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19.逃げ道(1)

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 次の日から、ミーアは人が変わったように大人しくリオンを受け入れるようになった。
 昼間の指南の時間を終え、夜が来るまでの間、憂鬱そうにため息をつくこともなくなり、房事の最中も暴れることはしない。積極的にリオンを受け入れようとしているわけではないものの、嫌だと喚くことが無くなっただけでリオンは満足気な様子だった。

 ――ここから逃げ出したい気持ちが消えたわけではない。でも、どうすれば父と二人でリオンから逃げおおせることができるのかが分からないのだ。

 闇雲に反抗しても、リオンには到底敵わない。より強い力でねじ伏せられるだけだ。
 それを嫌というほど思い知ったミーアは、従順になった素振りを見せながらこの城から逃げ出す方法を静かに考えていた。
 
「ミーア様、失礼いたします。お茶をお持ちしたのですが……」
「あ……ありがとう、ございます。そこに置いてください」
 
 ミーアが物思いに耽っていると、侍女の一人が湯気の立った温かい茶を運んできた。ミーアとちょうど同じくらいの年頃の彼女は、日が高く昇ってもまだ寝台の上でうずくまっているミーアを心配そうに見つめている。
 さすがに起きなくては、と自分を叱咤してのろのろと寝台から起き上がり茶器を手に取ると、ふわりと懐かしい香りが鼻に届いた。
 
「え……これ、もしかしてイトの葉のお茶ですか?」
「はい。あっ……もしかして、お嫌いでしたか?」
 
 若い侍女は、失敗したとでも思ったのか不安げな声音で尋ねる。ミーアは首を振って、もう一度その香りを吸い込んだ。
 
「イトのお茶、好きなんです。でも、お城では飲めないと思っていたからびっくりして」
「あ……そうだったのですね。最近、珍しく仕入れられていたので淹れさせていただきました。私も、実家ではよく母が淹れてくれていましたので」
 
 目を細めて懐かしそうに言った彼女に、ミーアはほっと顔を綻ばせた。
 リオンをはじめトガミや他の側近たちと会話をすることはあれど、それはとても楽しい内容ではない。指南役とは日常会話をするような間柄ではないから、こうして誰かと何気ない話をするのは久しぶりだった。
 
「ミーア様のお父上は、王都の隣にある商人の街のお生まれとお聞きしました。イトの葉は元々そこで作られ始めたそうですよ」
「へえ、そうなんですね……そっか、だからお父様は毎年イトの葉を育てていたのね……」
 
 そっと茶器に口をつけながら、ミーアは父と母のことを思った。
 生まれ育った街から逃げるように離れ、山や畑ばかりのあの土地で暮らすことを、父や母はどう思いながら過ごしてきたのだろう。
 周りに頼れる親族も知り合いもいない中で生きていくのは、きっと苦労も多かったに違いない。それでも父と母は、二人で共に生きることを選択したのだ。
 ミーアが知らない両親の過去に思いを馳せていると、その様子を傍らで見つめていた侍女が真剣な顔をして口を開いた。
 
「……ミーア様。無礼を承知で、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「えっ……な、なんでしょう?」
「ミーア様は……この城から逃げたいと、そう思われることはないのですか?」
 
 真正面からそう問われ、ミーアは目を見開いた。だが、今まさに逃げる方法を思案していたなどとこの城の侍女に言えるわけがない。
 
「そ……そんなことは思っていません! ここにいれば私も父も食べる物に困らずに生きていけるのですから、逃げ出そうだなんてとても……!」
「み、ミーア様、違うのです! 私はそれを咎めたいわけではなくて……!」
 
 ミーアの言葉を遮り、侍女は今にも泣き出しそうな表情で言い募る。その体はかすかに震えていた。
 その様子にミーアが首を傾げると、彼女はぽつぽつと語り始めた。
 
「……この城で仕える者として、決して思ってはならないと分かってはいるのですが……っ、ミーア様に対するリオン殿下の行いは、あまりにもひどすぎます……!」
 
 予想もしていなかった言葉に、ミーアは驚いて目をみはる。侍女は目に涙を溜めながら言葉を続けた。
 
「星のお導きで、ミーア様が妻としてここに連れてこられて……最初は、なんて幸運なお方だろうと思っていました。リオン殿下は聡明で臣下からの信頼も厚く、基本的には穏やかでお優しい方ですし……それに、王太子妃という世の女性からしてみればこの上なく名誉な地位を授けられて、嬉しくない女性はいませんから」
 
 侍女はそっと目元を押さえ、ミーアを見据える。揺れるその瞳には、唇を噛み締めるミーアの姿が映っていた。
 
「……でも、ミーア様は違いました。城にいらした瞬間から、どこか浮かない様子で……ご実家が恋しいだけかと思ったけれど、違った。ミーア様は、本当はこの縁談を断りたかったのですよね」
「それ、は……」
「だというのに……っ、嫌がるミーア様に、無理やり初夜の儀式までさせて……! 毎晩毎晩、怯えるミーア様を思いやることもせずに甚振るリオン殿下が、許せなくて……っ」
 
 拳を握りしめながら言った彼女に、ミーアの瞳にも涙が滲む。この苦しみを分かってくれる誰かがいたというだけで、ミーアの心は少しだけ救われるような気がした。
 
「あの……ありがとう。あなたがそう思ってくれていると知っただけで、少し楽になった気がします」
「ミーア様……でも、私はただ見ていることしかできなくて……」
「あなたにはあなたの仕事があるのですから、それは当然です。そもそも、リオン殿下の妻になると決めてしまったのは私自身ですから……」
 
 眉を下げながら笑うミーアに対して、彼女は何やら言いたげな表情をしながらも俯いた。かと思えば、ふいに意を決したように顔を上げ、声を潜めて告げる。
 
「実は……明日の朝から夕方まで、リオン殿下が視察のため外出なさるんです。護衛も何人か付き従うでしょうから、城内の警護にも若干穴が開くかもしれません」
 
 無言で目を見開くミーアに、侍女はさらに続けた。
 
「警護が交代する昼前の時間なら、もっと隙ができるはずです。お父上様は第三王宮にいらっしゃいますが、そちらはここよりもずっと警備が手薄ですから、お父上様が抜け出すのは簡単かと」
「えっ……ちょ、ちょっと待ってください! どうしてそんなことを私に……!?」
「これは、ただの独り言だと思ってください。……私には、何もできません。でも、同じ年頃の女として、あなたが苦しむ姿を見るのは胸が張り裂けそうなほどつらいのです」
 
 真剣な顔つきでそう言う彼女に、ミーアは言葉を失う。
 誰も信用できないと思っていたこの場所で、ミーアの置かれた境遇を憂いて、手を差し伸べようとしてくれる人がいる――そのことが、ミーアをもう一度奮い立たせた。
 
「……ありがとう。あとは、私自身で考えます」
「はい……でも、どうか無理はなさらないでください。あの方は……リオン殿下は、おそろしい方です。この国は太陽に愛された国だなんて言うけれど、その光を浴びているのはごく一部の身分の高い人たちだけだわ」
 
 侍女は苦々しげにそう言うと、そっとミーアの手を取る。そして、「どうか負けないで」と力強く彼女を励ました。
 ありがとう、と目に涙を溜めながらもう一度言ったミーアに、侍女もまた涙を滲ませて大きく頷いた。
 彼女から有益な情報を得たとはいえ、逃げ切れるかどうかは分からない。でも、諦めたら一生リオンの思うがままになってしまう。
 愛してもいない男の世継ぎを作るためだけの存在として生きていくくらいなら、危険を冒してでもこの城から抜け出したい。父とともに露頭を彷徨うことになろうとも、この鳥籠のような場所で弄ばれながら飼われているよりはずっとましだ。

 ――豪勢な食べ物も綺麗な衣装もいらない。ただ、穏やかな生活と自由を取り戻したい。

 ミーアはそう決意して、侍女の手を力いっぱい握り返した。
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