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弐 桜木精ノ章

弐ノ捌 ことのはのちから

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「貴女たちは、言霊《ことだま》、というのを知っていますか?」

「ことだまってなあに?」

 ナギの問いに応えたのはヒナでした。
 フェノエレーゼは不機嫌そうに押し黙っています。
 なぜ初対面でこんなに敵視されているのか。ナギは胸のうちだけで嘆きます。
 フェノエレーゼの後ろで震えている桜木精を見て、言葉を選びます。

「言葉には力が宿ります。そう信じて発した言葉は特に。……あの村の人々は言っていたでしょう。“この桜は何年も咲いていない。今年も咲くはずがない”」

「つまり、村人たちが咲くわけないと諦めて発した言葉が桜木精に影響している、と?」

「恐らくは。そうでなければ精が宿るほど健康な木が花を咲かせなくなるなんてことはない。たった一年、たまたま開花が遅れた年があり、“この桜はもうだめかもしれない”その言葉を、桜が受け取ってしまった」

 人間なんてなんの力もない生き物だと思っていたフェノエレーゼにとって、言霊というものに妖怪の存在を歪めるほどの力があることは意外でした。

 ナギの推測は真実なのだろうと、背後にいる弱りきった桜木精を見やります。

 妖怪であるフェノエレーゼが視認が難しいほどに、桜木精は弱り霞んでいました。
 人間には気配すら感じ取れないでしょう。

『そんな。わたしは、もう咲くことができないの? このまま伐られてしまうの? そんなのは嫌よ』
 
 木の枝の両手で顔をおおい泣き出してしまいます。
 でも人間のように涙を流すことはできず、わずかに残った葉が風もないのに揺れるだけ。

 目の前にいるヒナにも、嘆きは聞こえてはいません。

「ねえお兄さん。村のおばあさんたちが咲かないって言ったから咲かなくなったならさ、じゃあさ、咲くって言えば咲くってこと?」

 ヒナはナギの狩着の袖を引っ張って聞きます。
 このまま桜木精を祓うか、桜木精が自然に消滅するかのどちらかだろうと考えていたナギは、目をみはりました。

「それは……ああ、もしかしたら可能かもしれませんね。力を失わせたのが言霊なら、逆もしかり。咲くように心から願って言葉をかければ、あるいは」

 それを聞いて、桜木精が顔をあげました。

「そっか、じゃあ桜さん、桜さん。咲いてください。わたし、あなたが咲くところを見てみたいわ」
『チチチ、それじゃ、あっしも』

 ナギの言葉を信じて、ヒナは桜の幹を撫でます。雀もヒナの手に乗っかってくちばしで幹をつつきます。
 たかが幼子一人の言葉でなんになる。フェノエレーゼは傍観していましたが、ほんのりと、桜木精の姿に淡く明るい色が差しました。
 ナギも幹に手を当てます。ナギの襟元からオーサキも出てきました。

「おれも、むやみに祓いたくはない。お前にまだ咲きたいという意思があるなら、きっと……いや、必ず咲ける」
『主様が決めたのなら、ワタシもお力添えを』

 ナギ自身が妖力を持つからか、ヒナの時より確実に、桜木精の力が戻りました。木の枝に芽が出て、薄く色づくつぼみができます。

「フエノさん。フエノさんも、ほら。一緒に桜見ようよ」

 笑顔で手を引かれ、フェノエレーゼも白い手のひらを幹に乗せました。

「ふん。いいだろう。花見くらいなら付き合ってやる。桜木精。これは貸しにしておく。いつか返せ。人間どものつまらん言葉で消えたら許さんからな」

 フェノエレーゼの言葉を受け取り、つぼみがひとつ、またひとつと花開きました。


「咲いた!! フエノさん、フエノさん、見て! すっごくきれい!」

『チチチ、やったっすーーーー』

 ヒナと雀が、桜の雨が降るなか木のまわりを走り回ります。


『ああ、ありがとう。ありがとう。そうよ。わたしは、もう一度だけ見たかったの。わたしのもとで花見をしてくれる、人々を』

 喜び泣く桜木精の姿はヒナには見えていない。けれど、きっと花が喜んでいるのを心で感じ取っているのではないか、フェノエレーゼにはそう思えました。
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