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人間へ、2018
人間へ、2018 第四話
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気付けばもう、夕暮れが辺りを茜色に染めていた。
「最初は確かに岩肩くんを連れて行く気だった。理由は……、あなたの言う通りよ。初めて見た時は、あまりに似過ぎていて自分の頭を疑ったくらい。あんなに、コウ、に似ている子がいるなんて、ね」
この、コウ、は僕を指しているわけではないことは知っていても、すこし寂しい気持ちになってしまう。二十年以上も、僕は彼女のそばでコウとして過ごしてしまったのだから、どうしてもこういう感情にはなる。
「写真越しにしか知りませんが、本当に似ていました……」
「似ているけれど、彼は違った。それだけのことよ」
「それは彼が、僕に殺され……かけたからですか?」
殺すような気持ちで彼の頭を洗面台の鏡に叩きつけたから、岩肩くんは死んでいるに決まっている。ずっとそう思い込んできた。もしかしたらあの時から、岩肩くんはまだ生きているのでは、と僕は心のどこかで疑っていたのかもしれない。生きているのでは……、でも死んでいて欲しい、と復讐されることへの恐怖や罪の意識による心理的圧迫に耐えられずに、僕は都合よく自身の記憶を書き換えていた可能性もある。いまとなっては分からない話だ。
「そうかもしれないし、そうじゃないのかもしれない」先生の言い方は曖昧で、だけどその口ぶりは自分自身でも答えが分からずに戸惑っているわけではなく、僕にはその理由を教えたくない、というふうに見えた。追及しても絶対に教えてはくれないだろう。経験から知っている。「……初めてあの子を見た時、コウの生きているもうひとつの未来に迷い込んだ気分になったのを覚えてる。あの時の私にとって、あの時の彼はコウだったの。だから、……もうひとりのコウが叶わなかった姿にしてあげよう、って思ったんだけどね」
「叶わなかった、って……」
「現実としか思えない夢を見たことある?」
「ありますよ。特にあなたと出会ってから、何度も」
例えば渚さんの一件が終わった時、僕は真実としか思えない夢に苛まれ、それから数日間、高熱に苦しむことになった。
「まぁ、私といれば、嫌でもそうなるか……。私も、ね。何度も見るの。間違いなく、あなたよりもずっと多い頻度で、たぶん何十倍も明瞭な夢。私は子どもの頃からそうだった。過去の知らない事実だけじゃなくて、未来の夢を見ることも多かった。普通に見る夢とは明らかに違っていて、ある時期から気付くようになったの。未知の真実を見通す力だって。都合よく見たいものだけを見れるのならいいんだけど、ね……」
「何を見たんですか?」
「こんな私でも、ひとを好きになったことがあってね。結婚して妻になって、出産して母親になった時代があるの。想像もできないでしょうけど、ね。あの頃はちょっと不思議な力は持っている、って言っても、別にいまみたいな仕事は何もしていなかったから、ただのひと、と変わらない生活を送ってた」
「意外です……」
ただのひと、という言葉がこれほど似合わないひともめずらしい。
「当然よね。そう……当然のことよね。もし意外に思わなかった、としたら、いままであなたは私の何を見てきたんだ、って思うくらいよ」ふふっ、と先生がちいさく笑う。「……ささやかだけど、ね。この穏やかな日常は続いていくはずだ、って思ってた。ううん。違う。続いてくれ、って願ってた。その日常が壊れる夢は、まだ見てなかったから。……でも、そういう願いは得てして叶わないものよ。あの日見た夢が、私のすべてを壊してしまった」
「夢……」
「目の前にいる幼い子どもは、いつか凶悪な殺人鬼になる。怪物……大きくなった息子に、私は怪物を見たの……。そんな未来を知った時、あなたなら、どうする? 育てる? 生かす? 殺す? よくある思考実験の一種みたいな話だけど、あの時の私にとっては早急に答えを出さなければいけない現実問題だった」
「それで……」
「答えはもう分かってるでしょ。まるでミイラ取りがミイラになるみたいに、私は怪物になって、そして独りになった。あなたと出会うすこし前の話よ。私が、生まれながらに持っていた様々な力を色々な人間に使うようになったのも、その頃から。私はもう人間じゃないんだから、人間的な倫理観に囚われる必要もないかな、って」
そして先生は、怪物、に囚われるようになり、僕と出会ったわけだ。これで僕がコウさんと似ていれば運命的と言えるかもしれないが、その役目を担ったのは、僕ではなく岩肩くんだった。
「はっきり言う。最初、あなたは生贄でしかなかった」
「なんで僕だったんですか?」
「福井に来たのは、仕事よ。セミナーを開くから講師をしてほしい、って頼まれてね。そこであなたのお母さんと会ったの。あなたのお母さんは私でも驚くくらい私に妄信的になっちゃって、結構強引に栗殻村に連れて来られたのよ。その家の息子としてあなたがいた。岩肩くんを欲しい、と思ったのは、そのあとのこと。岩肩くん……彼を見て、怪物になった私と彼なら、人間の時とは違ってうまくいくかもしれない。あの子が欲しい……その彼の標的として都合が良かったのが、あなた。それだけ」
「でも結局あなたは、死なずに生きていた彼を選ばなかった……」
「怪物になれなかったし、それに彼は見た目だけはコウに似ているけれど、本質的には全然違う。トイレで倒れている彼を見た時、そう思ったの。放っておけば死んでもおかしくない状態だったから、いっそ殺してあげようかな、と思ったけれど、ね。変な情でもわいたのかしら。ほら、怪物の目にも涙、って言うでしょ」
「鬼、ですよね……」
「まぁどっちでも意味は変わらない。あなたを車に乗せた時、トランクには彼が入っていたのよ。わざわざあなたにばれないように、一度あなたを連れ出してから、もう一度、ここに戻ってきて、彼を彼の家の近くに置いてきたんだから。変質者が誘拐した子どもを解放したふうを装って、手紙まで書いたのよ。……もう疲れてきた。このくらいでいいでしょ。まだ話すこと、ある?」
先生が大きく伸びをする。
「……いや、だから僕を選んだ理由は……」
「さあね。私は否定も肯定もしないであげるから、答えは自分で勝手に決めていいよ。……さて、私がめずらしくここまで話してあげたんだから、次はあなたの番」
「僕……ですか? 何も隠し事なんて」
「あなたが私に隠し事なんてできないでしょ。もっと簡単な、私からの質問よ」
「質問……」
「人間だ、と知ったあなたは、これからどうするの?」
そう僕がこの村をふたたび訪れたのは訣別のためだ。でも先生の話を聞きながら、僕の気持ちは揺らいでいた。
……僕はこのひとを失って、いまさら人間としてひとりで歩いていけるのだろうか。さっき先生は否定したが、やっぱり簡単には信じられない。先生にとって僕はただの代用品に過ぎないのかもしれないが、僕にとって先生は代わりのない特別な存在で、本音を言うなら、先生にとっての僕も特別な存在であって欲しかった。こんなにも一緒に過ごしてきたのだから。そんなふうに思ってしまう僕のほうが勝手なのだろうか。
不安、恐怖、寂しさ。それらの感情はためらいに繋がっていく。
でも……。
「僕は先生とは一緒に行けません」
「そう。じゃあせっかくだから最後に私の名前を呼んでみてよ。もう私たちの関係は、先生と助手の関係じゃなくなったんだから、いいでしょ?」
僕は彼女の名前を呼んだ。
その名前を実際に口にするのは、初めてだ。彼女の耳にかすかに聞き取れるくらいのちいさな声になってしまった。僕に顔を近づけ、ありがとう、と彼女がはじめて僕の本当の名前を呼び、ほおに口を付ける。
さ、よ、な、ら。
驚く僕に背を向けた彼女の背中は、すこしずつ遠ざかっていく――。
彼女とは別の方向を行くことにした。
その先には、怪物だ、と思い込んでいた頃のほうがましだと思うほどの苦しみが待っているかもしれない。でも、まだ僕は怪物じゃない。
人間へ向かって歩いていく、と決めたのだから。
「最初は確かに岩肩くんを連れて行く気だった。理由は……、あなたの言う通りよ。初めて見た時は、あまりに似過ぎていて自分の頭を疑ったくらい。あんなに、コウ、に似ている子がいるなんて、ね」
この、コウ、は僕を指しているわけではないことは知っていても、すこし寂しい気持ちになってしまう。二十年以上も、僕は彼女のそばでコウとして過ごしてしまったのだから、どうしてもこういう感情にはなる。
「写真越しにしか知りませんが、本当に似ていました……」
「似ているけれど、彼は違った。それだけのことよ」
「それは彼が、僕に殺され……かけたからですか?」
殺すような気持ちで彼の頭を洗面台の鏡に叩きつけたから、岩肩くんは死んでいるに決まっている。ずっとそう思い込んできた。もしかしたらあの時から、岩肩くんはまだ生きているのでは、と僕は心のどこかで疑っていたのかもしれない。生きているのでは……、でも死んでいて欲しい、と復讐されることへの恐怖や罪の意識による心理的圧迫に耐えられずに、僕は都合よく自身の記憶を書き換えていた可能性もある。いまとなっては分からない話だ。
「そうかもしれないし、そうじゃないのかもしれない」先生の言い方は曖昧で、だけどその口ぶりは自分自身でも答えが分からずに戸惑っているわけではなく、僕にはその理由を教えたくない、というふうに見えた。追及しても絶対に教えてはくれないだろう。経験から知っている。「……初めてあの子を見た時、コウの生きているもうひとつの未来に迷い込んだ気分になったのを覚えてる。あの時の私にとって、あの時の彼はコウだったの。だから、……もうひとりのコウが叶わなかった姿にしてあげよう、って思ったんだけどね」
「叶わなかった、って……」
「現実としか思えない夢を見たことある?」
「ありますよ。特にあなたと出会ってから、何度も」
例えば渚さんの一件が終わった時、僕は真実としか思えない夢に苛まれ、それから数日間、高熱に苦しむことになった。
「まぁ、私といれば、嫌でもそうなるか……。私も、ね。何度も見るの。間違いなく、あなたよりもずっと多い頻度で、たぶん何十倍も明瞭な夢。私は子どもの頃からそうだった。過去の知らない事実だけじゃなくて、未来の夢を見ることも多かった。普通に見る夢とは明らかに違っていて、ある時期から気付くようになったの。未知の真実を見通す力だって。都合よく見たいものだけを見れるのならいいんだけど、ね……」
「何を見たんですか?」
「こんな私でも、ひとを好きになったことがあってね。結婚して妻になって、出産して母親になった時代があるの。想像もできないでしょうけど、ね。あの頃はちょっと不思議な力は持っている、って言っても、別にいまみたいな仕事は何もしていなかったから、ただのひと、と変わらない生活を送ってた」
「意外です……」
ただのひと、という言葉がこれほど似合わないひともめずらしい。
「当然よね。そう……当然のことよね。もし意外に思わなかった、としたら、いままであなたは私の何を見てきたんだ、って思うくらいよ」ふふっ、と先生がちいさく笑う。「……ささやかだけど、ね。この穏やかな日常は続いていくはずだ、って思ってた。ううん。違う。続いてくれ、って願ってた。その日常が壊れる夢は、まだ見てなかったから。……でも、そういう願いは得てして叶わないものよ。あの日見た夢が、私のすべてを壊してしまった」
「夢……」
「目の前にいる幼い子どもは、いつか凶悪な殺人鬼になる。怪物……大きくなった息子に、私は怪物を見たの……。そんな未来を知った時、あなたなら、どうする? 育てる? 生かす? 殺す? よくある思考実験の一種みたいな話だけど、あの時の私にとっては早急に答えを出さなければいけない現実問題だった」
「それで……」
「答えはもう分かってるでしょ。まるでミイラ取りがミイラになるみたいに、私は怪物になって、そして独りになった。あなたと出会うすこし前の話よ。私が、生まれながらに持っていた様々な力を色々な人間に使うようになったのも、その頃から。私はもう人間じゃないんだから、人間的な倫理観に囚われる必要もないかな、って」
そして先生は、怪物、に囚われるようになり、僕と出会ったわけだ。これで僕がコウさんと似ていれば運命的と言えるかもしれないが、その役目を担ったのは、僕ではなく岩肩くんだった。
「はっきり言う。最初、あなたは生贄でしかなかった」
「なんで僕だったんですか?」
「福井に来たのは、仕事よ。セミナーを開くから講師をしてほしい、って頼まれてね。そこであなたのお母さんと会ったの。あなたのお母さんは私でも驚くくらい私に妄信的になっちゃって、結構強引に栗殻村に連れて来られたのよ。その家の息子としてあなたがいた。岩肩くんを欲しい、と思ったのは、そのあとのこと。岩肩くん……彼を見て、怪物になった私と彼なら、人間の時とは違ってうまくいくかもしれない。あの子が欲しい……その彼の標的として都合が良かったのが、あなた。それだけ」
「でも結局あなたは、死なずに生きていた彼を選ばなかった……」
「怪物になれなかったし、それに彼は見た目だけはコウに似ているけれど、本質的には全然違う。トイレで倒れている彼を見た時、そう思ったの。放っておけば死んでもおかしくない状態だったから、いっそ殺してあげようかな、と思ったけれど、ね。変な情でもわいたのかしら。ほら、怪物の目にも涙、って言うでしょ」
「鬼、ですよね……」
「まぁどっちでも意味は変わらない。あなたを車に乗せた時、トランクには彼が入っていたのよ。わざわざあなたにばれないように、一度あなたを連れ出してから、もう一度、ここに戻ってきて、彼を彼の家の近くに置いてきたんだから。変質者が誘拐した子どもを解放したふうを装って、手紙まで書いたのよ。……もう疲れてきた。このくらいでいいでしょ。まだ話すこと、ある?」
先生が大きく伸びをする。
「……いや、だから僕を選んだ理由は……」
「さあね。私は否定も肯定もしないであげるから、答えは自分で勝手に決めていいよ。……さて、私がめずらしくここまで話してあげたんだから、次はあなたの番」
「僕……ですか? 何も隠し事なんて」
「あなたが私に隠し事なんてできないでしょ。もっと簡単な、私からの質問よ」
「質問……」
「人間だ、と知ったあなたは、これからどうするの?」
そう僕がこの村をふたたび訪れたのは訣別のためだ。でも先生の話を聞きながら、僕の気持ちは揺らいでいた。
……僕はこのひとを失って、いまさら人間としてひとりで歩いていけるのだろうか。さっき先生は否定したが、やっぱり簡単には信じられない。先生にとって僕はただの代用品に過ぎないのかもしれないが、僕にとって先生は代わりのない特別な存在で、本音を言うなら、先生にとっての僕も特別な存在であって欲しかった。こんなにも一緒に過ごしてきたのだから。そんなふうに思ってしまう僕のほうが勝手なのだろうか。
不安、恐怖、寂しさ。それらの感情はためらいに繋がっていく。
でも……。
「僕は先生とは一緒に行けません」
「そう。じゃあせっかくだから最後に私の名前を呼んでみてよ。もう私たちの関係は、先生と助手の関係じゃなくなったんだから、いいでしょ?」
僕は彼女の名前を呼んだ。
その名前を実際に口にするのは、初めてだ。彼女の耳にかすかに聞き取れるくらいのちいさな声になってしまった。僕に顔を近づけ、ありがとう、と彼女がはじめて僕の本当の名前を呼び、ほおに口を付ける。
さ、よ、な、ら。
驚く僕に背を向けた彼女の背中は、すこしずつ遠ざかっていく――。
彼女とは別の方向を行くことにした。
その先には、怪物だ、と思い込んでいた頃のほうがましだと思うほどの苦しみが待っているかもしれない。でも、まだ僕は怪物じゃない。
人間へ向かって歩いていく、と決めたのだから。
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