探り回りましたが同じくですね」と、これはイムリス。
「ふむ?」コーヒーを啜りつつ、ヴァレリアは虚空眺めの目を細めた。カフェインの覚醒効果を脳へと染み込ませるかのように深い沈思を巡せる。
「釈然としない様子だな?」
「ああ」
「ヴァレリア? 何か引っ掛かる点でも?」
「ん」と顎で指すのは、ミイラ男の塵塚。「アイツは何処から涌いて出た?」
冷静なリーダーに指摘されて、一同はハッと気付く。
「確かに……この先──つまり北側の暗がりは〈王の間〉しか無いですね」
「んじゃ、そこにいたんじゃないのか?」
「仮にも〈王のミイラ〉が眠る厳粛な玄室に……か?」
「ああ」
「怪物を駐在配置……か?」
「ああ」
この脳筋!
「だったら、調査隊が遭遇してるだろうが! 真っ先に! となりゃあ、竜牙戦士に駆逐されてる!」
「そりゃあ……ああ、そうか」
「ヴァレリア? では?」
「アタシの見立ては、こうだ──隠し部屋が在る」
「王の間に……ですか?」
「ああ」と、一啜り。「隠し部屋の存在は旧暦中期から真しやかに囁かれている鉄板仮説だ。ただ立証されていないだけでな。けれど、アタシ達は遭った。どう考えても、アレが北側の方向から現れたのは事実──この部屋から北に在るのは〈王の間〉以外に無い。けれど、普段から常駐待機しているのであれば、とっくに調査隊が遭遇しているはずだ。つまり『普段は隠し部屋に待機している』と考えるのが順当。そして、スイッチが入れば動き出し、いざ御出勤ってワケだ」
このプロセスならば遭遇も説明が着く。
一本道構造である〈アンケセナーメンの墓〉にて、何故、唐突に出現したのか……行きは遭遇しなかったにも拘わらず。
おそらく各王墓には〝待機部屋〟が在る。
それはつまり、何処の王墓にも〝隠し部屋〟が存在しているという事でもあるのだ。
こうした〈新事実〉が明るみになる事が往々にしてあるからこそ、実に『考古学』というものは面白い。汲めども尽きぬ魅惑の泉である。
「エレンが言うには、件の古文書は隠し収納に有った。アタシの〈羽根〉もだ。そうした隠匿方法が定番的なら、その拡張発想として隠し部屋が設けられていたとしても、何ら不思議じゃないさね」
「目的は、やはり〈墓守〉ですか?」
「おそらくな。一度起動させれば時代を越えて不眠不休……おまけに不滅の〈超自然存在〉だ。頼れる警備員だよ」
「かぁぁ? 今後も鉢合わせする可能性が確定って? 洒落にならねぇな?」
「とはいえ、これまでの経緯から推察出来た法則もある」
「今度は何だよ? ヴァレリア大先生?」
「基本、単体……集団出現はしない。デッドや竜牙戦士と違ってな」
「あ、確かに」
「つまり、各王墓に一体のみ専属……という事ですか? ヴァレリア?」
「そう見ている」と、苦味を喉に流し込む。「その推測が正しければ、此処にはもういない……安心して漁れるよ」
そう嘯くも、暗闇に吸い込まれる眼差しは警戒心を弛ませてはいなかった。
まだ何かある。
それが何かは判らないが、まだ危険は潜む。
女の勘だ。
夜が訪れる。
エレンの寝息を確認した後、ややあって老婆は重い腰を上げた。
「さて……ボチボチ始めるとするかねぇ」
化粧台へと足を運べば、その上に一纏めとされていたのは件の盗品類。
微弱な煌めきを放つ黄金の雫は、結集することで力強い輝きへと変わる。
窓から射し込む淡白い月明かりすらも、神々の威光とばかりの転化に反射していた。
「〈セト〉に〈セベク〉に〈ホルス〉に〈バステト〉……とんでもなく豪勢な顔触れだよ」
現在でもエジプト神信仰を信条とするマティナ婆してみれば、この上無く有り難い偶像である。
「けれども、コレがエレンちゃんを苦しめたのは事実。皮肉なものだねぇ」
無念とも憐憫とも取れる独り言を零すと、金色に輝く神々を腰の麻袋へとそそくさと詰め込む。一柱も残さずに……。
そして、いざ実行直前の名残惜しさとばかりに、エレンの寝顔を慈しんだ。
「ごめんね、エレンちゃん……あたしが弱いばかりに、アンタを救ってやる事が出来なんだ……ごめんよ」
心底〝いいこ〟であった──エレンも……ヴァレリアも。
この二人に触れていると、それこそ孫娘のように……いや、死別した娘であるかのように錯覚した。
心が潤された。
虚無感が忘れられた。
だからこそ、辛く苦しくもなる。
この選択が……。
額にそっと口付けをすると、起こさぬよう静かに部屋を後にした。
下る階段。
老婆の挙動を見定めるや急いで送迎の整列を形成するメイド達。
脇に居並ぶそれを室内装飾の美術彫像とばかりに、老体は悠然とした物腰に通り過ぎた。
「後は頼んだよ」
背後に従えたメイド長に告げると、老婆は威風を置いて立ち去る。
粛々と畏まる使用人勢を尻目に……。
その振る舞いは矍鑠としたものであった。
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