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第24話

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「雨、強いですね」
「お前はいいよな、鎧を着れば濡れないから」

 大きな木の下で雨宿りをしながら、クエルチアとアカートは言葉を交わした。
 アカートの亜麻の外套はおろか、その下の紫紺の服までずぶ濡れになって肌に張り付いている。
 クエルチアはというと、雨が降ってからは魔鎧を身につけて滴一つさえ体に届くことはなかった。
 二人は川の近くで一晩を明かし、夜が明けてから川の上流に向かっていたところ、先程から激しい雨が降り始めて足止めを余儀なくされていた。
 叩きつけるような音のする雨は、否応にもクエルチアの不安を煽る。

「無事に、ディヒトさんと合流できるんでしょうか」
「川の上流なら一本道だ。そう難しく考えることじゃねえよ」
「ですけど……」

 クエルチアが言い淀んだとき、視界に動くものを認めた。
 その影は動物ではなく人のものだった。

「ディヒトさん!」
「無事だったか」

 雨に濡れながらディヒトバイは歩いてきた。
 その姿にはやや疲れが見えているものの、しっかりとした足取りだ。
 二人の元まで歩いてくると、肩にかけていた荷物を地面に下ろす。

「荷物、持ってきてくれたんですか」
「ああ」
「賊は……」
「全員斬った」

 それだけ言うと革のコートを脱ぎ捨て、濡れた服を脱いで絞った。今はディヒトバイの体に見惚れている場合ではないと、クエルチアは目を反らす。

「なんだ、派手な刺青してんな。そんな刺青入れるようには見えねえが、若気の至りか」

 ディヒトバイの腹にある狼の刺青を見て、アカートが茶化すように言う。

「ま、俺も人のことは言えないがね」

 アカートも濡れた服を脱いで絞る。そう言う彼の胸にも大きな刺青があった。円を基調に構成された何かの文様は真ん中から左右にちぎったような独特な形をしている。

「お前のほうが若気の至りって気がするな。代書屋風情には過ぎたもんじゃねえのか」

 珍しくアカートに言い返したディヒトバイの言葉には棘があった。しかし、それをものともせずにアカートは笑う。

「言うねえ。お前の言うとおり、確かに若気の至りなんだが。だが、ただの刺青じゃねえ、悪魔のしるしだ」
「悪魔?」

 クエルチアは思わず声に出していた。ディヒトバイも言葉にはしなかったが視線をアカートに向けている。

「俺の体には怖い怖い悪魔が封印されてんのさ。おっと、もっと近くで見られるのは俺と夜を共にしてくれる姉ちゃんか兄ちゃんだけだぜ。ま、どうしてもって言うなら一晩くらいは……」
「誰がするか」

 最後まで聞くに及ばないとディヒトバイは切り捨てた。

「冗談だよ、じょうだ、ん?」

 肩を叩かれアカートがクエルチアのほうを向くと、今までにないほど鋭い目つきをした彼の顔があった。
 大きな体躯に加え、今は鎧を着ているので余計に威圧感があった。
 無言で腕を引っ張られ、少し離れた場所に立たされる。
 微妙に枝の届かない場所で雨粒が次から次へとアカートの体に降り注いだ。

「何をディヒトさんに粉かけてんですか! 俺を応援してくれるって!」

 アカートの肩をがっしりと掴んで揺さぶりながらクエルチアは小声で問い詰めた。

「焦るなよ、搦め手ってやつだろうが。他の相手に言い寄られたときにはっきりする自分の本当の気持ちってのがあるんだよ、世の中には」

 アカートは揺さぶられながらもわずかに引きつった声で答える。

「本当ですか。本当にディヒトさんのことは何とも思ってないですか」
「思ってねえよ。一晩だけなら面白そうだと……」
「アカートさん!」

 冗談か本気かわからないアカートの言葉に、声を小さくすることも忘れてクエルチアが叫ぶ。

「何かあったか」
「い、いいえ何も!」

 ディヒトバイに声をかけられ、クエルチアは慌ててアカートを解放し誤魔化した。
 怪訝な目で見ていたディヒトバイだったが、しばらくすると興味が失せたのか服を絞ることに専念した。

「これからどうする」

 絞った服を再び着てディヒトバイが問うと、アカートも服を着て唸りながら答える。

「どうするったって、雨が止まねえことには何もできねえからなぁ。明日も雨ならさっさと帰るか。歩き回れないんじゃあ調査どころじゃねえし」

 アカートが言うと、クエルチアが呆れたように声を上げた。

「帰るって、何のためにここまで来たんですか……」
「帰りに観光して帰ればいいだろ」
「そういう問題ですか?」
「そういう問題だ。俺の護衛だってのに俺以上に真面目になるんじゃないよ。この旅の全ての決定権は依頼者の俺にある。俺が観光して帰ると言ったら、何もなくて楽だくらいに思っとけばいいんだ」

 アカートの言葉に納得いかないようにクエルチアは唸った。
 雨は止む気配はなく、依然としてざあざあと降り続けている。

 りん、と。

 雨音の中に鈴の音が聞こえた。

 三人が耳慣れない音に周りを見ると、いつからいたのか、少し離れた場所に男が立っていた。
 骨の先に鈴がついた黒い傘を差し、ゆったりとした真っ黒なローブを着ている。
 肩までの髪も同じように真っ黒だった。

「こんにちは」

 男は笑いながら声をかけてきた。
 警戒したディヒトバイがアカートの前に出ようとすると、アカートはそれを制して口を開いた。

「こんにちは。見たところ魔法使いのようだが、俺たちに何か用かな?」

 アカートが魔法使いに尋ねると、魔法使いは優しく微笑んだ。

「昨日までこの辺りに賊がいたんだけど、今日になったら死体で見つけてね。もしかして君たちが片付けてくれたのかなって」
「その通り。俺の護衛は腕が立つんだ」

 魔法使いはディヒトバイとクエルチアを検分するようにじっと見ていた。
 やがて口の端を上げて満足そうに笑う。

「じゃあ、君たちを片付ければ、この森には誰もいなくなるんだね」

 魔法使いは傘を閉じ、傘の先で地面を突いた。
 再び鈴が鳴る。
 魔法使いの前の地面に光芒が現れ、魔法陣を描いた。
 その中心からせり上がるように出てきたのは豊かな黒髪を持つ見目麗しい女だった。
 しかしただの女ではない。
 腰には六つの犬の頭と十二の犬の足、魚と蛇を掛け合わせたような下半身を持っている。
 その姿こそオデュッセイアに描かれる怪物、スキュラであった。

「まさか、てめえが……!」

 アカートが言い終える前にスキュラの腰の犬の首が伸び、牙を見せてアカートを食おうとした。
 それを魔鎧を纏ったディヒトバイが前に立ち剣で防ぐ。
 三列に並ぶ鋭い犬の歯は鋸を連ねたようで、剣さえ噛み砕かんと牙を立てる。
 これが魔鎧と揃いの剣ではなく普通の剣であったら、瞬く間に折られていただろう。

「僕はこの森を気に入ったんだ。霧が深くて、静かで……。この森に僕の工房を作りたい。賊やここに住んでいた者たちのように、死んで静かになってくれ。その死体で怪物を作る、無駄にはしないさ」

 魔法使いが微笑みながら言うと、残りの犬の首も伸びて三人を襲う。
 魔鎧を纏ったクエルチアが伸びた首を叩き切ろうと上段から戦斧を振り下ろすが、幾重にも折り重なった固い毛は刃を通さなかった。
 ディヒトバイの剣に噛みついていた犬の首が大きく振り上げられ、ディヒトバイは勢いよく木に叩きつけられた。
 衝撃を受けた木が音を立てて折れる。
 地面に伏したディヒトバイは苦痛に耐えながら剣を支えに立ち上がる。
 そのときクエルチアが犬の首を払い、ディヒトバイの目の前に無防備な首が晒された。

「ディヒトさん!」

 好機にクエルチアがディヒトバイの名を呼ぶ。
 しかし、ディヒトバイは剣を構えるだけだった。まるで何かをためらうように。
 体勢を戻した犬の首は再びディヒトバイに食らいつく。
 剣に犬の首が噛みつき、身動きが取れなくなった。
 それを狙って他の犬の首もディヒトバイの体に牙を立てる。

「ぐ、う……っ」

 強固な魔力で編まれたスキュラの牙は魔鎧の加護すら貫通し、その表面に亀裂が入る。
 クエルチアは自分とアカートを守ることで精一杯で、ディヒトバイの助けにはなれなかった。

「このまま僕のスキュラで遊ぶのもいいけど、魔鎧持ちが二人もいるならこっちのほうが面白いよね?」

 魔法使いが再び地面を傘で突き、鈴を鳴らす。
 その音を聞いて犬の噛む力は更に増し、魔鎧の亀裂は更に大きなものとなり、ついに、割れた。
 赤い光がディヒトバイの体を包み、生身の体が露わとなる。
 その隙をついてスキュラの手がディヒトバイの頭を鷲掴みにした。

「ディヒトさん!」

 クエルチアが叫ぶも犬の首は攻撃の手を緩めず、クエルチアをその場に縫い止めている。
 スキュラはディヒトバイの頭を掴む手に力を込めると、黒い光となった魔力を注ぎ込んでいく。

「同士討ちさせてやる!」

 魔法使いが下卑た顔で笑うと、スキュラはディヒトバイを投げ捨てた。
 黒い光に全身を包まれディヒトバイは何かに耐えるように体を折って苦痛に耐える。

「う、ぐっ……、ああああああっ!」

 ディヒトバイは頭の中に入り込んでくる魔力に抗おうとするが、泥沼の中に突き落とされたように体が、思考が鈍っていく。
 同時に自分の中に湧き上がる明確な敵意を押さえつけるも、最早視界は黒く染まり、誰に剣を向けるべきなのかもわからなかった。

 目が、目が浮かんでいる。
 暗闇の中に狼がいる。
 狼は高く吠えた。

 ――――。

 吠え声が、響く。

 その瞬間、その場にいた誰もが何が起こったかわからなかった。
 ディヒトバイに纏わりついた黒い光が膨れ上がり裂けるように消え去った後、そこにいたのは異形だった。

 見上げるほどもある巨躯をした黒い狼。

 黄金色の瞳は爛々と輝いている。

 誰もが霧と雨に煙る中で見た幻とさえ思った。

 しかし、体が感じ取る確かな恐怖にそれが現実だと知った。

「な、なんだ、これは……」

 最初に声を上げたのは魔法使いだった。
 その声に黒狼は振り向き牙を剥く。
 弾けるように走り出した黒狼の前に、主人を守るようにスキュラが立ちはだかった。
 犬の首が伸びて黒狼に牙を立てるも、それをものともせずに走り続けスキュラに食らいつく。
 柔らかい肉を噛み切るように容易くスキュラの体は両断された。
 青い体液が噴き出し、力を失った体は地に落ちて腐った肉に成り果てる。
 スキュラの負けを察した魔法使いはすでにどこかに姿を消しており、クエルチアとアカートだけがこの場に残った。
 黒狼は口の周りを体液で汚し、噛まれた箇所から血を流しながら雨に打たれていた。

「ディヒト、さん……?」

 クエルチアが恐る恐る声をかけると、黒狼はゆっくりと振り返った。
 黄金色の瞳と視線がかち合い、クエルチアはその眼に理性が宿っていないことを感じ取った。
 狼がこちらに向けて走り出した瞬間、後ろにいたアカートを担ぎ上げて一目散に逃げ出す。
 
 ――――。
 
 雨の中に、獣の遠吠えが響いた。
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