輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~

四谷軒

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第十五部 敦盛の舞

81 永禄三年五月十九日――それぞれの出陣

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 織田信長が、小姓らに甲冑をつけさせていると、帰蝶が湯漬けを持って戻って来た。
 帰蝶もその身に緋色の甲冑をまとっていた。

「湯漬けをお持ちしました」

「うむ」

 信長は立ったまま、その湯漬けを食べた。
 体が温まる。
 力がみなぎる。
 心も賦活ふかつされたように感じ、腹が減ってははできぬとは、よく言ったものだと思った。

「……そういえば、爺がそう言っていたな」

 平手政秀のはにかんだ顔が、ふと見えた気がした。

「……出陣」

「……はい」

 織田信長、出陣。
 伝えるところによると、それはわずかな小姓衆のみを引き連れ、しばらくは誰にも気取られぬことは無かったという。



 最初に行動を起こしたのは、森可成もりよしなりである。

「信長さまが、敦盛?」

 清洲城下、自邸にいた森可成だったが、城内にいた吉野きつのがそれを知らせに来たと聞いて、跳ね起きた。

「出る」

 可成は妻女にそれのみを告げると、手早く鎧を身につけ、十文字槍を手に取り、愛馬にまたがった。

「吉野どの! 他の連中には?」

「わたしの家の馬借たちが」

「手数をかける! では、御免!」

 可成が馬上、吉野に一礼すると、手綱を振るって、馬を馳せた。

「ご武運を」

 可成の妻女と吉野は、共に手を合わせた。
 信長の「敦盛」は出陣を意味し、その際には吉野が家臣たちにそれを伝える手はずになっていた。
 ……これにより、今川の間者たちは、その出陣を報じることを一手、遅らせることになる。



 沓掛城。
 早朝。
 夜来の曇天は解消されず、それどころかますます黒雲が増すばかりで、津々木蔵人は閉口した。

「せっかくの門出が、何てことだ」

 新生ともいうべき今の今川義元が、ついに真の意味での覇道を歩むというこの日。
 天もまた祝して、快晴をもって応ずべきだろう、と蔵人は思った。
 だが現実にはこの、今にも落ちてきそうな黒雲の空。
 しかも城中や城内の庭には、昨夜からの酒宴により寝入った者たち――雑兵や農民たち――が、したとおぼしき、嘔吐や糞便がところどころにあり、お世辞にも良い雰囲気とは言えなかった。

「よいではないか」

 当の今川義元は、一向にかまわぬという表情で、青竹の杖をつきながら、足を引きずりながらも、早朝の沓掛城の散策を楽しんでいた。
 あれだけ呑んだというのに、気持ちがいい。
 やはり、精神が上がると、肉体も上がるというのか。
 そう思う義元には、城中がどれだけ汚れていても、特に気にならなかった。

「それにな、蔵人……こういう嘔吐や糞便こそ、生きておるあかしではないか」

 義元の弟にして蔵人の父、今川氏豊は毒を盛られて意識不明となり、今に至っている。
 義元は暇を見つけては氏豊の世話をしていたが、それには当然、下の世話も含まれていた。

「それは決して綺麗ではない。だが、生きておるのだな、と感じる」

 そう思うと、まあそういうものだと捉えられるようになり、そういうのを見ると、頑張って生きているのだな、と感じるようになった。

「……なればこそ、こうして立って歩いておるわれらこそ、もっと頑張って生きてみよう、と思えるではないか」

 義元は蔵人を思いやり、励ましているつもりなのだろう。
 だが、それは他ならぬ義元自身への言葉ではないか、と蔵人は思った。

「おっと」

 先を行く義元から、そんな台詞が洩れた。
 どうやら、ようだ。

「……まあ、臭くて気持ち悪いことには変わりはないがな」

 義元は、の悪そうな笑顔を浮かべた。



 信長は速い。
 動きが速い。
 思考が速い。
 判断が速い。
 ……今、こうして駆けている間にも、彼の頭にはいろいろな策が構築され検証され、さらなる策が練り上げられていることだろう。

「…………」

 そのすぐうしろを駆ける帰蝶が思うのは、やはり海路、迫ってくる水軍である。
 双頭の蛇のひとつの「頭」、美濃は無力化した。
 もうひとつの「頭」――つまり本体・今川義元とは、これから戦う。
 では。

「海から迫る、服部党、北条水軍はどうすれば……」

 つい、口から洩れてしまった。
 それだけ、双頭の蛇の胴体部分――水軍は、尾張にとって、織田家にとって、脅威だった。
 伊勢と尾張を結ぶ、海上交易の要衝・津島。
 これを押さえることにより、織田家は発展した。
 それをつぶされたら。
 長年、尾張と伊勢の国境を根城にした服部党と。
 東の海の覇者ともいえる、北条水軍に。

「ひとたまりもないな」

 先を行く信長の呟きが聞こえた。
 どうやら、先ほどの言葉が、聞こえていたらしい。

「だが――今川義元の首を取れば」

 そう。
 それなのだ。
 いかに服部党と北条水軍とはいえ、全軍のである今川義元を討たれれば。

「勝機はある」

 北条水軍は、北条氏康と今川義元、そして武田信玄との三国同盟による援軍である。その今川義元が倒れれば、立ち往生する。同盟相手とはいえ、しょせんは戦国大名同士、死んだ相手にまで義理を通して戦うだろうか。

「退く。陸路の負けを知りながら、その負けを取り返すために、海路のみで戦うなど、愚の骨頂」

 陸路の今川軍には、義元の嫡子にして現今川家当主・今川氏真は参陣していないとの情報が入っている。
 つまり、首魁の義元さえ消せば、後を継ぐ氏真はおらず、今川軍は集団として機能しなくなる。

「ですがもし、海路に今川氏真が……」

「それはありうることだ」

 それこそが、真の双頭の蛇なのやもしれぬな、と信長は思った。
 だが、ことここまで至っては、もはや戦うのみ。勝つのみ。

「海路の方がで退いてくれるなどという、僥倖ぎょうこうがあるわけもない。今はただ、人事を尽くすのみ」

「……はい」

 信長はその焦燥感を飲み込んで、自らに言い聞かせるように言い放ち、再び自身の思考に没頭した。
 帰蝶はそんな信長の背中を見て思うのだ。
 父・斎藤道三、義父・織田信秀、そして平手政秀に、どうか信長さまをお守りください、と。



 熱田。
 現代で言う、午前四時頃に清洲城を出た信長たちは、午前八時頃に、この随一の歴史を誇る神社に到達した。
 いわゆる草薙剣くさなぎのつるぎをご神体とするこの神社は、尾張では知らぬ者がなく、集合地点としては最適だった。
 そして、この熱田神宮の大宮司は代々千秋せんしゅう家であり、現当主の千秋季忠せんしゅうすえただは、織田家に仕えている。

「……ここで、戦勝を祈願する」

 勝利を祈りつつ、軍勢の集まりを待つ。
 しばらく社で待っていると、やがて森可成や河尻秀隆らの将が、そして兵たちも、続々と熱田へとやって来るのが見えた。

「数は」

 信長が問うと、帰蝶が二千から三千くらいと答えた。

「で、あるか」

 今川軍は四万五千と称しているが、簗田政綱やなだまさつならの調べによると、現在、今川義元が直接率いている兵は二万五千と見積もられている。
 兵力差としては、一対八だ。

「正直、邪道だと思う」

 戦理に従えば、むろん、戦うべきではない。
 だが、戦理に従っている場合ではない。
 むしろ、従って滅ぶのなら、従わずに、死中に活を求める。勝機を見出す。
 そういう、心境だった。

「敵水軍の状況は」

 当時の熱田は港町で(現代では埋め立てられている)、かつて、信長が村木砦を攻める際も、ここから船出している。
 帰蝶は、その船乗りたちから、知多半島の向こうにいるはずの敵水軍の情報を聞き出していた。

「動き出した、とのことです。これから雨が降るらしい、というにもかかわらず……」

「雨」

 信長はそこに着目した。
 敵水軍の動きも気になるが、まずはそこに着目した。
 前述のとおり、熱田は港町だ。
 天候を読むことは、船乗りにとって必須。
 帰蝶が言うには、その熱田の船乗りたちが、これから雨になると言う。

「雨、か」

 たしかに空が暗い。
 雲が走っている。
 これは、これから雨になるな。
 として、少年時代、尾張の山野を駆けめぐった信長にも、そう読めた。

「雨、となると……やはり大軍では動けぬ。動かぬ。では、なるか……」

 信長の脳裏に、二、三の候補地が浮かぶ。
 どこか。
 田楽狭間か。
 桶狭間山か。
 それとも……。

「…………」

 これ以上は、まとまらぬ。
 やはり、簗田政綱やなだまさつなや木綿藤吉らに会わねば。

「帰蝶」

「はい」

「出よう」

「向かう先は」

「善照寺の砦」

 今川方・鳴海城を囲む三つの砦のひとつ、善照寺砦。
 最前線であるそこで、政綱らと合流する手はずだった。



「丸根砦の主、佐久間大学盛重、砦を討って出ましたが、そこを討ち取ってござる」

 松平元康が寄越した使い、服部正成がそう言上して来た。
 すると間もなく、朝比奈泰朝からも鷲津砦を陥落したと報じて来た。
 この時、鷲津砦の主・織田秀敏は討ち死にしたと言われる。

「……ふむ」

 沓掛城。
 午前十時頃。
 すでに鎧直垂よろいひたたれ立烏帽子たてえぼしを身につけていた今川義元は、立ち上がった。

「では、出陣と行こうかの」

 今川義元、出陣。
 案内役は津々木蔵人が務め、義元の周りは股肱の臣たる四宮左近、松井宗信が固める。

「西へ向かおうぞ」

 義元が輿に乗った。
 まずは大高城に入る。
 この、名目上は大高城を救う、が目的とされている。
 なればこそ、丸根と鷲津の両砦を落とした以上、大高城に入る。
 あるいは、鳴海城に入る。
 その場合は、今川方の鳴海城を囲う、織田方の、丹下、善照寺、中嶋の三砦をくだす。
 天候はこれより雨とささやかれているが、かまわない。
 覇者は時を選ばぬ。
 は時を置かぬ。

「いざ――いざ、出陣!」

 義元が号令する。
 今川義元、最後の出陣である。
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