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第三章『王都』
91話 宰相の相談事
しおりを挟む準々決勝第三試合を横目に持ち掛けられた相談は、戒律の解釈を歪めて大儲けする聖職者や貴族をどうしたら良いかというものだった。
何でも、彼らは『聖水』なる水で大儲けしているらしい。現物を見せてもらったら、かなり高濃度に蒸留されたアルコールだった。僕が作った次亜塩素酸ナトリウムも、聖水と同じように消毒できるので、『擬似聖水』なんて呼ばれ方をしているぐらいだ。
結構キツいアルコール臭がする。これなら確かに消毒できるので、インチキとまでは言えないだろう。
しかし、公国派と呼ばれる貴族と結びついた司祭たちは、これで病や罪が洗い流せるとして、高値の寄進を求めているらしい。さすがにそこまで行くと、詐欺っぽい気もする。
(なんか世界史で似たような話がなかったっけ?)
心の中で自称天使さんに尋ねると、世界史の教科書が浮かび上がってきた。開かれたページには『宗教改革』と書かれている。
『宗教改革は、ルターが免罪符を批判したことによって起きた、宗教上の改革なのである。活版印刷の普及によって、口語訳された聖書が大量に出回ったのが要因とも言われているのであるな』
なるほど。活版印刷の技術は、アスキーさんの手によって再現され、こないだの『ヒッサン訓蒙』の出版にも使われていた。一文字ごとに組み替える活字部分を再現するのに苦労していたようだが、賢人ギルドでテストを重ねて、実用化は近いらしい。
だが、マイナ先生から教会には注意しろと言われている。その信徒もだ。宰相閣下だからといって、無条件で信用するわけにはいかない。ちょっと確認しておこう。
「ところで、宰相閣下はゼロについてどう思います?」
教会では、ゼロは認められていないらしい。もちろん負の数も。
それは、賢人ギルドと教会を隔てる壁でもある。
「ふむ。神学上、存在しない数字は数字ではないと言われているな。だが、聖典にはゼロそのものが存在しないとは書かれていない。神は虚無を嫌う、とあるだけだ。
例えば歩数を数える場合、一歩めは確かに存在するが、その前のゼロ歩めが虚無なわけではない。神はゼロを否定していない」
宰相の答えで、マイナ先生がヒュっと声を立てた。見ると、目が潤んでいる。
「そういうこと言うと、異端審問官が動きませんか?」
前の婚約者を異端審問で失ったマイナ先生の横で、こんな話をするのは気が引けるが、これは必要なことだ。
「私は宰相で、この国の信徒の中でも大きな力を持っている。ゼロを異端とするのは、テレース派神学者たちの解釈だが、私はテレース神学を支持しない。私が信じるのはただ聖典のみ」
なるほど解釈か。つまり、聖典を信じても、ゼロを異端とは考えていないということか。
「マイナ先生?」
声をかけると、マイナ先生が涙ぐんでコクコクとうなづいた。これは、信用しても良いということかな?
相手は別派閥だが、この国のナンバー2である。恩を売っておいて損はない。
「わかりました。ではまず、先ほど宰相閣下が見せてくれた『聖水』ですが、人工的に同じものを作れます。器具から作る必要がありますが、出来上がれば方法を共有させていただきましょう。その後はそちらで自力で生産してください。
基本的に塩の場合と同様の戦略ですが、供給が増えて競争が起これば、『神の見えざる手』によって、値段は下がります。相手は『聖水』を現値で売れなくなるでしょう」
僕が真面目に答えると、宰相は驚いたようだった。
「聖水は神の御業と言われているが、人工的に作れるのか?」
「はい。原料としてお酒が必要になりますが、蒸留という仕組みで可能です」
エタノールの沸点は水よりも低く、だいたい80度ぐらいで気化する。その気体を冷やせば、濃度の高いアルコールが取れる。
暖めて冷やすだけなので、難易度はさほど高くないだろう
「まて。それでは神秘が失われるのでは? 聖水は聖典に存在する」
「世の理はすべて神秘ではないでしょうか? 神術だって人間が使えるのですから、聖水が作れてもおかしくありませんよ。実際、聖水はここにありますし」
なんせ、別の世界から転生してきた僕みたいな存在や、自称天使さんのような存在がいる世界だ。神が本当にいても驚かないし、神の術を人間が使えても驚かない。
「むぅ。確かに。にわかには信じられないが、まずは実際にできたモノを見せてもらおう」
準々決勝の3試合目は続いていて、誰とも知らない二人が剣を交えている。連続する試合に疲れているのか、誘いなのか、二人とも動きが鈍い。
「そうですね。蒸留に必要な器具は親方に頼んでおきます。実際に再現できてからお話しましょうか。
次に戒律の解釈を歪めているという話ですが、聖典を現代語に訳して読みやすくし、たくさん印刷してみてはいかがでしょうか? 宰相閣下のおっしゃるとおりなら、信徒が自ら読めば歪みに気づくでしょう」
この世界は識字率が低すぎる。コンストラクタ村で言うと、領主一家を含めても、300人中30人いたら良い方だろう。
こちらの世界の人々は信心深いので、古語ではない聖典があれば、識字率は上がるかもしれない。
「待て。"印刷"とは何だ?」
「同じ本を大量に作る技術です。シーゲンの街の賢人ギルドが、実用化に成功しました。マイナ先生の『ヒッサン訓蒙』も、その技術で作られているんですよ。ねぇ、マイナ先生」
声をかけると、マイナ先生は少しだけ目を泳がせた後、うなずいた。
「そうです。ですから、聖典も同じように印刷できるでしょう。決めるのは父ですが、もしも賢人ギルドを異端審問官から守り、発展に協力いただけるということならあれば、活版印刷の技術を提供することは可能かもしれません」
「なるほど。聖典の復興運動か。面白い。本当に面白いな。少し用事ができたので、私もこれで失礼する」
クセなのだろう。宰相は少しカールしたチョビ髭を軽くしごきながら、立ち上がる。
「ああそうだ。さっき言っていた貴族にお金を貸す話な。契約は王都の大神殿で結ぶと良いぞ。それで万が一にも異端とはならなくなる」
「あ、ありがとうございます」
僕らは、全員で頭を下げ、宰相さんを見送った。
いや、本当に、何で僕の話をちゃんと聞くの?
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