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第1章
少年シキ2
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逃げなくちゃ、逃げなくちゃ、逃げなくちゃ。
目隠し、猿ぐつわ、手足には頑丈なロープ。自由に身動きが取れない状況で、自分の心臓がばくばくと激しく鼓動を打っている。
つい先程まで気を失っていて、時間の感覚がよくわからない。
今は亡き祖父は、人としての生き方を教えてくれた。人を信じることと共に、人を疑うことを教えてくれた。
礼節を尽くしてくれた人には同じように礼節を重んじて接することを。軽口ばかりの人には慎重に、苦しむ人がいれば思いやりを持って。
ただ、善人ばかりではない世界だとも。悪人は善人の顔をしていることがほとんどだとも、教えてくれた。
だから初対面から何か感じるところはあったのだ。この人は、ただの善人では無いと。
商人風の男は目を弧のように細めていたが、笑顔とは程遠い様相だったことを覚えている。
「お孫様は利発な目をされてらっしゃるので、孤児院では優秀な児童に相応の学習環境を設けており――」
領都の孤児院の話をする商人風の男の話を聞きながら、祖父を亡くしてから不安そうだった祖母は僕を見て朗らかに笑った。
「私が先立ったあと、何よりもあなたのことが心配なのよ。願うのはあなたの幸せだけよ」
祖父が威厳のある人だった反面、祖母は慈愛に満ちた人だった。生まれてすぐに両親を亡くした自分を、快く迎え入れてくれて、たくさんのことを教えてくれた。
あたたかい家だった。祖父が亡くなって、とても心細かったけど、祖母は気丈に振舞って僕を気遣ってくれた。それでもやはり祖母も不安は拭えなかっただろう。
亜人の孫を一人残すのは。
この世界には様々な種族がいる。半分を占めているのは人族、そして人族と純血種の交わった亜人、そして獣族や妖精族といった純血種だ。
亜人は人型で暮らす種族もいれば、純血種と同様の姿を持つ者、半分混ざりあった姿の者様々で、僕は竜型と人型を自在に変化できる。――らしい。
らしいというのは、祖父母に引き取られてからは人型として、いや、人族として生活するように言い聞かせられていたからだ。
亜人と純血種には見た目の違い以外で、人族にはない特徴がある。
魔法を使える、というその一点だ。
魔力の量は種族や個々の資質によるところがあるが、人族には魔力が無い。
基本的には種族ごとで集落をつくり生活をしているが、王制を敷く人族は王都と各領地を区分けして生活している。各領主と族長とで取り決めをして、基本的には互いの種族や里には不可侵で暮らしているが、王都では魔法の使える種族を重用し、役職についてもらい、仕事を斡旋している。
ただ、それは基本的に純血種に限る話であった。
人族と混血の亜人は、純血種とは生活を別にする者が多く、人族に紛れて暮らすものがほとんどだ。
理由は、純血種と比較するとどうしても種族としての質が落ちるからだ。魔力量は少なく、魔法も能力としては低い。
それ故に昔は亜人というだけで淘汰され、低賃金で自身に見合わない過剰な魔力を必要とする仕事を押し付けられたりしていたそうだ。
その時代に生きてきた祖母にとっては、かけがえの無い大切な孫が、他者から魔力を搾取され、不当な扱いをされるのを非常に恐れていた。
祖父もそうだった。だから、人族として振る舞うように言われていたし、他者を見極める目を養ってくれたのだ。
それを、常に感謝しようと思う。
シキは背中側で結ばれた両手を動かし、ベルトの内側に隠し持っていた小型ナイフを取り出した。折りたたまれたそれをどうにか動かし、静かに縄を切る。自由になった両手で脚を縛っていた縄もナイフで切った。
周囲が暗かったのは、どうやら荷馬車の幌の中に荷物とともに押し込まれていたからだった。それと同時に既に夜になっていたようで、パチパチとすぐ側で火の爆ぜる音がする。近くで焚き火をしているようだ。
祖母が亡くなり、葬儀が終わったすぐ翌日に、商人風の男は家を訪ねてきた。
「ご家族のご不幸、お悔やみ申し上げます」
「……いえ、」
「つきましては貴方様を孤児院へとお連れしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「まだ家の整理ができていませんので、その話はしばらく保留にしてもいいでしょうか」
またあの目を弧の字に歪めた表情を貼り付けていた。しかし、今日は舌打ちを隠さずに続けた。
「うるせぇガキだな、めんどくせぇ。――連れてけ」
表情はそのまま笑みの形を崩さずに男はドスの効いた声で続けた。なるほどこれが本性か、と腑に落ちたところで、強引に腕を引かれ、姿勢を崩したところを殴られて意識を手放してしまったのだった。
目隠しと口元を縛っていた布を取り去るが、首に付けられたものが外せない。がっちりと硬質な金属のようなもので出来ており、魔力を込めようとしても、上手く魔力を練ることができず不発に終わった。
「魔封じ……?」
ひとまず身体は自由になった、あとはここから退散するだけなのだが、場所がどこだかわからなかった。
幌の隙間から外を覗いても、暗い森が続くばかりで周囲の状況がよくわからない。
見張りは見える範囲ではどうやら二人おり、焚き火の近くで何か話をしている。もう少し離れた距離にもう一つ馬車があるようだった。他の者はもしかしたらあの馬車にいるのかもしれない。
夜に気がついて良かったかもしれない。このまま闇に紛れて、森に逃げ込むことも出来そうだ。――気付かれなければ。
鼓動はばくばくと早鐘のように打っている。打たれた頭はコブができているようでまだじんと痛みを発している。そしてこの魔封じの首輪が物語っているが、おそらく敵方に自分が亜人であることがバレている。
このまま荷馬車に乗せられていれば、自分は売り飛ばされるのだろう。そしてその魔力を奴隷のように使わされるのだろうと身震いした。
良くない思考を振り払い、今、どうするべきか頭を悩ませることにした。
「坊っちゃんや、お目覚めかな」
荷馬車の中で悩んでいたら急に幌が開け放たれた。笑顔を貼り付けた商人風の男が覗いている。――しまった!
『シキ、あの姿になるのは手段を選べなくなった時だけにしなさい――誰かを助けるとき、』
もう、なりふりは構っていられないのだろう。この姿になるのは二歳になる頃以来だ。
上手く、飛べるだろうか。
『――シキ、お前に危険が迫ったとき、そのときはあの姿になって飛びなさい』
「……そして、気づいたらあの森で、」
「倒れていたわけか」
「はい」
シキを助けて二日目の夜、容態も落ち着いてきたので、とつとつとシキがこれまでの経緯を話してくれた。
盗賊の手から逃れて数日ほど街道から離れた上空を飛び続け、シンハ樹海へとたどり着いたら力尽きてしまったようだった。
魔封じの首輪は魔道具の一種だが、主に魔力を持つ罪人を拘留するときに使う道具だ。
役人以外の所持は基本的には認められておらず、所有しているとなれば裏の仕事を斡旋している業者だろう。
「魔封じの首輪をしていても竜型には変化できたんだね」
「よく、わからないけれど、思いっきり力を込めたら、弾けたと、おもう」
「弾けた……?」
魔封じの魔道具の許容量以上の魔力を込めたのか、それとも不良品だったのかはさておき。
「よく、無事に生き延びたね」
リヒトはシキの頭を優しく撫でた。シキの見た目は五、六歳にしか見えないが今年で十歳になるらしい。子ども扱いしすぎるのも失礼かとは思ったが、親愛なるご家族を亡くされて、誘拐の被害にまで遭遇したのだ。同情するなという方が、無理だった。
「とりあえず君のことは領都の知人に探し人がいないか問い合わせていたんだ。身元引受け先は領都の孤児院だったんだよね?」
「はい、でも、その孤児院の話も本当かどうか……」
その商人風の男がでまかせを言ってシキを攫おうと画策していたのかもしれない。竜人族とはわからないまでも、亜人の子どもならとりあえず金になるのだ。
ただ、シキが逃亡した際に竜型になったことで今度は新たな問題が浮上した。
「逃がした亜人が竜人族だと知った盗賊どもがどう出るか……」
「変化するしか、逃げ道が浮かばなくて」
「いいや、シキはよく逃げおおせたよ。賊も魔の樹海までは追ってこないだろう。しばらく街道や領都の情報を探りつつ、この家で生活するといい。シキが今後どうしたいかをゆっくり決めたらいいさ。幸い寝床は余っているし、食料もそんなに困っていないから安心していいよ」
「いいの……?」
「もちろん」
伺うような、びくりと怯えの混じる瞳が段々と期待に輝く目になっていく様子がおかしくて、リヒトはくすくすと笑った。
肯定を示せば安堵の表情に和らいだのを、頷きながら見つめたのだった。
目隠し、猿ぐつわ、手足には頑丈なロープ。自由に身動きが取れない状況で、自分の心臓がばくばくと激しく鼓動を打っている。
つい先程まで気を失っていて、時間の感覚がよくわからない。
今は亡き祖父は、人としての生き方を教えてくれた。人を信じることと共に、人を疑うことを教えてくれた。
礼節を尽くしてくれた人には同じように礼節を重んじて接することを。軽口ばかりの人には慎重に、苦しむ人がいれば思いやりを持って。
ただ、善人ばかりではない世界だとも。悪人は善人の顔をしていることがほとんどだとも、教えてくれた。
だから初対面から何か感じるところはあったのだ。この人は、ただの善人では無いと。
商人風の男は目を弧のように細めていたが、笑顔とは程遠い様相だったことを覚えている。
「お孫様は利発な目をされてらっしゃるので、孤児院では優秀な児童に相応の学習環境を設けており――」
領都の孤児院の話をする商人風の男の話を聞きながら、祖父を亡くしてから不安そうだった祖母は僕を見て朗らかに笑った。
「私が先立ったあと、何よりもあなたのことが心配なのよ。願うのはあなたの幸せだけよ」
祖父が威厳のある人だった反面、祖母は慈愛に満ちた人だった。生まれてすぐに両親を亡くした自分を、快く迎え入れてくれて、たくさんのことを教えてくれた。
あたたかい家だった。祖父が亡くなって、とても心細かったけど、祖母は気丈に振舞って僕を気遣ってくれた。それでもやはり祖母も不安は拭えなかっただろう。
亜人の孫を一人残すのは。
この世界には様々な種族がいる。半分を占めているのは人族、そして人族と純血種の交わった亜人、そして獣族や妖精族といった純血種だ。
亜人は人型で暮らす種族もいれば、純血種と同様の姿を持つ者、半分混ざりあった姿の者様々で、僕は竜型と人型を自在に変化できる。――らしい。
らしいというのは、祖父母に引き取られてからは人型として、いや、人族として生活するように言い聞かせられていたからだ。
亜人と純血種には見た目の違い以外で、人族にはない特徴がある。
魔法を使える、というその一点だ。
魔力の量は種族や個々の資質によるところがあるが、人族には魔力が無い。
基本的には種族ごとで集落をつくり生活をしているが、王制を敷く人族は王都と各領地を区分けして生活している。各領主と族長とで取り決めをして、基本的には互いの種族や里には不可侵で暮らしているが、王都では魔法の使える種族を重用し、役職についてもらい、仕事を斡旋している。
ただ、それは基本的に純血種に限る話であった。
人族と混血の亜人は、純血種とは生活を別にする者が多く、人族に紛れて暮らすものがほとんどだ。
理由は、純血種と比較するとどうしても種族としての質が落ちるからだ。魔力量は少なく、魔法も能力としては低い。
それ故に昔は亜人というだけで淘汰され、低賃金で自身に見合わない過剰な魔力を必要とする仕事を押し付けられたりしていたそうだ。
その時代に生きてきた祖母にとっては、かけがえの無い大切な孫が、他者から魔力を搾取され、不当な扱いをされるのを非常に恐れていた。
祖父もそうだった。だから、人族として振る舞うように言われていたし、他者を見極める目を養ってくれたのだ。
それを、常に感謝しようと思う。
シキは背中側で結ばれた両手を動かし、ベルトの内側に隠し持っていた小型ナイフを取り出した。折りたたまれたそれをどうにか動かし、静かに縄を切る。自由になった両手で脚を縛っていた縄もナイフで切った。
周囲が暗かったのは、どうやら荷馬車の幌の中に荷物とともに押し込まれていたからだった。それと同時に既に夜になっていたようで、パチパチとすぐ側で火の爆ぜる音がする。近くで焚き火をしているようだ。
祖母が亡くなり、葬儀が終わったすぐ翌日に、商人風の男は家を訪ねてきた。
「ご家族のご不幸、お悔やみ申し上げます」
「……いえ、」
「つきましては貴方様を孤児院へとお連れしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「まだ家の整理ができていませんので、その話はしばらく保留にしてもいいでしょうか」
またあの目を弧の字に歪めた表情を貼り付けていた。しかし、今日は舌打ちを隠さずに続けた。
「うるせぇガキだな、めんどくせぇ。――連れてけ」
表情はそのまま笑みの形を崩さずに男はドスの効いた声で続けた。なるほどこれが本性か、と腑に落ちたところで、強引に腕を引かれ、姿勢を崩したところを殴られて意識を手放してしまったのだった。
目隠しと口元を縛っていた布を取り去るが、首に付けられたものが外せない。がっちりと硬質な金属のようなもので出来ており、魔力を込めようとしても、上手く魔力を練ることができず不発に終わった。
「魔封じ……?」
ひとまず身体は自由になった、あとはここから退散するだけなのだが、場所がどこだかわからなかった。
幌の隙間から外を覗いても、暗い森が続くばかりで周囲の状況がよくわからない。
見張りは見える範囲ではどうやら二人おり、焚き火の近くで何か話をしている。もう少し離れた距離にもう一つ馬車があるようだった。他の者はもしかしたらあの馬車にいるのかもしれない。
夜に気がついて良かったかもしれない。このまま闇に紛れて、森に逃げ込むことも出来そうだ。――気付かれなければ。
鼓動はばくばくと早鐘のように打っている。打たれた頭はコブができているようでまだじんと痛みを発している。そしてこの魔封じの首輪が物語っているが、おそらく敵方に自分が亜人であることがバレている。
このまま荷馬車に乗せられていれば、自分は売り飛ばされるのだろう。そしてその魔力を奴隷のように使わされるのだろうと身震いした。
良くない思考を振り払い、今、どうするべきか頭を悩ませることにした。
「坊っちゃんや、お目覚めかな」
荷馬車の中で悩んでいたら急に幌が開け放たれた。笑顔を貼り付けた商人風の男が覗いている。――しまった!
『シキ、あの姿になるのは手段を選べなくなった時だけにしなさい――誰かを助けるとき、』
もう、なりふりは構っていられないのだろう。この姿になるのは二歳になる頃以来だ。
上手く、飛べるだろうか。
『――シキ、お前に危険が迫ったとき、そのときはあの姿になって飛びなさい』
「……そして、気づいたらあの森で、」
「倒れていたわけか」
「はい」
シキを助けて二日目の夜、容態も落ち着いてきたので、とつとつとシキがこれまでの経緯を話してくれた。
盗賊の手から逃れて数日ほど街道から離れた上空を飛び続け、シンハ樹海へとたどり着いたら力尽きてしまったようだった。
魔封じの首輪は魔道具の一種だが、主に魔力を持つ罪人を拘留するときに使う道具だ。
役人以外の所持は基本的には認められておらず、所有しているとなれば裏の仕事を斡旋している業者だろう。
「魔封じの首輪をしていても竜型には変化できたんだね」
「よく、わからないけれど、思いっきり力を込めたら、弾けたと、おもう」
「弾けた……?」
魔封じの魔道具の許容量以上の魔力を込めたのか、それとも不良品だったのかはさておき。
「よく、無事に生き延びたね」
リヒトはシキの頭を優しく撫でた。シキの見た目は五、六歳にしか見えないが今年で十歳になるらしい。子ども扱いしすぎるのも失礼かとは思ったが、親愛なるご家族を亡くされて、誘拐の被害にまで遭遇したのだ。同情するなという方が、無理だった。
「とりあえず君のことは領都の知人に探し人がいないか問い合わせていたんだ。身元引受け先は領都の孤児院だったんだよね?」
「はい、でも、その孤児院の話も本当かどうか……」
その商人風の男がでまかせを言ってシキを攫おうと画策していたのかもしれない。竜人族とはわからないまでも、亜人の子どもならとりあえず金になるのだ。
ただ、シキが逃亡した際に竜型になったことで今度は新たな問題が浮上した。
「逃がした亜人が竜人族だと知った盗賊どもがどう出るか……」
「変化するしか、逃げ道が浮かばなくて」
「いいや、シキはよく逃げおおせたよ。賊も魔の樹海までは追ってこないだろう。しばらく街道や領都の情報を探りつつ、この家で生活するといい。シキが今後どうしたいかをゆっくり決めたらいいさ。幸い寝床は余っているし、食料もそんなに困っていないから安心していいよ」
「いいの……?」
「もちろん」
伺うような、びくりと怯えの混じる瞳が段々と期待に輝く目になっていく様子がおかしくて、リヒトはくすくすと笑った。
肯定を示せば安堵の表情に和らいだのを、頷きながら見つめたのだった。
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