花交わし

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1.犬狼の里

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 自身の白い髪の向こうから明るい光が差し込み、開けた場所に出た事に気付いて氷冴尾(ひさお)は顔を上げた。
 山を越え、谷を越え、また山を越え、川を渡り、しばらく平地を歩いて、三日の道程を経てようやくたどり着いた犬狼の里を、駕籠の小さな格子の隙間から窺う。
(広いな)
 空色の目に、長閑で地にも水にも恵まれている豊かな農地の広がりが映り込む。
 なるほどこれならば、かつてこの広大な平地を求めて虎猫族から戦を仕掛けたというのも頷ける。己が出てきた虎猫の里を思い出して、氷冴尾は内心で納得した。
 山間の僅かな平地を農地として割り当て、自分達の住居は斜面に建てている里と比べれば、農地も住居もすっぽりと収まっている平地の広大さはあまりに魅力的だ。そんな場所が、駕籠を使っているために氷冴尾は三日かかったが、走って急げば一昼夜、という距離にある。そうくれば、今よりも群雄割拠の気風がまだ色濃く残っていた時代の族長達が、戦という手段を選ぶ事も自明の理だろう。
 ただし、五代前の族長が始めた戦は、何の成果も挙げられず、両族の疲労だけが積もっていった。
 そして今から三代前の族長の折、都を治める蛟龍(こうりゅう)族が間に入り、和議が成立した。
 もはや広大な平地を手に入れる事を諦めていた虎猫族ではあったが、自らが仕掛けた戦が何も得る事なく終わった事を、心のどこかでは犬狼族に負けたと感じていた。ようやく和議が整い、正当な交流でもって里を発展させる手段がいくらもあったが、その引け目のような意識がそれを阻害した。
 族長というものは、どこか的外れであるかもしれないとは分かりつつも、だが一族の誇りを守ってやらねばならない。
 結局、虎猫族と犬狼族との交流は、先々代族長の時代になるまで行われる事はなかった。そしてようやく交流を始める事ができた先々代族長同士は、一つの約束をした。
 それは、
『互いの子孫同士を嫁がせ合おう』
と、いうものだった。
 こうして、その約束から刻は流れ。
 約束当時は産まれてもいなかった孫の氷冴尾が、犬狼族の元へと嫁入りする事になった。
(向こうも着いてる頃だろうな)
 道中すれ違った駕籠を思い出しながら、犬狼族から虎猫族へと嫁入りする事になった者の事を考える。聞いた話でしかないが、向こうは現族長の次男で、歳は氷冴尾と同じ歳らしい。
(今頃緊張してるんだろうな)
 犬狼族の嫁の事ではない。相手を迎える事になる従兄の、想像に難くない緊張した姿が頭に思い浮かんで、思わず笑ってしまった。一族の中でただ一人、氷冴尾のためを思って輿入れに反対してくれた心優しい従兄は、今頃花嫁を前にしどろもどろにでもなっているだろうか。
 垣間見える犬狼族の営みを見ながら、心穏やかでいようと努めていた氷冴尾に声がかかる。
「そろそろ格子を閉めて下さい」
「…ああ」
 賑やかな声が聞こえ始めているのには気付いていた。そろそろ犬狼族の里の中心地なのだろう。言われた通りに駕籠の格子を閉めて、目を閉じる。ゆったりと進む駕籠の揺れにはもう慣れたもので、そうすると僅かに眠気さえ覚えるが、さすがに寝る訳にはいかないので溜息を吐いて瞼を開け、背に力を入れて姿勢を正した。
(犬狼族の族長の息子、か)
 氷冴尾と同じ歳の嫁を迎える従兄は歳上だが、犬狼族の息子は同じ歳だと聞いている。つまり、族長の長男と次男は双子なのだ。虎猫族は大概一度に一人しか産まないためあまり馴染みは無いが、犬狼族は妊娠し難い代わりなのか双子の出産率が高いらしい。虎猫族が双子を出産するような確率で四つ子が産まれる事もあるそうだ。
 産まれた時から身近に同じ歳の兄弟姉妹がいるという状況に縁の無い氷冴尾には解らないが、きっと楽しいだろうなと考える。従兄との幼い日々は間違いなく楽しかったが、従兄弟達が楽しそうにしているのを見るにつけ、自分に弟妹がいない事が悲しくてならなかったからだ。その根底には、早くに両親を亡くしたが故の寂しさもあったのかもしれない。
 そんな風に兄弟について思いを馳せていたからだろうか。
 氷冴尾は、自分が駕籠を降りるなり、睨み付ける様に自分を見ていた者こそが相手なのだろうと確信した。
 僅かに微笑を浮かべ礼の姿勢をとる他の者とは明らかに異なるどこか傲岸ささえ滲む堂々とした態度に、紋付の格好から見ても、族長の血筋である事は疑いようがない。
(仲の良い兄弟だったんだろうな)
 ぴんと立った耳が、警戒か威嚇でもするように、しっかりとこちらを向いている。母親が名付けた、冴え冴えとした氷のような白という意味の氷冴尾とは正反対に、耳も髪も尾も、艶のある黒だ。肌も、山育ちでよく焼けている彼とは違う。外に出ないというより、元々色白な、焼け難い質なのだろうと思われた。
 歓迎しているとは言い難い態度に僅かな不満は感じたが、兄弟と引き離された相手の寂しさを慮って、氷冴尾は鋭い視線からそっと目を逸らす事でその不満を流した。
「では、我々はこれで」
「ああ。ご苦労さん」
 供をしていた虎猫族達が、犬狼族達と言葉を交わし、氷冴尾をのみを置いて帰路に着く。同族で集まりあらぬ誤解を受けるような事が有ってはならないから、と供周りも一人として虎猫族からは出さない事になっていた。
 元々里でも一人で過ごす事の多かった氷冴尾にとってその事は特に心を傷付けるようなものではない。ただ、思い起こす叔父夫婦の表情と言葉だけが、今も胸を掻き毟りたいほどにざわつかせる。
「どうぞ、こちらへ。ご案内させていただきます」
 振り切るように頭を振った氷冴尾に犬狼族の女性が声をかけた。
「…ああ」
 既に踵を返し後ろ姿となっている結婚相手を追うように、その足を踏み出した。
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