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参 海ノ妖ノ章

参ノ拾 狩る者と狩られる者

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『誰ダ、誰ダ、我ノ獲物横取リシタ』

 陽が水平線に沈む頃、海から砂浜にあがってくるものがいました。

 微かな夕陽に照らされるのは、大人の牛より一回りも大きなクモでした。
 赤い鬼の頭を持ち、額からは天に向けて二本、弧をえがく鋭い牛の角が生えています。

 海からやって来た異形のものは、ケンジロウに呪いをかけた牛鬼でした。

『前二落チテキタ人間ハ不味カッタ、ヤハリ喰ウナラ若イ肉デナイト。クケケケケッ。獲物横取リシタ奴モクエバイイカ。アア、ハラガヘッタ』

 舌なめずりしながら浜を歩く牛鬼の前に、白髪の人が歩み寄ってきました。髪は白いけれど肌は若々しく、とても美味しそうな匂いがします。
 その白い人をどこかで見たことがある。そう思いながらも、食欲には勝てず、牛鬼は白い人に襲いかかりました。

 まずは動けなくしてやろうと影を踏み、活力を奪う呪いをかけます。いや、かけようとしました。

 白い人はなぜか呪いを受けることなく笑い、白い羽で作られた扇を持った手を横に一閃しました。

 音もなく風が躍り、牛鬼の下半身である蜘蛛の足二本の関節から先が失われ、砂の上に転がりました。

『ナ、ナンダ、ナンナンダ!? クソ、モウイチド!』

 予想外のことに驚きながらも、せっかく見つけた餌を逃がしたくはないと、牛鬼は白い人にのし掛かりました。

 呪いをかけるのが無理ならこのまま食べてしまおう。
 これまで食ってきた人間はみんな、恐怖に顔を凍らせて逃げまどいました。
 それを見るのもまた牛鬼の楽しみだったのに、白い人は牛鬼に踏みつけられても、勝ち誇ったような笑みを浮かべています。

 なにかがおかしい。牛鬼がようやく気づいて振り返ると、背後に浅葱色の狩衣を着た少年がいました。
 一枚の札を右手の人差し指と中指で挟み、朗々と術をうたいます。

吐普加身依身多女トホカミエミタメ寒言神尊カンゴンシンソン

 この術をまともにくらえばひとたまりもないと、牛鬼は直感しました。
 いったん白い獲物を諦めて逃げよう。そう思ったけれど、できませんでした。
 白い人が牛鬼の脚を掴んでいたのです。

「ふん。逃げられると思うな、下等なあやかしが。腹が減っているのだろう? おとなしく封じの術を食らえ」

 不敵に笑う表情、赤い瞳を見てようやく思い出しました。

『オマエ、アノトキノ!? アヤカシノクセニ、ナゼ人間二ミカタスル!』

「私は人間の味方ではない。私に命令していいのは私だけ。たとえ妖怪であろうと、お前みたいな姑息で腹のうちが薄汚い奴は大嫌いなんだ。とっとと封じられて消えろ」

 いい笑顔で“消えろ”と言われて、牛鬼はぞっとします。白い人の手は脚の二本を掴み牛鬼を逃すまいとしています。

 牛鬼は残った捕まれていない脚でおもいきり白い人の腹を蹴りました。

「ぐあっ!」

 白い人が痛みに怯んだ隙に飛びのきます。


『オボエテロ、天狗。ユルサナイ次コソ』

「フエノさん!」

 白い人が攻撃されて陰陽師が顔色を変えました。白い人は蹴られたところを押さえて叫びます。
 
「っの、馬鹿者! 私のことなど気にせずさっさと封じろ! 海に逃げられたら追う術が無いぞ!」

『クケケケ、モウ遅イ』

 牛鬼は水のあやかしです。もし二人が船に乗って追ってきたとしても、そこは牛鬼の縄張り。簡単に船を沈めることができます。海にさえ潜ってしまえばもう追うものはいません。
 人間が海のなかでは生きられないことを、牛鬼は知っていました。

 白い人と陰陽師が追うよりも早く、牛鬼は砂浜を素早く移動して波間に飛び込みました。

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