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第三章 潜伏する狼
第十一節 少年時代
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治郎が身を隠したのは、繁華街や住宅街からは少し離れた場所にある、だが池田享憲の屋敷のように人々の生活圏から離れている訳ではない田園地帯にある廃工場であった。
治郎が物心付く頃には既に廃棄されており、しかし撤去する金も勿体ないという事で、そのままにされている。
黄色に変色した窓ガラスの内側から覗いてみれば、吐き気がするくらいの蒼い空に、白い雲が心地良さそうに浮かんでいる。畑には野菜が実り、田んぼには水が張られている。あぜ道には草むしりをやる農家の老人が、ただでさえ曲がっている腰を深く折り曲げて地面に這いつくばりそうになっている様子が見えた。
治郎は空っぽの工場の壁にもたれ掛かって、下腹部の鈍痛を堪えていた。純の肘打ちによって潰された片方の精巣を、自分の手で引き摺り出したのであった。その後、いずみに病院を勧められたが、治郎は行かなかった。
闇医者と言っても、人は人だ。人であれば誰しも、自分の事を莫迦にする。
治郎にとって他人とは、そうした存在であった。
玲子でさえ、自分を莫迦にしていると思う。
いずみだって、そうだ。
純や雅人も、そうに決まっている。
暫く客分として色々やって来た池田組の連中は、そもそもの始まりがそこにある。
この世界に存在する全てのものに、自分は莫迦にされ、見下され、蔑ろにされ、侮られている。
そういう人間の世話になる事は、治郎にとってはこの上のない屈辱であった。
いずみにそれを許したのは、その莫迦にする連中の中では比較的、自分に協力してくれるからだ。
治郎は初めて“わかば”を訪ねた時の事を思い出した。
いや、そのきっかけとなった出来事から、思い出した。
あの日の翌日――治郎が空手の大会で優勝し、長田に酒を含まされ、池田組の三人に絡まれた上に敗北し、明石雅人に救われた夜が明けて、次の月曜日の事だ。
治郎は普通に、学校へ行った。
玲子が、自分の住んでいるアパートまでやって来て、不安そうな顔で登校を促した。
治郎は氷袋でアイシングしただけのぼろぼろの顔、散々踏み付けられて汚れた学ランのまま、水門学院高等部棟へ向かった。
教室に入ると、おおよそ全てのクラスメイトが、治郎の顔を見てぎょっとし、眼を逸らした。
治郎は滅多に人と話さない。それに、話し掛けても言葉に詰まったり、内容を理解していなかったりして、話し掛けた方が苛立つ事になる。それが分かっているから、治郎と話す人間は少なくなり、治郎自身の会話力も失われてゆく。
そうした生活もあって、治郎の一挙手一投足は、クラスメイトにとって不気味に映る。ただでさえそうなのに、顔中を蒼紫色に腫れ上がらせているのだから、映画のゾンビと対面した気分になる。
前日に空手の試合があった事は一部の者が知っており、その中の更に一部は治郎が個人戦で優勝した事も知っているだろう。しかしそれでも、治郎に声を掛ける者はいなかった。教師でさえ、その事に触れようとはしなかった。
それは良い。それは、分かっていた事だからだ。
その日の放課後も、部活はあった。
授業が終わると、日直の仕事がある玲子を置いて、治郎は武道場へ行き、いつものように空手衣に着替えた。
道場に入って来た人間から、好き好きにウォーミングアップやストレッチをやり、基本稽古や移動稽古などを行ない、ミット打ちやスパーリングに入る。
人数がそこそこ揃ってからの乱捕では、タイマーで時間を計って行なった。一分間、軽く当て合う程度に戦い、一五秒のインターバルを取って次の相手を捕まえる。
緑帯以上はサポーターの類は使わないが、それから下はプロテクターを装着する。
空手の級位は帯の色で表されるようになっており、一〇級と九級が白、八級と七級が黄色、六級と五級が蒼、四級と三級が緑、二級と一級が茶色、そして初段以降が黒。
蒼帯はオープンフィンガーグローブ、黄帯はこれに加えて脛サポーター、白帯は更にプロテクターを装着して、やる。
その日は治郎を含めて二五人が道場へ来ており、乱捕をやるにしても一人が余る。普通、余ったその一人は乱捕の間はシャドーボクシングなどをやり、インターバルの間に誰かと入れ替わって乱捕を始めるものだが、治郎はその中に入らなかった。
黙々と、道場の隅でサンドバッグを叩いていた。
治郎が物心付く頃には既に廃棄されており、しかし撤去する金も勿体ないという事で、そのままにされている。
黄色に変色した窓ガラスの内側から覗いてみれば、吐き気がするくらいの蒼い空に、白い雲が心地良さそうに浮かんでいる。畑には野菜が実り、田んぼには水が張られている。あぜ道には草むしりをやる農家の老人が、ただでさえ曲がっている腰を深く折り曲げて地面に這いつくばりそうになっている様子が見えた。
治郎は空っぽの工場の壁にもたれ掛かって、下腹部の鈍痛を堪えていた。純の肘打ちによって潰された片方の精巣を、自分の手で引き摺り出したのであった。その後、いずみに病院を勧められたが、治郎は行かなかった。
闇医者と言っても、人は人だ。人であれば誰しも、自分の事を莫迦にする。
治郎にとって他人とは、そうした存在であった。
玲子でさえ、自分を莫迦にしていると思う。
いずみだって、そうだ。
純や雅人も、そうに決まっている。
暫く客分として色々やって来た池田組の連中は、そもそもの始まりがそこにある。
この世界に存在する全てのものに、自分は莫迦にされ、見下され、蔑ろにされ、侮られている。
そういう人間の世話になる事は、治郎にとってはこの上のない屈辱であった。
いずみにそれを許したのは、その莫迦にする連中の中では比較的、自分に協力してくれるからだ。
治郎は初めて“わかば”を訪ねた時の事を思い出した。
いや、そのきっかけとなった出来事から、思い出した。
あの日の翌日――治郎が空手の大会で優勝し、長田に酒を含まされ、池田組の三人に絡まれた上に敗北し、明石雅人に救われた夜が明けて、次の月曜日の事だ。
治郎は普通に、学校へ行った。
玲子が、自分の住んでいるアパートまでやって来て、不安そうな顔で登校を促した。
治郎は氷袋でアイシングしただけのぼろぼろの顔、散々踏み付けられて汚れた学ランのまま、水門学院高等部棟へ向かった。
教室に入ると、おおよそ全てのクラスメイトが、治郎の顔を見てぎょっとし、眼を逸らした。
治郎は滅多に人と話さない。それに、話し掛けても言葉に詰まったり、内容を理解していなかったりして、話し掛けた方が苛立つ事になる。それが分かっているから、治郎と話す人間は少なくなり、治郎自身の会話力も失われてゆく。
そうした生活もあって、治郎の一挙手一投足は、クラスメイトにとって不気味に映る。ただでさえそうなのに、顔中を蒼紫色に腫れ上がらせているのだから、映画のゾンビと対面した気分になる。
前日に空手の試合があった事は一部の者が知っており、その中の更に一部は治郎が個人戦で優勝した事も知っているだろう。しかしそれでも、治郎に声を掛ける者はいなかった。教師でさえ、その事に触れようとはしなかった。
それは良い。それは、分かっていた事だからだ。
その日の放課後も、部活はあった。
授業が終わると、日直の仕事がある玲子を置いて、治郎は武道場へ行き、いつものように空手衣に着替えた。
道場に入って来た人間から、好き好きにウォーミングアップやストレッチをやり、基本稽古や移動稽古などを行ない、ミット打ちやスパーリングに入る。
人数がそこそこ揃ってからの乱捕では、タイマーで時間を計って行なった。一分間、軽く当て合う程度に戦い、一五秒のインターバルを取って次の相手を捕まえる。
緑帯以上はサポーターの類は使わないが、それから下はプロテクターを装着する。
空手の級位は帯の色で表されるようになっており、一〇級と九級が白、八級と七級が黄色、六級と五級が蒼、四級と三級が緑、二級と一級が茶色、そして初段以降が黒。
蒼帯はオープンフィンガーグローブ、黄帯はこれに加えて脛サポーター、白帯は更にプロテクターを装着して、やる。
その日は治郎を含めて二五人が道場へ来ており、乱捕をやるにしても一人が余る。普通、余ったその一人は乱捕の間はシャドーボクシングなどをやり、インターバルの間に誰かと入れ替わって乱捕を始めるものだが、治郎はその中に入らなかった。
黙々と、道場の隅でサンドバッグを叩いていた。
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