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第十五部 敦盛の舞

82 迫り来るもの

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 織田信長は、まっすぐに善照寺砦に入ったわけではなく、まずは丹下砦に入ってから、それから善照寺砦に入ったと言われる。
 その善照寺砦には、守将として佐久間信盛が配置されていた。

「来て早々何でござるが、かんばしゅうない知らせでござる」

 信盛は沈痛な面持ちで、丸根と鷲津の両砦の陥落を告げた。
 特に丸根砦の佐久間大学盛重は同じ佐久間一族の勇将であるので、信盛としては気を落とさざるを得なかった。

「…………」

 信長もまた沈痛な面持ちである。
 海上から服部党、北条水軍が迫っている以上、早く今川軍に攻めかかりたい。
 されど、その攻めかかるところは、でないとならない。
 起伏に富む、に。
 なれば、そのためには。

「丸根と鷲津のは必要なことじゃった……。時……時が必要なのだ。今一番必要なを、丸根と鷲津は、稼いでくれた……」

「…………」

 信長としては、正当な評価を下して、もって報いているつもりである。
 だが信盛としては、それは分かるにしても、今は……今はその力戦奮闘を讃えるべきではないかと思う。
 ……このあたりの齟齬そごが、のちのち信長と信盛の関係にひびを入れていくのだが、それはまた別の話である。

「……して、敵は?」

「大高城を目指しておる様子ですが……」

 信盛は言葉を濁した。
 物見を放っているが、ある者は今川軍は大高城を目指してまっすぐ西に進んでいるらしいと言うが、またある者はそうではなく南回りで向かっていると言う。

「……で、あるか」

 予想通り、まずは「回復」の目的である、大高城にと進んでいるのか。
 あるいは、今川義元自身も決めかねているのか、大高城へは入らず、鳴海城を目指し、この善照寺砦をはじめとして、丹下、中嶋の砦をくだし、鳴海城周辺を「回復」した方が良いと考えているのか。

「いずれにせよ、輿こしの――今川義元の近くにて彼奴きゃつを見張っている簗田政綱やなだまさつなや木綿藤吉らから、話を聞かねば」

 信長はその場に座り込み、「寝る」と言って寝てしまった。
 あきれる信盛らであったが、帰蝶だけが、信長がそうやってに邁進していることを、知っていた。



 沓掛城。
 出陣する今川軍を見送るふりをして、簗田政綱と木綿藤吉は、城を出た。
 今川軍の進む方向に注視しつつ、元いた忍び小屋へと戻る。

「オウ、今、けえったぞ」

 間延びした声で木綿が言うと、無言で小屋の戸が開いた。
 政綱と木綿は焦りつつ、だがゆっくりと小屋に入った。

「長秀どの、戻りまいた」

 前田利家が、小屋に入って気が抜けてしまった木綿の肩をかつぎつつ、政綱に報告した。
 言われた長秀――毛利長秀が、政綱の前で一礼する。

「手前、清州にて信長さまに会いました。それで……」

 すでにこの場にいる毛利新介と利家は知っていることだが、長秀は丁寧に説明した。
 輿乗よじょうの敵・今川義元を討つことに決めたこと。
 その今川の双頭の蛇の胴体部分、服部党と北条水軍が迫りつつあること。

「猶予はありません。信長さまにおかれましては、善照寺砦にて、われらの合流を待つ、とのことです」

 何故待つのか、ということは言わない。
 それは――今川義元を捕捉し、その居場所に狙いを定めるためである。
 つまり、政綱や木綿らに、義元の「本陣」がどこになるか調べ推理せよと暗に言っているのだ。

「…………」

 政綱は少し考えた。
 このまま全員で尾行しても
 それよりかは、現時点で得た情報と推測を伝えるため、半数は善照寺砦に向かってもらう。
 そして。

にて、残り半数は合流する」

 そしてまず善照寺砦に向かう半数とは、毛利長秀と毛利新介、そして前田利家である。

「長秀どのには来て早々ご苦労だが、ここから先は野伏のぶせりの如く忍んで今川を追う。根っからの武者のそなたらは、

 政綱としては結構な諧謔かいぎゃくのつもりだったらしく、笑顔だった。
 木綿は渋い顔をしていたが、それでも不満を言うことは無かった。
 あとの面々は、この場の采配は政綱であることは、かねてから信長に申し付けられており、また、何よりも一刻の猶予もないことは百も承知であるので、善照寺砦へと向かうことにした。
 だが新介は疑問を呈した。

「……で、中嶋砦というのは」

「ああ、それか」

 政綱は懐中から地図を取り出した。
 地図上、中嶋砦を指し示す。

「今川が大高城に入るにせよ、鳴海城を目指すにせよ、この中嶋砦が一番近い。信長さまなら、きっと中嶋砦そこに向かわれるはず」

 信長に長年仕えて来た政綱は、ある程度信長の思考の癖をたどることができた。

「ではの。お互い、次は会えぬかもしれぬ」

「……ああ」

 政綱は信長の一の忍びであり、新介は信長の一の武者である。
 言葉少なでも、互いに通ずるものがあった。



 毛利新介、毛利長秀、前田利家らが馬を飛ばして善照寺砦へと向かい、しばらく経ってから、簗田政綱と木綿藤吉は行動を開始した。
 二手に別れたのは、何もこの段階での情報伝達のためばかりではない。
 新介らは、自分たちがおとりになることも承知だった。

「……この忍び小屋には、もう戻らぬ」

 今川軍・津々木蔵人の手の者か、何人かこの忍び小屋の様子をうかがっている者がいる。

「新介らを追った奴らもいるが……忍び小屋こちらを張っている者もいる。いいか、山仕事に出るをする。木綿、お前が先に出ろ」

「政綱どのは」

 木綿が野良姿になりつつ聞くと、政綱は無表情で答えた。

「……奴らを始末する」



 中嶋砦。
 織田信長、出陣の報にこの砦は湧いていた。
 中でも、客将である明智十兵衛と共に砦に来て、早速に最前線に陣した千秋季忠せんしゅうすえただは湧いた。

「あんまり興奮するんやないで」

 だが十兵衛は季忠の様子を浮足立っていると判じて、水を差した。
 十兵衛、季忠と共に来た、佐々政次もまた警戒するように言った。

「……すでに今川の先手さきてが見え隠れしているとの話もある。季忠どの、抜け駆けすまいぞ」

「……う、うむ」

 小豆坂七本槍のひとりである政次にそう言われると、季忠としても、首をすくめるしかない。
 だが季忠には、かつて熱田神宮で、信長の弟・織田信行と、かつての国主・斯波義銀しばよしかねを「会わせてしまった」という引け目がある。
 そして「信長包囲網」をめぐる陰謀により、織田信行は「死んだ」。
 季忠は「信長包囲網」について何も知らなかったことだし、(信長は誰にも言わなかったが)信行は実は生きているので、おとがめなしということで、これまで過ごして来た。

「……しかし、あの時、私がしなければ」

 その悔恨から、今回の今川とのに身を投じた季忠である。
 かつては海賊に計略を仕掛けて追い払った季忠であるが、その悔恨により、冷静さを欠いていた。
 ……このことが、季忠の命運を大きく左右することになる。



「出る」

 善照寺砦にて、座ったまま目を閉じて寝入っていた信長であるが、突如、目を開いて立ち上がった。
 ぎりぎりまで、簗田政綱らの合流を待っていたが、これ以上は無理だ。
 それに、政綱らの方でも現場の判断で動いていることもあろうし、これから信長の向かう先も、予想がついているはず。

「で、出るとは」

 砦の守将である佐久間信盛は突然の主君の言動に、面食らった。

「決まっておる。中嶋砦じゃ」

 行くぞ、と信長は甲冑を音立たせながら歩き出した。
 信盛は唖然としていたが、ではそれがしはと聞くと、信長から「ここにいろ」と返って来た。
 信盛が渋い表情をしているので、帰蝶が目配せした。
 信長は振り向いて言った。

「鳴海城の岡部元信は堅い。退き佐久間のお前がいないと、困る」

「……承知いたしました」

 鳴海城を囲む三砦のうち、鳴海城への対応は善照寺の佐久間信盛が指揮を執ることになっている。
 今、信長が今川義元本軍へ攻めかかるとして、その後背こうはいを岡部元信にかれるわけにはいかない。
 ……なぜなら、

「申し上げます!」

 これは信盛の弟にして、善照寺砦の副将・佐久間信辰さくまのぶときの声である。
 信辰の緊張した顔から、火急の、しかも良くない知らせであることがうかがわれる。

「……先ほど、熱田神宮の神人じにんの方が早馬にて参られ、熱田湊の沖に大きな船の群れを見た、とのよし!」

「…………」

 来るべきものがついに来たか、と信長は無表情でうなずいた。
 隣にいる帰蝶が、そっと肩に手を添える。

「……して、その神人はどうした。できれば話を聞きたい」

「そ、それが」

 信辰が周章しゅうしょうする。
 実はその神人は、信辰に伝えるだけ伝えると、「主に伝えなくては」とすぐに発った。

「その、主とは……大宮司である、千秋季忠さまである、と」

「何だと」

 季忠は信行のことを気にしているきらいがある。
 だからこそ、敢えて最前線に置き、思う存分働きをしてもらえるよう、気を遣った。
 それが、熱田沖に大船団などという報を受けたら、どうなるか。

「いかんな。下手に戦端を開かれたら」

 実は明智十兵衛、佐々政次、そして千秋季忠にはを仕掛けるよう言ってある。
 それによって、織田軍の戦略は、を数限りなく仕掛ける、というものであると誤認させるためだ。
 そのために、清州城にて、敢えて斯波義銀狙いであるという情報も洩らした。
 十兵衛ならその辺の詐術的なところはけているであろうし、政次は戦場勘の働く男である。
 ……そして季忠も、本来なら計略は得意とするところであるが、今、信行のことで気を悩まし、そして他ならぬ熱田に水軍が、という知らせを知ってしまったら。

「急ぎましょう」

 帰蝶の言葉に、信長はうなずいた。
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