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01:逃げ切り

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「しゃあ~~~逃げ切った!!」

 暗い部屋で一人、パソコンのモニターを前にしてガッツポーズを決める。
 心臓がバクバクと音を立てている。
 こんなに上手く行く事なんてあるんだろうか。いやあったんだけど。
 それでも未だに信じられない。
 自分の仮想通貨取引口座の残高に並ぶ数字。九桁。
 仕事柄、数千万円八桁もしくは数億円九桁の伝票処理をしているので、見慣れた数字ではある。
 けれど、この数字は会社の当座預金残高ではなく、俺個人の仮想通貨取引口座の残高だ。

「マジかよ……」

 何度見直しても九桁。それも一億や二億ではなく、六億円。スポーツくじで一等当選してもキャリーオーバーが発生してないと手に入らないほどの金額。
 もちろん一夜にして六億稼いだ訳ではない。
 ここ何週間での勝ちに勝ちを重ねた上での奇跡の六億円。
 自分でも何をどうしてこうなったか、詳しくは思い出せない。
 今言えるのは、二度と同じ事は出来ないだろうという事。

「この金を種銭にして投資を仕事にする? 絶対無理だね……」

 金に金を産ませる、そんな投資家の真似事なんて俺には出来っこない。
 この数週間でさえ熟睡する事など出来なかったのだ。

 自分が知らない間に世界情勢が変わるんじゃないか。
 自分が知らない情報を元に相場が急変するんじゃないか。

 俺には無理だ。確実に頭髪が白く染まる。いや、無くなる。
 この六億円を持って、俺は仮想通貨取引を引退するつもりだ。
 引き際が肝心。逃げるが勝ち。

 それでも、この六億があれば死ぬまで遊んで暮らせるかと考えると、それも難しい。
 この六億円に対して所得税がかかるし、来年の住民税も跳ね上がる。
 今は落ち着いて考えるほど冷静になれていないと思うが、多分半分残れば良い方。
 いや恐らく半分も残らないだろう。
 親が払ってる実家のローンを立て替えて……。いや贈与税がかかるのか?
 そこらへんのややこしい事は税理士か何かに頼めばいいか。

 まぁ税金払う分を残しておいた上でどんなに使ったとして、二億は残せるんじゃないか?
 自分の性格的に、会社辞めて不動産収益を得ながら家でゴロゴロする生活とか考えられない。
 だからといってその二億を元手に株や投資で増やそうというのはハゲる。胃に穴が空く。
 それに今の仕事も辞めるつもりもない。

「そうだ、近々専務が退任するって言ってたな」

 俺が勤めている会社は前社長と現社長と専務が立ち上げた株式会社だ。
 株式会社と言うからには、立ち上げた人達が株を保有している訳だ。
 うちの会社の場合、前社長が25%。現社長が35%。そして専務が20%保有している。
 何でそんな事知っているかというと、俺は経理課所属だからだ。
 残り20%は社員持株会という団体。ちなみに俺も持株会に所属している。
 自分の働いてる会社の株なら、安心して買える。
 俺は業務上、決算書も見れるし、実際の金の流れを管理している。
 専務は退任したら俺の持ち株はどうしたらいいんだと、うちの部長に相談してたしな。
 もし専務が良いと言ってくれるんなら、その株を買い取って……。

「明日それとなく専務に聞いてみるかー」

 今日は疲れた。めちゃくちゃ疲れた。
 自分の判断が正しいのか間違ってるのか全く確信を持てないまま、売ったり買ったりまた売ったりとしていたのでクタクタだ。
 けれど多分興奮しているからそう簡単に寝付けるとは思えない。
 明日は月曜日。多少無理矢理にでも眠らないとキツイだろう。
 いくら大金が転がり込んで来たとて、今の生活を変えるつもりはない。

「昨日届いたコニャック飲んで寝るか!」

 酒なんか普段飲まない癖に、取引での勝ちが続いて気分が大きくなって勢いでポチった高級酒。
 綺麗なお姉さんがいる飲み屋でボトルを頼めばそれだけで俺の月給が飛んで行くらしいコニャック。

「いい香りだけど強そうな匂いしてんなー」

 普段お茶を飲んでいるグラスに氷を入れ、トクトクと音を鳴らしてコニャックを注ぐ。
 どれだけ飲めば酔うのか分からないからチビチビと飲む。
 口に入れた瞬間ピリピリと舌を刺激される。鼻に抜ける熱い息。

「これが美味い、のか? 分からん……」

 とにかく、これは勝利の美酒だ。そして寝酒でもある。
 自分が逃げた後の相場はどうなっているか、グラスを片手に確認してみる。

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