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第2章 ハンター

23:呪詛と怒りと恐怖の中で

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「…よせよ、冗談だろ?」

 洞窟の中で尻餅をついたまま、柊也は呆然と呟く。柊也の目の前では、見た事のある映画のワンシーンが、女優を代えて上映されていた。



 ――― 震える舌 ―――



 1980年に公開された、日本映画である。破傷風にかかった少女とその両親を描いた作品であり、その迫真の演技は現実にあり得る事と相まって、視る者に強烈なインパクトを与えた。元々柊也はホラーもスプラッター映画も平気な人間であったが、映画鑑賞同好会で上映されたこの映画にはトラウマ級の恐怖を覚え、以来二度と見るまいと心に誓っていた。

 その映画が、目の前で再現されていた。それも、あまりにもリアルに。周りを見渡すが、いつも一緒に見ていた同好会の仲間は誰もいない。観客は柊也一人だった。いや、柊也は観客ですらなかった。いつの間にか、観客から登場人物に祭り上げられていた。台本もなく、監督もおらず、他の俳優もいない、二人だけの映画に出演させられ、制作を丸投げされていた。

「いいぃぃぃぃっ!ぎぎぎっ!ぎいいいいいいぃぃぃっ!」

 呆然とする柊也を意に介する事なく、主演女優は熱演を続けている。柊也はその台詞に気付くとゆっくりと体を起こし、呆然としたまま彼女の許へと歩み寄った。そして無表情のまま、左手で相手を指差すと、台本を読み上げる。

「汝に命ずる。彼の目と光の袂を分かち、闇の帳で抱擁せよ。
 汝に命ずる。彼の耳と音の袂を分かち、彼の周りを静謐で満たせ」

 柊也は「ブラインド」と「サイレンス」を唱え、シモンの目を塞ぎ、周囲から音を奪う。破傷風患者にとって、光と音は禁忌だ。魔法が効果を発した事を確認すると柊也はシモンから少し離れ、洞窟の中程まで進む。そして右腕で取り出した木刀を振り上げ、怒りに任せて力いっぱい地面に叩き付けた。

「畜生ぉぉぉっ!ふざけるなああああああああああああああぁぁっ!よりにもよって、破傷風だと?冗談じゃないっ!いくらチート能力があっても、初診が破傷風とか、ハードゲームにも程がありすぎんだよっ!糞があああああああああああああぁぁっ!」

 柊也は、喚きながら何度も何度も木刀を叩き付ける。この時彼は、この世界の全てを呪い殺したほど、怒り狂っていた。誰も彼も逃げてしまった。ジルもコレットもドナもイレーヌも、あれだけシモンを慕っていたフルールでさえも、逃げてしまった。誰も彼もが、柊也にシモンを押し付け、無責任にいなくなってしまった。

 彼の中で、一つの苦い記憶が思い起こされる。小学校高学年、いじめに苦しんでいた彼にとって唯一の安らぎであった、愛犬の姿。その愛犬が、中学生の時に彼の目の前で痙攣し死んでいくのを、ただ狼狽え泣きながら傍観せざるを得なかった、自分の不甲斐なさを。彼は思い起こしていた。

 やがて木刀を叩き付けるのを止めた柊也は、肩で大きく息をしながら、顔を上げる。すでに無音映画と化した舞台で痙攣するシモンを殺意にも似た目で睨みつけると、木刀を放り出し、彼女の許へと向かう。そして新たに右腕でバールを取り出すとシモンの脇に膝をつき、バールを振り上げて、

 ――― 薄いヘラの部分を、シモンの口の中に捩じ込んだ。

 確かあの映画の中で、父親は少女の口の中に割り箸を突っ込んだ。成人女性が相手である以上、それより硬い物でないと。

 柊也は映画を思い出し、それを実行する。「割り箸より硬い物」からいきなりバールに飛躍する辺り、すでに柊也の思考回路はまともな状態ではないが、結果的にこの選択は正しかった。身体能力に優れる獣人の中でも、狼獣人は噛む力が特に発達している。生半可な鉄串では、噛み切られる可能性があった。

 ほとんど隙間のない歯と歯の間にバールを捻じ込み、てこの原理を利用して強引に口を開かせる。見目麗しい女性の口の中にバールを突っ込む自分の姿に反吐が出る思いだが、無視する。半ばちぎれかけ、鮮血をまき散らす舌を左手で無造作につかみ、治癒魔法を発動させるため一旦「サイレンス」を切る。

「があああぁああぁぁぁあああああぁぁぁぁぁぁっ、おごぉおおおおぉぉおぉぉぉおおおぉぉぉぉっ!」

 およそ人のものとは思えない地獄の底からの雄叫びが、バールの生えた口から放たれる。柊也はほとんど早口とも言える速度で治癒魔法を詠唱した後、見たくない物に蓋をするが如く「サイレンス」を発動させた。一旦発動してしまえば、魔力を切らない限り治癒魔法は続く。バールに負けて歯のあちこちが欠けているが、どうせこの後何度も欠けるからと治癒は舌だけにとどめ、歯は放置した。そして、バールに力を入れ、口のこじ開けを続ける。右膝に水濡れを感じ、アンモニアの匂いが漂う。下を見るとシモンの反り返った腰から水が滴り、地面に水溜まりができている。どうやら失禁したようだが、一瞥しただけでバールに視線を戻した。

 やがて何とか口を開かせる事に成功した柊也は、そのままバールを横にしてシモンに噛ませると、失禁をそのまま放置し、取り出した椅子に座り込む。そして、何冊もの本を取り出すと、ペラペラとページを捲る。求める情報がない本は、片っ端から遠くに放り投げた。

 30分後、柊也は1冊の本の同じページを何度も繰り返し読んだ後、そのページを開いたまま本を脇に置く。焦点の合わない視点で宙を眺め、「サイレンス」により声にならないまま、呆然と呟いた。

「…抗破傷風ヒト免疫グロブリン、筋注。破傷風トキソイド、筋注。ベンゾジアゼピン、筋注。それと、デブリードマン。…デブリードマンだと?畜生っ!」

 宙に向かって呪詛の声を吐き出した柊也は、ゆっくりと立ち上がる。空中から注射器と薬剤と取り出すと、薬剤に注射器を差し込み、注入する。頭に流れ込んでくる知識で使い方は理解しているが、当然注射器を扱うのは初めてだ。容器に空気が入らないよう慎重に注入すると、シモンの右肩の前に膝をつき、筋肉注射を開始する。緊張で手が震え、シモンの肌に添えた注射器は、針が3本に増える。自分がいつの間にか口で荒い息をつき始めた事に気付いた柊也は、一旦注射器を引っ込めると、2~3回深呼吸を行う。そして肌に手を添えると、針が増える前に一気に注射器を差し込んだ。そして親指に力を入れ、薬剤を注入する。

 右肩に3本、左肩に3本、同じ薬剤を注入した柊也は、今度はシモンの腰の辺りに移動する。綱切り鋏と取り出すと、シモンの腰紐を切り、ハードレザーレギンスと下着をずり下ろす。全てが露になったシモンの下半身を無感動で見つめると、湯で濡れたタオルを取り出し、左腕を内股に突っ込んで強引に足を開かせ、陰部から臀部にかけてタオルを通して尿を拭い取った。続けて消毒用アルコールに浸した布巾を使い、同じ部位を拭く。最後に水溜まりを拭い、下半身に真新しいタオルを被せた。

 休む間もなく今度は左側に回った柊也だったが、そこでしばらく動かなくなった。その目は、シモンの固く閉じられ、赤く腫れあがる左腕を見つめていた。彼は口で荒い息をつき始め、その瞳孔は見開き、緊張で目じりが痙攣している。恐怖で逃げ出したくなる足を左手で殴りつけると、膝をつき、痙攣で固まるシモンの左腕を左手で持ち上げる。そして、空中から取り出したメスをシモンの肌に添えると、浅く刺し込み、腕を縦に切り裂いた。

 デブリードマン。

 感染、壊死組織を除去し清浄する事で汚染の進行を食い止める外科処置である。傷口が見えていれば、そこを切り開き、限定した範囲での処置が行える。しかし、今シモンの左腕と左足には傷がない。フルールが綺麗に治してしまっていた。そのため、柊也は炎症でピンク色に染まり傷のない、瑞々しい女性の柔肌にメスを刺し込み、切り開かざるを得なかった。しかも、ケルベロスの裂傷は4列、左腕と左足の2箇所。炎症の筋とわずかな皮膚の引きつりを元に、最低でも8箇所は切り開かなければならなかった。

 傷口を剥くと、中からピンク色の瑞々しい筋肉が露になる。柊也は全身に怖気を立てながら、震える手でメスとピンセットを使い、注意深く筋肉を捲っていく。すると突然、ピンクの海の中に淡黄色の島が現れた。「サイレンス」で音が聞こえないのにも関わらず、ピンセットで触れると、「にちゃり」と怖気の走る音が聞こえる。

 胃からせり上がるモノを抑えきれず、柊也は洞窟の外へと走り出す。そして、入口の脇で嘔吐した。

「おえぇぇ、おえ、おええええぇぇぇっ!」

 目に涙を浮かべ、下を向いたまま肩で大きく息をして、そのまま少しの間吐き続ける柊也。だが、息も整わないうちに顔を上げ、洞窟の奥に戻ろうと、よたよたと歩き出した。5分。5分以内にシモンの許へ戻らないと、持ち込んだ物が全て消えてしまう。

「畜生、畜生ぉぉっ!」

 すでに嘔吐とは別の涙を目に浮かべ、それでもシモンの許へ戻る柊也。戻ると、先ほど見つけた褥瘡じょくそうの摘出に取りかかった。何度も胃の内容物がせり上がり、その都度吐き気を覚えながらも何とか喉元で抑え込んで、褥瘡を摘出する。そして終わった途端にまた入口まで駆け出し、激しく嘔吐する。

「畜生っ!畜生っ!畜生ぉぉぉぉぉっ!」

 すでに嗚咽ではなく、慟哭をあげながら、柊也はそれでも洞窟を行き来し、そしてシモンを切り刻んだ。その顔は大きく歪み、涙と鼻水を垂れ流し、「サイレンス」で打ち消されながらも喚き続け、それでもシモンを何度も何度も切り刻んだ。

 結局、柊也は3箇所の褥瘡を発見し、摘出した。傷口は全て生理食塩水で洗い流し、治癒魔法で塞ぐ。そして点滴を打つため、静脈注射を敢行した。筋肉注射と比較にならないほど緊張した柊也は何度も失敗し、シモンの左腕には4箇所の青あざが浮き上がり、斑模様となった。



 ***

 こうして洞窟の中で、無音映画が昼夜を問わず、繰り返し上映された。

 映画の内容は酷いものだった。主演女優はセリフもなく、寝ころんだまま、ただただ転げまわり、糞尿をまき散らした。それを見た助演男優は、慌てふためき、泣き喚き、右往左往するだけだった。

 喜劇だった。ストーリーもヤマもオチもない、出来の悪い喜劇だった。

 舞台は初日のうちに石の上からマットレスの上へと変わったが、やっている事は同じだった。劇場には観客が一人もおらず、閑散としたホールの中で、ただ二人の登場人物が、自分の役割を演じ続けていた。毎日、朝になると小鳥たちが劇場を覗き、少しは内容がマシになったか確認していたが、全く進歩がない事を知ると、嘲笑の囀りを残してすぐに帰って行った。

 ある日、一人の観客が劇場を訪れた。4つ足の彼はホールに入ると、その作品のあまりの出来の悪さに不満を述べ、俳優を馬鹿にした。すると助演男優が怒り狂って突然銃を持ち出し、彼を蜂の巣にしてしまった。男優は瀕死の彼を引き摺って劇場の外に出ると、彼に灯油を撒き、火をつけた。そして、男優は劇場の入口に石壁を立てて封鎖すると、また中に戻って行った。外に打ち捨てられた哀れな彼は、誰にも看取られないまま、灰となった。



 石壁の中で、映画は続いていた。
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