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参 海ノ妖ノ章

参ノ玖 名前を呼んで

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 考えがある。そう前おいて、フェノエレーゼは自信ありげに胸をそらします。

「牛鬼は一度狙った獲物を逃さない。必ず取り戻しにくる。やつがまた呪いをかけようとするなら私が囮になろう。その隙に封じろ」

「貴女は……自分が何を言っているかわかっているのですか!?」

『きゅい! 主様の言う通りよ! あんた正気? 死にたいの? 無茶よ。シロートは大人しく隠れてなさい』

 フェノエレーゼの作戦は、自分が盾となり牛鬼の呪いを受けるということに他なりませんでした。
 陰陽道を学んだわけでもない一般人を囮にするなんて、ナギにできるはずもありません。

「なに、どういうこと? フエノさん、なにをするの? おんみょうじのお兄さんはなんで驚いてるの?」

 難しく聞きなれない単語ばかりで、ヒナにはことの重大さがわかりません。
 ナギはためらいながらもヒナに教えました。

「いいですかお嬢さん。フエノさんは自分が妖怪に襲われるよう仕向けるから、その間おれに妖怪を止めるように、そう言っているのです。下手したら死んでしまう」

「ええ!? フエノさん、ダメよ。そんなの危ないわ! けがじゃすまないかも知れないのよ!」

 ヒナが袖を引いて必死に止めます。けれどフェノエレーゼは意思を変えません。

「相手は牛鬼。牛鬼ごとき下級の呪いは私に通じぬ」

「そんなわけないでしょう! 牛鬼は殺せば死の呪いを受ける。影を食われればケンジロウ殿のように活力を吸われる。貴女にどんな被害が及ぶか」

「何度も言わせるな。それとも、お前一人で牛鬼をどうにかできるとでも?」

 反論できなくて、ナギは唇を噛みます。
 以前師が牛鬼封じするのを側でみていたけれど、ナギの師ですら牛鬼封じはもう一人の陰陽師と二人がかりでした。陰陽師どころか修行中のナギ一人では、札を用意している間に呪い殺されているでしょう。

「……フエノさん。ひとつ聞かせてもらってもいいですか?」

「なんだ?」

「自分は呪いを受ける訳がない。なぜそう思われるのですか」

 呪いを受ければ死ぬ。影を食われても遠からず死んでしまう。そう説明した上で、呪われたケンジロウを見た上で大丈夫だと言えるのは理由があるように思えました。

 フェノエレーゼは頷き、おもむろに自分の袖をまくりあげ、二の腕までさらしました。

「な、なにを! 若い娘が人前に肌をさらすものでは……」

 女性への耐性がないのか、ナギは顔を赤らめうろたえます。ナギの動揺など露知らず、フェノエレーゼは腕を出したまま、己の腕にはびこる文様を睨みながら言葉をつむぎます。

「前に会った時に言っただろう。私はすでに呪いを受けている」

「……それは」

 呪いの重ねがけは、力弱いモノには難しいのです。
 フェノエレーゼに呪いをかけたのは神格のあやかしサルタヒコノミコトです。
 つまり、牛鬼の呪いを受けない可能性が高い、それがフェノエレーゼの考えでした。

「ケンジロウにかけられた呪いを絶った以上、今夜にも牛鬼は獲物ケンジロウを取り戻しに来るだろう。時間がない。お前の答えは?」

「……わかりました。貴女の力を貸してください」

 今はただ、フェノエレーゼが呪われない可能性にかけるしかありませんでした。
 本当なら無関係の人を巻き込みたくないナギにとって苦渋の決断です。

 ふたりの会話で、フェノエレーゼが牛鬼退治に参加することになったと、ヒナは感じとりました。

 震えながら、涙で顔をぐしゃぐしゃにして、フェノエレーゼの足にしがみつきます。

「死んじゃいやよ、フエノさん。わたし、まだちゃんとお手伝いできてない。羽を取り戻すって約束したのに」

 泣きじゃくるヒナの頭に、真っ白な手が乗せられます。

「お前はもう一晩、サワ殿の家に世話になっていろ。夜明けまでには終わるから絶対家を出るな」

「でも、でも」

「聞き分けろ、ヒナ」

 初めてフェノエレーゼに名前を呼ばれ、ヒナはびっくりして涙が引っ込みました。

「サワ殿。すまないがもう一日こいつをあずかってくれないか。雀、こいつが無茶して家を飛びしたりしないよう見張ってろ。下手したら巻き添えをくう」

「ええ。それがあたしにできることなら」

『あいあいさー! そんな危険なところ、いくらあっしでも頼まれたって近寄らないでさ!』

 こんなときでもいつもと変わらぬ調子の雀に笑い、フェノエレーゼはヒナに背を向けて歩き出します。
 ナギも覚悟を決めて歩みます。

 自分に力があったならといくら願っても、まだ五才。非力なヒナにできるのは、大人しく待つことだけでした。
 ヒナは袖で涙をぬぐい、声をはりあげました。

「ぜったいよ、フエノさん。ぜったい無事に戻ってきてね!」
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