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始まりは何時もと少し違います……。

ローマ字の勉強も、確か明治時代のはず……小学校の勉強の中だったので覚えてないなぁ……。

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「な、何なんだ? これは?」
「『ローマ字』です。いえ、文字のことは『アルファベット』と言います。『アルファベット』を『大和』……この国の人々に解りやすく伝える為に、作った組み合わせ文字です」

 采明あやめは、はっきりした口調で答える。

「良いですか? 『大和言葉やまとことば』は、『あいうえお』と言う言葉を母音ぼいんになり、それをこの『aiueo』に置き換えます。解りますか?」
「あいうえお位解る! 子供扱いするな」
「では、『kstnhmyrw』はどうなるでしょうか?」

 見たこともない記号か何かにしか見えないそれに、うんうん悩む。

「これは、良いですか?」

 紙の上に縦に一列『aiueo』、横に一列『kstnhmyrw』を書き、それの交わる部分に、文字が二文字で並び始める。

「『いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑいもせす(ん)』と『大和言葉』にありますね。『色はにほへど 散りぬるを 我が世たれぞ 常ならむ 有為ういの奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔いもせず(ん)』と言葉を覚える為に『いろは歌』で覚えたりもします」
「お前、詳しいな……」
「子供の頃から、祖母にお手玉を数えながら色々な歌を覚えました。結構覚えてますよ? 歌いましょうか?」

 にこにこと笑いながら歌うのは、『早春賦そうしゅんふ』。

『春は名のみの 風の寒さや 谷の鶯 歌は覚えど 時にあらずと 声もたてず 時にあらずと 声もたてず』

「ほぉ……美しい歌だな」
「じゃぁ……」

『春のうららの隅田川 登り下りの船人が かいしずくも花と散る 眺めを何にたとうべき』
『菜の花畑に 入り日薄れ 見渡す山の 霞深し 春風そよ吹く 空を見れば 夕月かかりて 匂い淡し』

 言葉の発音が美しく、そして情景をそのまま言葉に託して、音に乗せている。
 この美しい歌は誰が作ったのだろう。

「こんな感じですが、神五郎しんごろう様? この言葉を、表に出来るんですよ」
「表に? どうやってだ?」
「まずは『k』です。日本ではこの文字を単独で言葉にできません。『aiueo』は母音、『kstnhmyrw』は子音しいんと言います。母音は『あいうえお』です。で、『k』に『a』が繋がると『か』になるんです」
「か?」

 まばたきをする。
 文字と言うよりも、記号である。

「はい、そして『ki』は『き』です。そしてこういう風になります」

 采明の文字で出来上がったものに驚く。

「こ、こんなに綺麗に分かれるのか?」
「はい。これを練習することで、自分の名前を伝えられます。今日は文字について、『大和言葉』に当てはめる勉強です。神五郎様は、稽古に専念して下さい」
「あぁ、解った。しかし珍妙な……このようなことで上手く行くのか……」

 首を傾げながら歩き去ろうとするが、ふと振り返り、

「采明」
「はい、何でしょうか?」

 片付けていた手を止める。

「お前の時代の歌は本当に美しい。お前の声も可愛い。でも、周囲に問題があるようなら、勉強はやめてもいい。お前の知識は、今の自分達には解り得ない、それなのに、采明がそれを知っていることで、周囲が采明を異質な何かだと考えたら……」
「直江家にご迷惑をかけるようでしたら……」
「違うだろう! お前が怪我を負っては困るんだ! 解るか? お前は、俺の嫁だ! 結婚する時に決めた。俺はお前を守るんだと。一生添い遂げると。解ったか? 俺がいない時に何かあったら、姉上かけやき兄上達に助けを求めろ! いいな?」

 神五郎は、懐に手を忍ばせ投げる。
 采明の傍を這っていた毒蛇の頭が、柱に留まる。
 横を見た采明が、蒼白になり、

「へ、へへ、蛇~! こ、ここ、怖い~!」

泣き出し、駆け寄ってきた神五郎にしがみつく。

「……この辺には余り見た事のない蛇だな」
「マムシです。毒蛇です……大和には多くいるそうですが、見た事はないですか?」
「余り、な。時々は見るが、このような屋敷の中にまで来る事はない」

 周囲の気配を確認していると、采明の声に気がついて駆けつけてきた橘樹たちばなと欅たち。

「どうしたの!」
「お、お、御姉様……」

 ボロボロ泣き出す義妹に、橘樹が駆け寄る。

「ど、それにしても、何ですか? との。こんな不気味な飾りは……」
「兄上。この屋敷の警備を厳重に、采明に何かがあれば、困ります」
「かしこまりました。厳重にさせて戴きます」

 采明を抱き締めた神五郎は、

「稽古は今日は止める。采明を落ち着かせたい。それと、皆。采明はこの家の者。私の嫁だ。危害が及ばないように、手分けをして、何かが起こったら対処を頼む。姉上、もしくは欅兄上に。頼む」

本当に怖かったのか泣きじゃくる采明を抱いたまま立ち上がり、背中を叩く。

「解ったわ。神五郎……とののご命令には従います」
「は? 姉上、気持ち悪い事を言わないで頂けますか?」
「何が気持ち悪いよ!」

 神五郎は呆れ返り、

「姉上は私の姉でしょう? その姉上に主などと言われたくないですよ。気持ち悪い」
「何ですって!」
「お転婆で、女だてらに薙刀なぎなたを振り回す豪胆で周囲に知られた姉上に、早々夫が出来ますか。欅兄上に婿養子に入って貰います。一応私が当主にいますが、欅兄上も、直江家の人間として私を支えて貰います。良いですね?」

ぎょっとする周囲に、しゃくり上げる采明。

「ふあぁぁん。怖いよぉ~。蛇、蛇、嫌だよぉ」
「大丈夫、大丈夫だ。守ってやるから。休もう。な?」
「ふわぁぁん……」

 神五郎は、采明を抱いたまま障子を閉めた。



「もう泣くな……大丈夫だから」
「でも、私が……私が、異質だと思っているんだと思うんです……」
「異質?」

 腕の中で告げる少女を見下ろすと、

「私が、私が……」
「何が悪い? 俺と出会うんじゃなかったのか?」
「私は……」
「お前はお前で、俺の嫁だ。傍にいれば良いんだ。それに、俺は好奇心旺盛なんだ。俺に新しいものを教えてくれ。俺はそれを知りたいし、お前の見るものを一緒に見たいんだ」

よしよし、頭を撫でる。

「で、『ろうまじ』? とか『あるはべっと』を教えてくれ。そうすれば、一つ覚えるごとに、お前に近づける。何かあったら困るから傍にいろ」
「……居なくなったら、忘れて下さいね?」

 涙に濡れた采明の目をぬぐい、

「忘れるものか。その前にお前がいなくなる前に捕まえておく! 逃げられないと覚悟しろ」
「本当……ですか?」
「本当だ。だから、明日からは勉強させろ。あの『あるはべっと』は難しそうだ。でも、絶対に覚えて見せる!」

意気込む夫に、泣き笑う。

「頑張って下さいね。応援だけはしますね」
「おい! 夫を助けるのが妻の務めだろうが!」
「知りませ~ん。私は、神五郎さまのお手伝いしません。残念でした」
「何だってぇ?」

と、顔をしかめたものの、顔を見合わせ笑いだす。
 しばらく笑い、そして、

「そうやって笑っていろ。お前の笑顔を見るだけで俺も、家の者も嬉しい」
「お手伝い……」
「勉強と家の掃除や、炊事場位で外に出歩くのは止めることだ。怪我もしているんだし、姉上や欅兄上に着いていて貰うことだ」

 いいな?

その言葉に頷いたのだった。
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