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陸 雪女ノ章
陸ノ拾 戻り橋のあやかしの正体
しおりを挟む子の刻にさしかかったころ。
宗近は刀を一本携えて戻り橋に向かいました。
ムツキを斬るつもりで持ってきたのではありません。相手がムツキではない、人を襲う妖だった場合にそなえてです。
誰もいない夜道を提灯を吊して歩けば、歩調に合わせて光もゆらりゆらりとうごめく。
満月とはいえ、月明かりはほのか。
暗闇から聞こえてくる烏の鳴き声や野犬の遠吠えが、不気味さに拍車をかけます。
橋に、一人の女房がうずくまっていました。
このあたりの屋敷に仕える女房たちが着る、とくに珍しくもない着物です。
ーームツキではない。
声も背格好も、彼女のものとは違います。
ムツキでなかったことに、宗近は安堵しました。
もしかしたら戻り橋のうわさを知らず、途方にくれているだけの人間の可能性も捨てきれないため、宗近は近づいて声をかけます。
「大丈夫か?」
「うっうっ。主さまの使いで五条からここまで来たのですが、夜道が怖く、ここから動けなくなってしまったのです」
女は提灯の薄明かりにぼんやり照らされ、涙に濡れる顔を上げます。
見たところ普通の人間のようでした。
「ここは怖い。そこのかた。五条まで送ってはもらえませんか」
本来なら送る、と言うところですが、宗近の中で女に対する疑問が浮かび上がりました。
この女は、なぜ灯りになるものを持っていない。
宗近が三条からここまで来るのにも、提灯の火を頼りにしてきたのに。
宗近が是と言わないことに、女はさらに言い募ろうとしました。
そこに馬の蹄の音が聞こえてきて、馬に乗った一人の武士が橋を通りました。
武士は宗近と女房に気づくと、馬を止まらせ声をかけてきます。
「そこの二人。こんな夜更けに何をしている」
「……俺はたまたまここに来ただけ。この女は五条からの使いで、夜道が怖くて帰れなくなっていたらしい」
武士はそうか、と呟き馬から降ります。
よくよく見れば、武士が身につけているのは仕立ての良い絹の狩衣に奴袴、烏帽子。京で知らぬものはいない、その人は源氏に仕える綱という武士でした。
「そうか、それはさぞ怖い思いをしただろう。五条は遠いだろう。屋敷まで送ろう。さぁ、私の馬に乗りなさい」
「ありがとうございます、本当に……」
綱が手を差し伸べると、女はしずしずと綱の手を取り、馬に乗せてもらいます。
「そこの貴方も、早く帰られよ。最近の夜道は男でも危険だ」
「お気遣い痛み入ります」
今日妖怪は出ないのかもしれない。明日出直そう。そう思い、帰ろうとしました。けれど。
「うわああぁあーー!!」
背後から男の悲鳴と馬のいななきが響き、宗近が振り返るとそこには、妖怪に襲われる綱の姿がありました。
さっきまで女の形をしていたモノは化物へと変貌していました。にやりとわらい、綱の髪を掴んでいます。
大きく開けた口には、犬のように鋭い牙が生え揃う。
真っ黒い肌、肌をおおうようにびっしり生える毛は白。
こめかみから天に伸びる二本角。黄金の眼は蛇のよう。
それは鬼と呼ばれるモノです。
「ケケケケ。本当に、オロカナニンゲン。また肉をタベラレルわ。アハはははハハハハ! まずはオマエから!」
「この、離せ化物め!」
綱が抵抗しようとしますが、馬に乗った状態で背後を取られているため、うまくいきません。
「チィっ!」
できれば刀を使わず終わりたかったけれど、そうも言っていられません。
宗近は提灯を投げ捨て刀を取ります。長尺刀を鞘のまま振り上げ、妖怪の喉元目がけて突き出す。
「ぎぃぃぃ!!」
鬼は宗近の刀を寸前で避け、綱を捕らえたまま宙に飛びました。
「この、離せと言っておろう!」
「ケケケケ。離したら、セッカクノ肉がニゲテしまうではナイカ!」
空高く舞う鬼は、愛宕山《あたごやま》の方角に飛びます。綱は一か八か、主から貸与された刀を抜きました。
「妖怪風情が、なめたまねを。この髭切(ひげきり)のつゆと消えるがいい!」
「ぎあぁあああぁあーーーー!!!!」
黒い腕はバサリと切れ、人ならざる悲鳴は尾を引きながら山の向こうに遠ざかっていきます。
振り落とされた綱は間近にある木に飛び移り、事なきをえました。
「大事ないですか、お侍様」
宗近は綱のもとに駆けつけます。
綱は木から飛び降り、宗近にお礼を言いました。
「そなたのおかげで助かった」
「いいえ。たいしたことはできていません」
「謙遜する必要はない。後日改めて礼の品を届けよう。わたしは渡辺綱。名を聞いてもよいか?」
「三条の、宗近と申します」
宗近が頭を下げると、綱は感嘆の息をもらします。
「ほう。刀工は剣の腕も見事なのだな。宗近殿」
ここに居合わせたのはたまたまであり、妖怪を止めようと無我夢中だっただけのこと。褒められるようなことはしていないので、宗近はあいまいにうなずくにとどめました。
一条の人々を襲い恐怖に陥れていた妖怪は、ムツキではなかった。
ムツキは、無実だったのです。
最後に突き放したときの悲しそうな目を思い出して、宗近は胸を痛めました。
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