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第三章 潜伏する狼
第十二節 狂 狼
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突きも、蹴りも、全力で放った。
一発一発が、稲妻のような轟音を打ち鳴らして、つい最近補強したガムテープが弾け飛んでしまいそうであった。吊るしている鎖が、いつか天井ごともぎ取られてしまいそうでさえあった。
「優勝したのにあんなにリキ入れて稽古とは、随分と頑張り屋さんな事で」
「あーやってサンドバッグを叩いてご満悦なんだから良いよなァ」
「あいつ、手加減ってものを知らねーんだもの。防具付けててもやりたくないぜ」
そんな陰口を背中で聞きながら、治郎は一人の男を待っていた。
乱捕が五セット目に入った辺りで、その人物はやって来た。
「押忍! 皆、大会が終わったからって、気を抜いていないよな!」
「押忍! 長田先輩!」
「長田さん、押忍!」
「押忍!」
「ぅ押ッ忍!」
「押忍、お願いしゃす!」
ゼミの課題で遅れたらしい長田は、空手衣に着替えてストレッチをやり、一人で簡単に基本稽古をやると、乱捕に混ざってゆこうとした。
長田は酒が入った時の粗暴な振る舞いは兎も角、稽古中は気の良い先輩で、実力があるにも関わらず驕ったりせず、相手の長所を伸ばすようなスパーリングをやってくれる。決して嫌われるような性質ではなく、高等部の白帯から学部の人間までこぞってスパーの相手をお願いしに行った。
彼らを掻き分けて、白帯ながら唯一防具の類を装着しない治郎が、前に出た。
「おぉ、篠崎! ……どうした、その顔」
「押忍……お願い、し、ま、す……」
治郎は掠れた声で言った。
長田は、昨晩、自分の軽率な行ないの所為で治郎がこのようなツラになった事を知らない。だが、昨日の今日で自分に乱捕を頼みに来たのが嬉しくて、喜んで相手をする事にした。
長田が来た事で偶数になった事もあり、治郎とやる者がいなければ長田を不自然に余らせてしまうと思っていた他の部員たちは、ほっと安心した。
インターバルの間にそれぞれ相手を見付けて、休憩終了と乱捕再開のブザーが鳴る。
長田と向かい合った治郎は、腫れ上がった瞼の奥からあの黒い視線で長田を睨んでいた。
そして開始のブザーと共に、顔をガードして飛び掛かってゆく。
凄い勢いで、ローキックを放った。
長田は鉈のような勢いで振り下ろされる蹴りに対して、すっと前に出た。
下段への蹴りは脛で受けるのが定石であるが、昨今では互いの脛同士がぶつかり合う事による怪我を防止するのに、打点をずらして威力を軽減する技法を学ぶ向きもある。
ローを堪えて、相手の蹴りの間合いを踏み越えてしまえば、パンチで反撃も出来た。
長田は治郎の胸の辺りに、右ストレートを見舞った。
グローブを使用したフルコンや防具装着の試合ならば、顔を狙っても良い。だが、素手で行なう部活の乱捕では、手技による頭部への攻撃は禁止されていた。
治郎が左の中段受けでパンチを弾きつつ、後退する。
長田が前に出て来た。
「ひゅっ」
長田の右足が板張りの床から跳ねて、前蹴りが飛び込んで来る。
これが、治郎の鳩尾に突き刺さって、治郎の身体が転がった。
長田は身長で一八二センチ、体重は九〇キロを越えている。
一方、当時の治郎は一七五センチに届かず、体重も七〇キロあるかないか。
そんな体格差で身体の中心を蹴り抜かれれば、当然、吹き飛ばされてしまう。
長田はすっと近寄った。
試合であれば、治郎が立ち上がる前に下段突きを寸止めすると、技ありになる。
その癖を出しそうになった長田に向かって、立ち上がった治郎がノーガードで駆け寄った。
長田が前に出し掛けていた右手を、治郎の左手が強く打った。
顔を顰める長田。
その頬に、治郎の正拳突きがクリーンヒットした。
長田の顔がそれと分かるくらいに歪んで、左眼が瞼の外側にこぼれそうになる。
顔を殴るのは反則であっても、頭部のガードは意識して置くべきである。だが試合ならばまだしも、スパーの中で本当に顔を殴られる事があるとは、長田も思わなかったのだろう。
道場の真ん中で、長田の身体が崩れ落ちる。
人の身体が床を叩く音に、他の部員たちが一時、手を止めた。
人がそんな倒れ方をするのがどんな時か、どんな技がその症状を生み出すのか、部員たちは知っている。
事故?
故意?
すぐに分かった。
治郎は倒れ込んだ長田の顔に向かって、振り上げた右の踵を押し付けて行ったからだ。
治郎は眼を吊り上げて、歯茎まで見せるくらいに唇を剥いた表情で、長田の身体に馬乗りになった。
踵の踏み下ろしで鼻が潰れ、前歯が折れた長田の顔目掛けて、治郎はパンチを繰り出した。
めきっ、と、骨が潰れる音がした。
一発一発が、稲妻のような轟音を打ち鳴らして、つい最近補強したガムテープが弾け飛んでしまいそうであった。吊るしている鎖が、いつか天井ごともぎ取られてしまいそうでさえあった。
「優勝したのにあんなにリキ入れて稽古とは、随分と頑張り屋さんな事で」
「あーやってサンドバッグを叩いてご満悦なんだから良いよなァ」
「あいつ、手加減ってものを知らねーんだもの。防具付けててもやりたくないぜ」
そんな陰口を背中で聞きながら、治郎は一人の男を待っていた。
乱捕が五セット目に入った辺りで、その人物はやって来た。
「押忍! 皆、大会が終わったからって、気を抜いていないよな!」
「押忍! 長田先輩!」
「長田さん、押忍!」
「押忍!」
「ぅ押ッ忍!」
「押忍、お願いしゃす!」
ゼミの課題で遅れたらしい長田は、空手衣に着替えてストレッチをやり、一人で簡単に基本稽古をやると、乱捕に混ざってゆこうとした。
長田は酒が入った時の粗暴な振る舞いは兎も角、稽古中は気の良い先輩で、実力があるにも関わらず驕ったりせず、相手の長所を伸ばすようなスパーリングをやってくれる。決して嫌われるような性質ではなく、高等部の白帯から学部の人間までこぞってスパーの相手をお願いしに行った。
彼らを掻き分けて、白帯ながら唯一防具の類を装着しない治郎が、前に出た。
「おぉ、篠崎! ……どうした、その顔」
「押忍……お願い、し、ま、す……」
治郎は掠れた声で言った。
長田は、昨晩、自分の軽率な行ないの所為で治郎がこのようなツラになった事を知らない。だが、昨日の今日で自分に乱捕を頼みに来たのが嬉しくて、喜んで相手をする事にした。
長田が来た事で偶数になった事もあり、治郎とやる者がいなければ長田を不自然に余らせてしまうと思っていた他の部員たちは、ほっと安心した。
インターバルの間にそれぞれ相手を見付けて、休憩終了と乱捕再開のブザーが鳴る。
長田と向かい合った治郎は、腫れ上がった瞼の奥からあの黒い視線で長田を睨んでいた。
そして開始のブザーと共に、顔をガードして飛び掛かってゆく。
凄い勢いで、ローキックを放った。
長田は鉈のような勢いで振り下ろされる蹴りに対して、すっと前に出た。
下段への蹴りは脛で受けるのが定石であるが、昨今では互いの脛同士がぶつかり合う事による怪我を防止するのに、打点をずらして威力を軽減する技法を学ぶ向きもある。
ローを堪えて、相手の蹴りの間合いを踏み越えてしまえば、パンチで反撃も出来た。
長田は治郎の胸の辺りに、右ストレートを見舞った。
グローブを使用したフルコンや防具装着の試合ならば、顔を狙っても良い。だが、素手で行なう部活の乱捕では、手技による頭部への攻撃は禁止されていた。
治郎が左の中段受けでパンチを弾きつつ、後退する。
長田が前に出て来た。
「ひゅっ」
長田の右足が板張りの床から跳ねて、前蹴りが飛び込んで来る。
これが、治郎の鳩尾に突き刺さって、治郎の身体が転がった。
長田は身長で一八二センチ、体重は九〇キロを越えている。
一方、当時の治郎は一七五センチに届かず、体重も七〇キロあるかないか。
そんな体格差で身体の中心を蹴り抜かれれば、当然、吹き飛ばされてしまう。
長田はすっと近寄った。
試合であれば、治郎が立ち上がる前に下段突きを寸止めすると、技ありになる。
その癖を出しそうになった長田に向かって、立ち上がった治郎がノーガードで駆け寄った。
長田が前に出し掛けていた右手を、治郎の左手が強く打った。
顔を顰める長田。
その頬に、治郎の正拳突きがクリーンヒットした。
長田の顔がそれと分かるくらいに歪んで、左眼が瞼の外側にこぼれそうになる。
顔を殴るのは反則であっても、頭部のガードは意識して置くべきである。だが試合ならばまだしも、スパーの中で本当に顔を殴られる事があるとは、長田も思わなかったのだろう。
道場の真ん中で、長田の身体が崩れ落ちる。
人の身体が床を叩く音に、他の部員たちが一時、手を止めた。
人がそんな倒れ方をするのがどんな時か、どんな技がその症状を生み出すのか、部員たちは知っている。
事故?
故意?
すぐに分かった。
治郎は倒れ込んだ長田の顔に向かって、振り上げた右の踵を押し付けて行ったからだ。
治郎は眼を吊り上げて、歯茎まで見せるくらいに唇を剥いた表情で、長田の身体に馬乗りになった。
踵の踏み下ろしで鼻が潰れ、前歯が折れた長田の顔目掛けて、治郎はパンチを繰り出した。
めきっ、と、骨が潰れる音がした。
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