宵月桜舞

雪原歌乃

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第一章 偶然と必然

第六節

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「触んないで!」
 南條を突き放そうとするも、美咲の力ごときで南條に敵うはずもない。
 南條はなおも暴れて放れようとしている美咲を、片腕で抱き止めた。
「ちゃんと話を聴け」
「これ以上何を聴けって言うのっ? 結局あんたは、私を殺すために私の前に現れた、そうなんでしょっ?」
「少し落ち着け。勝手に自分で結論を出すな」
「落ち着けるわけないじゃない! そもそもあんたが……!」
 言いかけたとたん、柔らかなものに口を塞がれた。一瞬、何かと思ったが、それは、南條の唇だった。
 突然のことに、美咲は瞠目したままで口付けを受ける。ほんの数秒だったはずなのに、何故か長く感じられた。
「話を聴けと言ったはずだ」
 唇が放れてから、南條は掠れた声で言葉を紡ぐ。
 美咲は肯定も否定も出来ず、口を小さく開けたままの状態で南條を見返すのみだった。
「確かに俺は、お前の中の桜姫が覚醒したら消すと言った。しかし、お前を消すのは本意じゃない」
 南條は美咲の背中に回していた左手を放し、今度はその指先で、美咲の唇に触れる。
「俺は、お前を守ってやる。これは貴雄さんと理美さんの意思でもある。
 鬼王だけじゃない。お前に仇なす者がいようものなら、どんな手を使ってでもお前を全力で守り抜く」
「――私を、守る……?」
「そうだ」
 未だ、ぼんやりとしたままで呟いた美咲に、南條はゆっくりと首を縦に振った。
「お前は、桜姫になり代わって鬼王の手に落ちるのではない。〈藍田美咲〉という一人の人間として生き続けろ。何があっても、鬼王に落ちてはならない。――俺はもう……、同じ過ちは二度と繰り返したくはないから……」
 南條の表情が、わずかに曇った。〈同じ過ち〉とはいったい何なのか、美咲は気になったが、あまりにも南條が思いつめているように見えて、とても訊くことが出来なかった。
「そろそろ戻るか」
 南條は、さり気なく美咲の身体を放した。右手から出現したはずの刀も、いつの間にか消え失せている。
「南條さん」
 踵を返し、先に背を向けた南條に、美咲は訊ねた。
「どうして、私に……、その……、キスを……?」
 南條が肩越しに振り返る。そして、美咲に優しい眼差しを向けると、微かな笑みを浮かべた。
「嫌いじゃないから――では、理由にならないか?」
 あまりにも抽象的過ぎる。美咲は首を傾げ、なおも追求しようとしたが、やめた。きっと、再び問い質したとしても、同じ答えしか返ってこない。そんな気がした。
 早春の冷たい夜風が吹き抜けた。美咲は、身を縮ませて自らの身体を抱き締める。
 その時、背中を見せていた南條がこちらを振り返った。そして、ジャケットから袖を抜くと、そっと美咲の身体にかけてきた。
「南條さん、風邪引きますよ?」
 ジャケットを脱いだ南條の上半身は、白いワイシャツにネクタイを締めているだけの格好になっている。明らかに、美咲よりも薄着に見えたが、南條は、「平気だ」と全く意に介していない。
「俺はこれでも、多少の寒さには慣れてるからな。それよりもお前は女だ。無理して体を冷やしたりしたら、子供の産めない身体になってしまうぞ?」
「――それってセクハラじゃ……」
 美咲が静かに突っ込むと、南條は、「そうか」とばつが悪そうに苦笑する。
(このヒトまさか天然入ってる……?)
 行動一つ一つが計算し尽くされているようにも思えるが、どこか抜けているような気がしなくもない。完全無欠な人間などいないだろうが、それでも、南條に欠点らしいものがあるのには驚いた。
(変なヒト……)
 そう思いながら、美咲は、半ば呆れて苦笑を浮かべる。
 男物の、しかも高身長の南條のジャケットは、考えるまでもなく大きかった。袖を通すと手が隠れ、まるで、少し薄手のハーフコートでも羽織っているような気分だ。
 さり気なく袖を口元に持っていけば、仄かなタバコの匂いが鼻をくすぐる。だが、南條は、アルコールはかなりの量を呷っていたものの、タバコは一度も口にしていなかったし、吸うような素振りも全く見せなかった。もしかしたら、職場かどこかで誰かが吸った時の煙が、そのままジャケットに移ってしまったのだろう。あえて美咲達の前で吸わなかった、ということも考えられるが。
(このヒトはほんとに大人なんだ……)
 大人特有の匂いを感じながら、分かりきっていたことを改めて実感する。同時に、自分と南條との間に埋められない〈年齢差〉という距離を覚え、胸がチクリと痛んだ。ただ、この痛みの正体は、美咲にはまだ分からない。
「あ、南條さん」
 不意に感じた痛みを払拭するように、美咲は南條に向けて笑顔を繕った。
「どうした?」
「昼間のお礼、言ってなかったなって思って。おにぎりとチョコ、ありがとうございました」
「ああ、あれか」
 美咲に礼を言われるとは、さすがに思ってもみなかったのだろう。南條は少し照れ臭そうに、右手の人差指で自分の頬をかいている。
「別に礼を言われるほどのたいしたもんじゃない。あの時は仕事中だったらあんなものしかやれなかったが、時間があったらちゃんとした所で食わせてやる」
「え? 別にあれでも私には充分でしたけど……」
「俺の気がすまない」
 ここまで言われると、美咲も返す言葉が見付からない。天然に加え、頑固な面もあるのかもしれない。
「じゃあ、いつか休みの日にでも……」
 建前のつもりで言ったのだが、南條はどうやら、それを真に受けてしまったらしい。
「じゃあ決まりだな。約束通り、いいもんを食わせてやるから」
 強引に決められてしまった。しかし、戸惑いよりも喜びの方が勝っているのは何故だろう。
「楽しみにしてます」
 ここは変に遠慮しない方がいいだろうと思い、美咲は素直な気持ちを口にした。
 南條は、それが嬉しかったらしい。口元に笑みを湛えると、そのまま、美咲の口角に軽く口付けた。
 二度目のキスも突然で、美咲はまた、目を見開いたままでそれを受けてしまった。
「約束の印だ」
 南條は満足げに言うと、動揺を隠せずにいる美咲の一歩前を歩き出す。美咲に合わせてくれているのか、ゆったりと歩いているはずなのに、距離が広げられることは全くなかった。

【第一章 - End】
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