異世界日帰り漫遊記

御結頂戴

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彩宮ゼルグラム、炎雷の業と闇の城編

37.狂い始めた歯車

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 目の前の光景に、息が途切れる。
 アレクが斬られてしまった、と数秒遅れで思ったが……改めて視界の先の出来事を見て、俺はその考えが間違っていた事を思い知らされた。

「あっ……あ……!!」

 こちらに背を向けたパーヴェル卿が、奇妙なうめきをこぼして一歩二歩と退しりぞく。
 その背中の向こう側に見えた姿は小さな背中では無かった。

「ヨアニス……!」

 そう。
 パーヴェル卿の凶刃を受けてひざをついたのは――――
 アレクをその背でかばった、ヨアニスだった。

「陛下!!」
「くそっ、なんてこった!」

 いつの間にか間近まで来ていた馬車から、ボーレニカさんとロサードが降りてくる。その声に俺もやっと我に返り、アレクとヨアニスに駆け寄ろうとした。
 しかし、パーヴェル卿はそんな俺達の動きを牽制けんせいするかのように、大きく震えてまた剣を振り上げる。

「あぁああああ!! ああああああああああ!!」

 言葉にならない悲鳴を上げて黒衣の男が剣を振り回す。
 半狂乱になった相手の行動に、ロサードと俺は一瞬硬直する。それが悪手だと解っていたのに体は動かず、また剣を振り下ろそうとする相手に一歩遅れを取ってしまった。その、寸時。

「ああ゛あ゛あああ゛あ゛ぁあああ゛あ゛あぁッ!!」

 再び叫び声を上げて剣を降ろすパーヴェル卿。そんな彼に背を向けて、アレクをかばうヨアニス。その凶行を阻止しようと近付く、手負いのボーレニカさん。
 全てがスローモーションのように動いて目に焼き付き、目の前の光景が、またたきの先で目まぐるしく変わる。連続撮影された写真のように動く人達に、呼吸すら途切れ途切れになって止まった。

 そんな俺の見ている前で、凶刃はヨアニスの肩越しにわずかに見えたアレクの頭へと、勢いよく振り下ろされる。あと、もう少しで、刃がアレクに届いてしまう。
 体を起こし駆け寄ろうとする俺の目の前で、ヨアニスがさらにアレクを抱え込んで、その幼い体を守ろうとした。刃はもう止まらない。耳をつんざくような声を上げて半狂乱になっているパーヴェル卿には、その手を止める事は出来なかった。

「――――っ!!」

 刃が、ヨアニスの肩に掛かる。
 そしてその刃は――――いとも簡単に、ヨアニスの片腕を奪い去った。

「うぁ゛っ、うあぁああああああ!!」

 誰ともつかない、二重の悲鳴。それがボーレニカさんとパーヴェル卿の慟哭どうこくだと気付いた時には、もうボーレニカさんはパーヴェル卿を突き倒していた。
 白銀の世界に、真っ赤な血が勢いよく散って周囲を染める。
 何が起こったか一瞬理解出来なかったが、その血だまりがどんどん広がっていくのを見て、俺は青ざめヨアニスに駆け寄った。

「お、おとうさっ……おとうさ、お父さんっ、お父さん!!」

 アレクが泣きそうな声で叫んでいる。そのアレクの服や顔を赤く染めながらも、ヨアニスはまだアレクの事を強く抱きしめている。
 切り離された腕はあまりにも生々しく、血だまりの上で赤く染まり始めていた。

 ……きんと冷えた空気の中、凄まじい鉄臭さが鼻に届く。
 とにかく二人を守らなければと思い、俺はヨアニスの前に立って、パーヴェル卿の次の攻撃に備え大地をぐっと踏みしめた。

「ひっ……ははっ、あははっ、は、ははっ、あはははは……?! はっ、はは」

 ボーレニカさんが必死に突き離した相手は、俺達から少し距離が出来たものの、手負いの敵を難なく突き飛ばし返して不安定な動きながらも立ち上がる。
 自分の凶行に自分自身混乱しているのか、握り締めた血塗ちまみれの剣を見ながら体を震わせて興奮したように笑った。
 そのさまは、最早俺達が知っているパーヴェル卿では無い。

 壊れている。
 心の支えにしていたヨアニスを自分の手で斬ってしまった事に、パーヴェル卿はとうとう耐えられなくなってしまったのだ。

 心底恋焦こいこがれて、誰かを殺してでも手に入れたかった相手を、自分の手で傷付けてしまった。自分をまだ信じてくれている相手を、攻撃してしまった。
 愛してくれた人も清廉潔白せいれんけっぱくだった過去の自分すらも捨ててまで手に入れたかった人を、とうとうこの手で殺してしまった。
 そう思って、彼は……壊れてしまったのだろう。

「ふ、は……ははは……終わりだ……もう、終わりだ……!!」

 絶望的な色に染まった震える声で、パーヴェル卿は剣の血を拭う。
 ローブの下から垣間見えるその表情は、目を見開き歯を見せて笑っていた。

「や、めろ……やめろ、ターミル……!!」

 そんな相手を、ボーレニカさんは必死で止めようとする。
 足にしがみ付いて歩みを止めようとするが、パーヴェル卿はボーレニカさんの腕を振り払うかのように足を動かしながら、ヒステリックな声で叫んだ。

「うるさい……はなせっ、離してよ!!」
「はなさ、ねえ……!! もう、やめろっ……!!」
「やめろ……!? こうなったのは……こうなったのは全部お前のせいじゃないか、私が子供を喪ったのも、彼を失ったのも、全部、全部全部全部お前のせいじゃないか!! 愛してたのに、愛してたのに、お前はっ、お前は!!」

 声が震えている。激情に駆られて興奮しながらも、パーヴェル卿は泣いているのだろう。……いや、来るってしまったからこそ、今まで心の奥底に封じ込めていた激情を吐き出しているのか。
 

「許さな……っ、許さない……ヨアニスも、私のっ、私の子供を奪った事も、もう許さない、ゆるさなっ、あ、あぁあああゆるざなあ゛ぁあぁあ゛あ゛!!」

 最後に金切り声をあげて、パーヴェル卿は発狂した声にならない声で叫ぶ。
 そうして彼は自分の足にしがみ付いているボーレニカさんを蹴り飛ばし、仰向あおむけになった彼に剣を振り回して駆け寄った。

「ボーレニカさん!!」

 叫ぶ俺の目の前で、パーヴェル卿は振り回した剣を両手に持ち替え、ボーレニカさんの腹に足を乗せた。
 うめくボーレニカさんを見下ろしながら、剣の切っ先を、心臓の真上へと向ける。その仕草には一片の迷いも無かった。
 今度こそ、本当に……殺すつもりだ。
 思わず口を開いたと同時、周囲からうるさいくらいの騒音が聞こえてきた。

「っ!?」

 轟音ごうおんが響く。何が起こっているか解らない。
 沢山の人の声がして、パーヴェル卿の慟哭が掻き消されて、何もかもが騒音の中に掻き消えて行く。だが、状況は何も変わらない。
 音の洪水の中で、パーヴェル卿は勢いに任せてボーレニカさんの心臓へ今まさに剣を突き立てようとしていた。

 ――かつて子供を望んだ、共に生きようと思った、相手に。
 狂うまでは殺そうと思っても殺せなかった、大事な……大切な、人に……――

「や、めろ……」

 駄目だ、それだけはやっちゃ駄目だ。もう、人を殺そうとしてはいけない。
 ……もう、人を殺してほしくない……!!

「やめろぉおおおお!!」

 何でも良い。俺に力が有るなら、止める事が出来るのなら、彼を助けてくれ。
 もうこれ以上、誰かが血を流すのは見たくない……!!

 そう思って、力の限り叫んだと、同時。

「――――――」

 頭の中に、言葉として認識できない何らかの音が響く。
 しかしそれは理解出来る物になる事はなく、耳の奥で崖を流れ落ちる滝のような凄まじい音によって掻き消えた。

 刹那、体が浮く。
 自分の意思とは関係なく体が浮き上がり、両手に「つた」ではなく波の紋様に似た「紋様もんよう」の光が一気に浮き上がった。

 自分を中心に円形の光が展開し、複雑な幾何学きかがく模様が散り始める。
 それが何かを考える間もないほどの速度で――――

 剣を振り下ろそうとしているパーヴェル卿を中心にして、いくつもの巨大なつるが地面から出現した。

「っ……!?」

 やっと声が出る。その声が吐き出されたのと同時に、自分の動きを制限されたパーヴェル卿がよろめいた。

 蔓はそんなパーヴェル卿を取り囲み、ボーレニカさんの体を蔓の檻の中から押し出して脱出させる。けれども、パーヴェル卿はいまだに何が起こったのか分からないようで、目の前の障害物に硬直していた。
 このまま、相手を拘束できないか。俺はそう考えたが。

「っ、ぐ……っ」

 体が急に言う事を聞かなくなって、膝から崩れ落ちる。
 その瞬間、俺の腕に刻まれていた紋様も不可思議な魔方陣も消え去り、蔓の檻も一瞬で枯れてその場からちりすら残さず消滅してしまった。

 まさか、これって……黒曜の使者の力か……!?
 だけど俺は何も考えちゃいない、どうして勝手に発動したんだ。それに、なんで今までと様子が違った? 何故だ、どうして?

 だが、そんな事を考えている暇はなかった。

「うっ、ぁ゛……」

 背後から、かすれた声が聞こえる。その事にようやく気付いて、俺は途切れそうになる意識を叱咤しったしヨアニスの方を向いた。

「つ、ツカサ兄ちゃん、お父さんがっ、お父さんがどんどん冷たくなっていく、どうしよう、やだ、やだよ、ツカサ兄ちゃん、助けて、お父さんを助けて!!」

 血塗れで顔を歪めて叫ぶアレクに、俺は必死に言葉をかけようと口を開く。
 しかし俺が何かを言う前に、アレクは驚愕きょうがくに目を見開いて叫ぶ言葉を変えた。

「兄ちゃん後ろ!!」
「え……っ」

 視界が急に暗くなる。これは、影だ。
 何が影を落としたのかと振り向いたそこには、俺に剣を向けて今まさに斬りつけようとしている黒衣の男が居て。

 だけど、その男は…………

 いくつもの鋭い矢と刃を体に受けて、剣を振り上げたままその場に倒れた。

「あっ…………ぁ……」

 うそ。
 ……なに。なにが、起こった?

 今、目の前に、俺を殺そうとしているパーヴェル卿が居た、はずだ。
 だけど、そのパーヴェル卿に、いきなり弓矢と剣が突き刺さって、目の前で、倒、れ……。

「ツカサ君!!」
「賊の死亡を確認した! かため!!」
「皇帝陛下、遅くなり申し訳ありません!」

 ブラックの声とは違う方向から、こちらに叫ぶ声がする。
 顔に掛かった血が頬を伝う頃になって、ようやく俺はそれが「応援」である皇国騎士団の人達だと言う事が解った。
 だけど、今、俺の目の前にいる、パーヴェル卿は…………。

「ツカサ兄ちゃん!!」

 一瞬、意識が途切れそうになって、俺を呼ぶアレクの声に再び意識が戻る。
 そうだ、駄目だ、まだ俺は倒れるワケにはいかない。アレクが俺に助けを求めている、ヨアニスを救わなければいかない。絶対に死なせてはいけないんだ。
 頭を振って、俺はすぐヨアニスに向き直ると、既にアレクにし掛かるような体勢たいせいになっていたヨアニスをアレクから引き剥がした。

 わずかに残った脇から下の腕。しかしその先は何もない。血だけがしたたっている。
 持ち上げたヨアニスの体は既に体温を奪われており、かろうじて息はしているが、もう彼の意識は無かった。

「ヨアニス……っ!! 死ぬなっ、死んじゃ駄目だ……!!」

 何か、何かできる事、俺だけに出来る事は……!!

 考えて、足りない頭ですぐに思いついて、俺は放って置かれていた腕をすぐに取ると、それをヨアニスの腕にくっつけた。そうして黒曜の使者の力を使い、強度のある蔓を【グロウ】で生やす。それを千切り、ヨアニスの腕に必死で巻きつけた。
 例えくっ付かなくても、包帯代わりにはなるはずだ。

 そうして、俺はだんだんと重くなる体を引き摺り、ヨアニスの心臓が有る部分に手をやって、最後の力を振り絞るようにぐっと目をつぶった。

「ヨアニス、頼む、死なないでくれ……!!」

 この世界の人の体内には、大地の気アニマが巡っている。その大地の気が増えれば自己治癒能力が増すとブラックが言っていた。

 だったら、今からでも。
 まだ五分も経っていない。まだ救える。救えるはずだ。

 アレクのために、この国の人達の為に、絶対に彼を死なせてはいけない。
 俺の精神力なんて尽きても良い、何日寝ても良い。寝たきりになったっていい。
 だから、頼むから。

「頼むから、生きてくれ……ヨアニス……!!」

 自分の全ての意識をヨアニスに渡すように、俺は手に力を籠める。
 すると、ヨアニスの胸に当てた手を中心として、その場に目を覆うほどの光の粒子りゅうしが一気に舞いあがった。
 これだ。これが、大地の気だ……。

「ツカサ兄ちゃん……これって……」
「アレク……っ、お父さんの、てを、握って……呼びかけて、くれ……っ」
「う、うん……!」

 手を当てた心臓は、弱々しいが動いている。
 俺の流し込む気に反応して、生きようとしているのだ。
 ならば、血が足りなくても、腕を失っても、どうにかなるかもしれない。
 必死にそう思おうとして心臓の音に耳を澄ませるが、ヨアニスは目を開けてくれない。心臓の音も、弱々しい鼓動から何も変わらなかった。
 包帯代わりの蔦の隙間からは、また血が滲み出ている。

 このままでは、ヨアニスが……。

「お父さん、嫌だよ、死なないでお父さん!!」
「っ、くそぉ……っ」

 チートな能力を持っていても、何もない場所から命を作り出せても、人の命一つ救えないのかよ。守ると言った相手すら、俺は満足に守れないのか。
 ブラックも、クロウも、俺達の為に頑張ってくれたのに。
 ボーレニカさんも覚悟を決めてまで必死に抵抗してくれたのに。
 なのに、俺は……!!

「…………ッ!!」

 悔しくてどうしようもなくて、顔を伏せたと――――同時。

「そのままだと、死にますよ。皇帝陛下」

 馬車が近付いてくる音と、ブラックが俺の名前を呼びながら近付いて来るその最中さなか、不意にそんな冷静な声が聞こえて、俺は息を呑んだ。

「はっ……ははは……ははは、ハハハハハ!! やはり、やはりそうだった……私の推測は当たっていた、やっぱり君はただの人間ではなかったんだ……!」

 冷静な声は興奮した声に代わり、雪を踏む音と共にその声が近付いて来る。
 そして、目の前に立った相手に……俺は、途切れ途切れの呟きを漏らした。

「あ……アド、ニス……」

 そう。誰よりも早く俺の目の前に立った相手は……こんな所にいるはずがない、アドニスその人だった。

 ……何故ここに居る。どうして、こんな所に。

 ヨアニスから手を放す事も出来ず、光の粒子の中でただ戸惑いながらアドニスを見上げる俺とアレクに、相手は心底嬉しそうな気味の悪い笑みを浮かべた。

「その力を見せてくれるのを待っていましたよ……ツカサ君」
「っ……う゛……」

 もう、声が上手く出せない。
 ヨアニスと目の前の相手に意識をやるのが精一杯で、俺の視界は意識の混濁によってぼやけ始めていた。

「……ああ、喜んでいる場合ではありませんでしたね。ツカサ君、パーヴェル卿はもう助かりませんが……その男は、まだ助かりますよ」
「え…………」

 本当か。本当に、助かるのか?
 すがるように見上げると、アドニスは目をすうっと弧に歪めて笑みを深めた。

「ええ、もちろん。……私は彼を助ける唯一の方法を知っています。……けれど、それをおこなうにあたって、一つ条件が有ります」
「じょう、けん……?」

 顔を歪める俺に、アドニスは頷いて指を立てる。
 完全に優位だと理解している相手は、こんな状況なのにとても楽しそうだった。

「ええ。条件です。……皇帝陛下を助けたければ……私と一緒にへ行って下さい。そして、そこで私の研究に協力する事。今度は何も隠さずに、ですよ? ふ、ははは……。ああ、もちろん、君の力を十二分じゅうにぶんに引き出すあの男も一緒でかまいませんよ? 協力してくれるのならね」
「だけど、どうやって……」

 どうやって、ヨアニスを助けるつもりだ。
 ヨアニスの片腕は千切れているし、もう血を流し過ぎた。
 アレクには言えないが、俺が大地の気を注ぎ続けていなければ、彼の体は凍えて心臓が止まり、すぐに命を落としてしまうだろう。

 今生きているのが奇跡的なほどの状況なのだ。
 ……もし俺の手元に回復薬が有れば、彼を助ける事が出来ただろう。けど、俺の手元には薬が無い。薬草を生やそうにも、俺は大地の気を注ぐので精一杯で、薬を作る力すらもう出せないのだ。

 それに……俺の精神力も……もう、尽きかけている。
 だから、この寒さでは、この血の量では、俺が大地の気を注ぎ続けていたとしても、医師の元へ連れて行ったとしても…………。

 アレクの前で言えずにいる俺の言葉を察したのか、アドニスは肩をすくめ、やけに演技がかった仕草で俺に手を差し出した。

「私は自分の能力に関しては決して嘘はつかない。出来ない事は言いません。ただし、それを行うには君の力が必要だ。……そして……忌々しい私のこの氷の加護を使わなければ……ね」

 そう、だった。
 アドニスは絶対に自分の力をいつわったりしない。それが、彼のプライドだからだ。
 出来ない事は出来ないと言うし、やらない事は絶対に言わない。
 だったら……悩む事なんて、もう、ない。

「……わか、った」
「ツカサ君!!」

 すぐ後ろからブラックの声が聞こえる。
 敵を散らして駆けつけてくれたのかと安堵し、俺は軽く息を吐くとアドニスをゆっくりと見上げた。

「俺は、もう、人が死ぬのは見たくない……。もう、誰も……悲しんでほしくないんだ……。だから……頼む……救ってやってくれ……!」

 頭を下げて、アドニスに頼み込む。
 アレクもブラック達もそんな俺に押し黙っていたが、アドニスだけは嬉しそうな含み笑いを漏らすと、少しずれた眼鏡をかけ直した。

「良い子だ。……では、皇帝陛下から離れて下さい」
「え……でも……」
「いいから。……君が注ぎ込んでくれたアニマのお蔭で、皇帝陛下は今も辛うじて命を繋いでいます。その状態が続いている今やらなければ、彼は死にますよ」

 そう言われては、仕方がない。
 俺は立ち上がりながらヨアニスから手を放す。だが、何度も黒曜の使者の能力を使用したせいか、もう体がうまく動かなかった。

「っぅあ!」

 ぼやけた視界では受身を取ることも出来ず、立ち上がった途端に再び地面に倒れそうになったが……背後で、ブラックが支えてくれた。

「ツカサ君……こんなに無茶して……!」
「っ……ごめ……」

 鎧越しに抱き締められて、俺は背中に伝わる冷たさに目を細める。
 いつのまにか体がすさまじい熱を発していたらしく、今まで気付かなかったが、顔は風邪をひいた時のように気怠けだるわずらわしい熱にさいなまれていた。

「アレクセイ様も少し離れて下さいね。……しかし、先に腕を固定してくれていて助かりましたよ。切り離された腕も一緒に再生させるには、すぐにこうして繋げていなければなりませんから……」

 そう言いながら、アドニスはヨアニスの体をその場に寝かせる。
 常冬の寒々しい気候はすでに彼の体温を奪い始めていると言うのに、アドニスは全く動じもせずヨアニスの顔をじっと見つめた。

「……では、皆さん決してその場を動かないで下さい」

 ゆっくりと息を吸い、アドニスは片手を横たわる相手へ向ける。
 そして、何事かを小さく呟き始めた。

「あ…………」

 これはもしかして……詠唱……?

 俺の予想を裏付けるかのように、彼の掌には、いつのまにか銀を散らした青い光が球体となって出現している。
 その光はアドニスが詠唱を続ける度に大きくなっていき、やがて彼の周囲には風と共にキラキラと光る銀の粒子が舞い始めた。

「これは……何故、風が…………」

 クロウの言葉に、それが何らかの術である事を俺は確信する。
 通常、曜気が見えるのは曜術師だけだが、そんな彼らでも自分が扱う属性以外の曜気を感知する事はできない。
 ブラックもクロウも、アドニスに何が起こっているのか分からないようだった。

 だけど、こんな曜気見た事が無い。
 青い光は水の属性だ。だけど、銀を散らした青い光なんて……

「我が血族の名に於いて命ずる……永遠の停滞をつかさどる氷雪の力よ、この者の時を止め、我が願いの成されぬ限りは溶けぬ呪縛をこの者に与えよ……」

 静かな声でアドニスがそう言葉を零した瞬間。
 強い風がその場に巻き起こり、竜巻のようになってヨアニスを包んだ。

「なっ……!?」
「静かに。動いたら貴方達も凍りますよ」

 凍る、とは、どういう事だ。
 瞠目どうもくする俺達の目の前で、その答えは簡単に披露された。
 ――風の中で静かに横たわっているアドニスの体を、徐々分厚いに氷が侵食していく。手の先、足の先から彼を包み込み、そうして……俺達が見ている数秒の間に、ヨアニスの体は巨大な氷の塊に包まれてしまった。

「こ、これ……」
「ちゃんとした術ですよ。普通の人間には使えませんが、この術には“氷の中に閉じ込めた物”の時を止める効果が有ります。……これでひとまず皇帝陛下を移動させても大丈夫でしょう。氷は何をしても溶けないので、安心して下さい」
「だ、だけど……これからどうするんだ?」

 俺達の願いはあくまでも「ヨアニスを生き返らせること」であって、ヨアニスを氷漬けにする事じゃない。彼がアレクを抱き締められるようにならないと、意味がないのだ。アドニスはそれを解っているのだろうか。

 かすみがかる意識を必死にふるい立たせてアドニスを見やると、相手は笑みを更に深く歪めて……俺をじっと見やった。

「まだ、ダメですよ。……君も一緒に“ある場所”に行ってくれないと……彼は生き返りません。恐らく……一生ね」

 それが脅しじゃなければ、なんと言えばいいのだろうか。
 だけど、それ以上にもう俺達に術は無かった。


 これ以上……誰かを悲しませるわけにはいかないから。


 ――俺はそこまで考えて、意識を失ったのだった。











 
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