上 下
32 / 56
本編

32

しおりを挟む


 ふわふわと身体の浮くような感覚に少しずつ意識が引き戻される。
「こんなところで寝て、風邪を引くぞ」
 耳に届いた声にぼんやりと、あぁまた迷惑をかけてしまった、と思った。
 私の身体を持ち上げて、それから柔らかい寝台の上へと置かれる。掛けられた布の感覚に少しばかり目を開けば、その人はもう部屋を出ようとした。
 その様子がいつかの彼と被って、私は咄嗟に声を上げる。
「アレク、行かないで」
 大きな温かい手が、おもむろに私のまぶたの上へと置かれた。私はまた、意識が離れていくのを感じた。



 夫がブラックリード伯爵邸へ行くと言っていた日、私は気が気でなかった。
 そわそわと待ち続けていた私にゼノの乳母が訝しんで声をかけてくる。
「奥様、何か御用がありましたら何なりと」
「…旦那様はまだお帰りにならないのよね?」
「今夜は遅くなると仰っておられましたが」
 今朝の食事の席で言っていたその言葉はカレンも聞いていた。
 会う約束を取り付ける際に随分と嫌な顔をされたと苦笑していたけれど、一体どうなっただろうか。
 そんなことを考えているとメイドが部屋へ駆けてきた。
「奥様、今──」
「すぐに行くわ」
「えっ」
 メイドの姿に、勝手に夫が帰ってきたのだと言葉を遮った私は部屋を出て、早足に玄関へと向かった。
 出来れば何度か屋敷に出入り出来るようになるのがベストだけれど、どちらにせよ話を聞かねば分からない。
「奥様!」
 玄関へ来た私はいつもと違う騒がしさに目を細め──それから息を飲んだ。
「…どうして…アレクが…」
「奥様、お知り合いにございますか?こちらの方が押しかけるなり玄関で倒れられて」
 どういたしますか、と指示を待つメイドも戸惑った顔を浮かべている。だって、そこに転がる彼は、沢山怪我をしていたから。
「アレク、しっかりして!」
 身体を揺すればダラリと垂れてきた彼の血が私の手にベッタリとついた。気がおかしくなりそうだと思ったカレンを止めたのは、なんとシークだった。
 今しがた帰ってきた彼は屋敷の惨状に顔を引きつらせたが、屋敷の主人として己の取るべき行動をすぐに取った。
「揺するな。倒れた時に頭を打っているかもしれない、それに出血が多い。すぐに医者を呼べ!」
 はい、と頭を下げた執事が廊下を駆けていく。
 迷わず応急処置を施したシークに、カレンは涙で視界が滲んでよく見えなかった。

 アレクの身体は二ヶ所の骨折、十数ヶ所の打撲、そして何かで斬られたような深い切り傷が数本。切り傷があまりにも酷く、化膿すれば熱に苦しむことになるだろうというのが医師の見立てだった。

「今日、この男をブラックリード伯爵邸で見かけた」
「…旦那様」
「もういい加減に話してくれないか。この男は、君のなんなんだ」
 何を思ってこの屋敷に足を踏み入れた、なんて。
 そんなこと分かったら、こんな気持ちになることなんてありはしないのに。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

7年ぶりに帰国した美貌の年下婚約者は年上婚約者を溺愛したい。

なーさ
恋愛
7年前に隣国との交換留学に行った6歳下の婚約者ラドルフ。その婚約者で王城で侍女をしながら領地の運営もする貧乏令嬢ジューン。 7年ぶりにラドルフが帰国するがジューンは現れない。それもそのはず2年前にラドルフとジューンは婚約破棄しているからだ。そのことを知らないラドルフはジューンの家を訪ねる。しかしジューンはいない。後日王城で会った二人だったがラドルフは再会を喜ぶもジューンは喜べない。なぜなら王妃にラドルフと話すなと言われているからだ。わざと突き放すような言い方をしてその場を去ったジューン。そしてラドルフは7年ぶりに帰った実家で婚約破棄したことを知る。  溺愛したい美貌の年下騎士と弟としか見ていない年上令嬢。二人のじれじれラブストーリー!

[完結連載]蔑ろにされた王妃様〜25歳の王妃は王と決別し、幸せになる〜

コマメコノカ/ちゃんこまめ・エブリスタ投
恋愛
 王妃として国のトップに君臨している元侯爵令嬢であるユーミア王妃(25)は夫で王であるバルコニー王(25)が、愛人のミセス(21)に入り浸り、王としての仕事を放置し遊んでいることに辟易していた。 そして、ある日ユーミアは、彼と決別することを決意する。

貴方誰ですか?〜婚約者が10年ぶりに帰ってきました〜

なーさ
恋愛
侯爵令嬢のアーニャ。だが彼女ももう23歳。結婚適齢期も過ぎた彼女だが婚約者がいた。その名も伯爵令息のナトリ。彼が16歳、アーニャが13歳のあの日。戦争に行ってから10年。戦争に行ったまま帰ってこない。毎月送ると言っていた手紙も旅立ってから送られてくることはないし相手の家からも、もう忘れていいと言われている。もう潮時だろうと婚約破棄し、各家族円満の婚約解消。そして王宮で働き出したアーニャ。一年後ナトリは英雄となり帰ってくる。しかしアーニャはナトリのことを忘れてしまっている…!

【取り下げ予定】さようなら、私の初恋。あなたは私をいらないと言ったけど──私も、私の人生にあなたはいらない。

ごろごろみかん。
ファンタジー
結婚式の夜、私はあなたに殺された。 彼に嫌悪されているのは知っていたけど、でも、殺されるほどだとは思っていなかった。 「誰も、お前なんか必要としていない」 最期の時に言われた言葉。彼に嫌われていても、彼にほかに愛するひとがいても、私は彼の婚約者であることをやめなかった。やめられなかった。私には責務があるから。 だけどそれも、意味のないことだったのだ。 彼に殺されて、気がつけば彼と結婚する半年前に戻っていた。 なぜ時が戻ったのかは分からない。 それでも、ひとつだけ確かなことがある。 あなたは私をいらないと言ったけど──私も、私の人生にあなたはいらない。 私は、私の生きたいように生きます。

【完】愛人に王妃の座を奪い取られました。

112
恋愛
クインツ国の王妃アンは、王レイナルドの命を受け廃妃となった。 愛人であったリディア嬢が新しい王妃となり、アンはその日のうちに王宮を出ていく。 実家の伯爵家の屋敷へ帰るが、継母のダーナによって身を寄せることも敵わない。 アンは動じることなく、継母に一つの提案をする。 「私に娼館を紹介してください」 娼婦になると思った継母は喜んでアンを娼館へと送り出して──

ご安心を、2度とその手を求める事はありません

ポチ
恋愛
大好きな婚約者様。 ‘’愛してる‘’ その言葉私の宝物だった。例え貴方の気持ちが私から離れたとしても。お飾りの妻になるかもしれないとしても・・・ それでも、私は貴方を想っていたい。 独り過ごす刻もそれだけで幸せを感じられた。たった一つの希望

伝える前に振られてしまった私の恋

メカ喜楽直人
恋愛
母に連れられて行った王妃様とのお茶会の席を、ひとり抜け出したアーリーンは、幼馴染みと友人たちが歓談する場に出くわす。 そこで、ひとりの令息が婚約をしたのだと話し出した。

公女様は愛されたいと願うのやめました。~態度を変えた途端、家族が溺愛してくるのはなぜですか?~

朱色の谷
恋愛
公爵家の末娘として生まれた8歳のティアナ お屋敷で働いている使用人に虐げられ『公爵家の汚点』と呼ばれる始末。 お父様やお兄様は私に関心がないみたい。 ただ、愛されたいと願った。 そんな中、夢の中の本を読むと時分の正体が明らかに。 普通に恋愛して幸せな毎日を送りたい!

処理中です...