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2.虎猫の里
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氷冴尾が幼い頃の記憶に、母に頭を撫でてもらいながら両親の会話を聞いていた時のものがある。
「いったいどんな子が氷冴尾のお嫁さんとして来てくれるのかしらね」
「ちょうど同じ歳の子が産まれたと聞いているが、弟か妹が産まれたらそちらかもしれないな」
「少なくとも年上のお嫁さんではなさそうね」
「そうだな」
この時の会話を、母の優しい手に撫でられてすっかり寝呆け頭だった氷冴尾は、随分と後になって思い出す。だがそれは、もうとっくに虎猫族の里を後にした頃で、ただの胸を温める思い出としてのみ刻んだのだった。
「犬狼族へ嫁ぐ?」
だから、この時は、まだ氷冴尾はその事に思い当たらなかった。
「ええそうよ」
「氷冴尾も知っているだろう? 爺様の遺言を」
祖父の遺言という言葉には思い当たる。対立した一族同士を結び付けるため、族長同士の血筋で婚姻をしようという話だった。
(そういえば親父にもなんか言われてた気がする…)
ちょうど約束を交わした族長達の孫は氷冴尾を含め成人を迎える。婚姻には良い年頃だという訳で、具体的に話を進める事になったらしい。犬狼族の族長の長子へ氷冴尾が、そして犬狼族の族長の次子が従兄の元へ、との事だ。
「これはお前にも良い話だ」
「そうですよ。あちらへ行けば、ゆくゆくは族長の嬬となるのですから」
笑顔で、この話がいかに虎猫族の利益を生むか、氷冴尾のためになるか、亡き父がいかに切望していたか、口々に叔父夫婦が語るのを、大人しく聞く。
(もういっそ、出て行ってくれと言ってくれれば良いのに)
真面目な顔というよりは、冷め切った諦め顔の氷冴尾は、もうこれ以上叔父夫婦の建前を聞いているのが辛くて頷こうとした。
「俺は反対だ!」
だが、声に行動を遮られ、そちらを向けば、普段滅多に怒る事のない従兄の爪刃(そうは)が目尻を釣り上げて眉間を険しくして立っていた。
「爪兄」
「何を言うんだ爪刃!」
「そうですよ! この話は氷冴尾にとってこの上ない良縁です!」
何故己の縁を他人である叔父達が決め、それが『良』だと言い切れるのだろうか。氷冴尾は今までにも何度か考えた事を今再び考えながら、だがもう、諦めている。
「どこが良い話なのですか? 氷冴尾一人を犬狼族の里へやる事のどこが?!」
いや、自分を思って怒ってくれる者がいるだけで、十分だと満足出来るのだ。
「行きます」
「氷冴尾?!」
「おおそうか!」
「よく言いました!」
他の誰でもない。やがて族長としてこの里を率いる事になる従兄の、一助となればそれで良い。その思いで、氷冴尾は爪刃を見つめ、笑みを浮かべた。
早速準備に取り掛からなくては、と叔父夫婦が退室した室内で、氷冴尾は爪刃と向かい合う。
「お前、本当に良いのか…?」
「別に、犬狼族が好きな訳ではないけど。俺は、もうずっと、この里を出たいって思ってきたし」
氷冴尾の言葉に、爪刃は何処か傷付いた様な痛みを堪えるような顔をした。
そんな表情を見るにつけ、この優しい従兄こそ、次の族長に成れば良いと、氷冴尾は心から思うのだ。
今は亡き族長、叔父が族長代理を務めている虎猫の里の族長は、氷冴尾の父である。いや、父であった。族長の地位は長子継承が優先されるため、未成人の氷冴尾が成人すれば族長を継ぐ事が最も自然な流れであり、それが自然であるからこそ叔父は族長代理なのだが。叔父達、いや虎猫の里の者達は、爪刃に族長を継承させたいのだ。
彼等が氷冴尾に対しとる態度の根底には、いつもその願いが隠されている。
しかしながら、氷冴尾はその願いを厭いはしない。爪刃は確かに族長となる器の持ち主である。彼がただ次男の血筋だからという理由だけで族長に成れないのはおかしな話だと、そう考えてもいる。
だからいっそ、
「爪刃を族長とするためお前には里を出てもらいたい」
と、言ってくれれば良いと願う。
もしはっきりとそう言ってもらえたならば、氷冴尾は喜んで里を出て行く。当然だと笑って、爪刃に里を託し、己に出来る事をするだけだ。
だが、叔父達は一度として、はっきりとした言葉を言ってはくれなかった。
『お前のためだ』
『これは何よりお前にとって良い事です』
『亡き兄も望んでいるだろう』
『生きていれば御母様がどれほど喜ぶか』
もし言ってくれたなら、傷付きはしたかもしれないが納得できた。だが、実際には建前に飾られた向こうに本音が有る言葉ばかりを聞き続ける事になった。結果、氷冴尾は叔父達を、自分に嘘を吐き続ける相手と思う事しかできなくなったのだ。
無論だが、本当に氷冴尾を気遣う思いもあるのだとは解っている。だが、もし本当に、例えば従兄のように氷冴尾を理解してくれていたら、理解しようとしてくれていたならば、叔父達は本音を語ってくれたはずだ。誰あろう氷冴尾がそれを望んでいるのだから。
しかしそうはならなかった。
結局。
氷冴尾が虎猫の里を出て行く事を決めてなお、建前の言葉だけが氷冴尾に贈られるのだ。
「…この里が嫌いか?」
泣きそうな顔で、怒っている従兄の問いかけに、氷冴尾は首を横に振った。
「爪兄がいる里だ」
ぐっと、爪刃が息を詰める音が聞こえて、氷冴尾は表情をまじまじと見る事を避けていた視線を戻す。
「良いか!」
しっかりとその腕に抱き締められ、氷冴尾は耳を鼓動が聞こえる胸に当てた。
「嫌な事があればすぐにでも戻れよ! 我慢などする必要は無いぞ?! お前は好きにして良いのだからな!」
「…うん」
大丈夫だ、俺は好きな事しかしないから、と氷冴尾は笑って頷いた。
「いったいどんな子が氷冴尾のお嫁さんとして来てくれるのかしらね」
「ちょうど同じ歳の子が産まれたと聞いているが、弟か妹が産まれたらそちらかもしれないな」
「少なくとも年上のお嫁さんではなさそうね」
「そうだな」
この時の会話を、母の優しい手に撫でられてすっかり寝呆け頭だった氷冴尾は、随分と後になって思い出す。だがそれは、もうとっくに虎猫族の里を後にした頃で、ただの胸を温める思い出としてのみ刻んだのだった。
「犬狼族へ嫁ぐ?」
だから、この時は、まだ氷冴尾はその事に思い当たらなかった。
「ええそうよ」
「氷冴尾も知っているだろう? 爺様の遺言を」
祖父の遺言という言葉には思い当たる。対立した一族同士を結び付けるため、族長同士の血筋で婚姻をしようという話だった。
(そういえば親父にもなんか言われてた気がする…)
ちょうど約束を交わした族長達の孫は氷冴尾を含め成人を迎える。婚姻には良い年頃だという訳で、具体的に話を進める事になったらしい。犬狼族の族長の長子へ氷冴尾が、そして犬狼族の族長の次子が従兄の元へ、との事だ。
「これはお前にも良い話だ」
「そうですよ。あちらへ行けば、ゆくゆくは族長の嬬となるのですから」
笑顔で、この話がいかに虎猫族の利益を生むか、氷冴尾のためになるか、亡き父がいかに切望していたか、口々に叔父夫婦が語るのを、大人しく聞く。
(もういっそ、出て行ってくれと言ってくれれば良いのに)
真面目な顔というよりは、冷め切った諦め顔の氷冴尾は、もうこれ以上叔父夫婦の建前を聞いているのが辛くて頷こうとした。
「俺は反対だ!」
だが、声に行動を遮られ、そちらを向けば、普段滅多に怒る事のない従兄の爪刃(そうは)が目尻を釣り上げて眉間を険しくして立っていた。
「爪兄」
「何を言うんだ爪刃!」
「そうですよ! この話は氷冴尾にとってこの上ない良縁です!」
何故己の縁を他人である叔父達が決め、それが『良』だと言い切れるのだろうか。氷冴尾は今までにも何度か考えた事を今再び考えながら、だがもう、諦めている。
「どこが良い話なのですか? 氷冴尾一人を犬狼族の里へやる事のどこが?!」
いや、自分を思って怒ってくれる者がいるだけで、十分だと満足出来るのだ。
「行きます」
「氷冴尾?!」
「おおそうか!」
「よく言いました!」
他の誰でもない。やがて族長としてこの里を率いる事になる従兄の、一助となればそれで良い。その思いで、氷冴尾は爪刃を見つめ、笑みを浮かべた。
早速準備に取り掛からなくては、と叔父夫婦が退室した室内で、氷冴尾は爪刃と向かい合う。
「お前、本当に良いのか…?」
「別に、犬狼族が好きな訳ではないけど。俺は、もうずっと、この里を出たいって思ってきたし」
氷冴尾の言葉に、爪刃は何処か傷付いた様な痛みを堪えるような顔をした。
そんな表情を見るにつけ、この優しい従兄こそ、次の族長に成れば良いと、氷冴尾は心から思うのだ。
今は亡き族長、叔父が族長代理を務めている虎猫の里の族長は、氷冴尾の父である。いや、父であった。族長の地位は長子継承が優先されるため、未成人の氷冴尾が成人すれば族長を継ぐ事が最も自然な流れであり、それが自然であるからこそ叔父は族長代理なのだが。叔父達、いや虎猫の里の者達は、爪刃に族長を継承させたいのだ。
彼等が氷冴尾に対しとる態度の根底には、いつもその願いが隠されている。
しかしながら、氷冴尾はその願いを厭いはしない。爪刃は確かに族長となる器の持ち主である。彼がただ次男の血筋だからという理由だけで族長に成れないのはおかしな話だと、そう考えてもいる。
だからいっそ、
「爪刃を族長とするためお前には里を出てもらいたい」
と、言ってくれれば良いと願う。
もしはっきりとそう言ってもらえたならば、氷冴尾は喜んで里を出て行く。当然だと笑って、爪刃に里を託し、己に出来る事をするだけだ。
だが、叔父達は一度として、はっきりとした言葉を言ってはくれなかった。
『お前のためだ』
『これは何よりお前にとって良い事です』
『亡き兄も望んでいるだろう』
『生きていれば御母様がどれほど喜ぶか』
もし言ってくれたなら、傷付きはしたかもしれないが納得できた。だが、実際には建前に飾られた向こうに本音が有る言葉ばかりを聞き続ける事になった。結果、氷冴尾は叔父達を、自分に嘘を吐き続ける相手と思う事しかできなくなったのだ。
無論だが、本当に氷冴尾を気遣う思いもあるのだとは解っている。だが、もし本当に、例えば従兄のように氷冴尾を理解してくれていたら、理解しようとしてくれていたならば、叔父達は本音を語ってくれたはずだ。誰あろう氷冴尾がそれを望んでいるのだから。
しかしそうはならなかった。
結局。
氷冴尾が虎猫の里を出て行く事を決めてなお、建前の言葉だけが氷冴尾に贈られるのだ。
「…この里が嫌いか?」
泣きそうな顔で、怒っている従兄の問いかけに、氷冴尾は首を横に振った。
「爪兄がいる里だ」
ぐっと、爪刃が息を詰める音が聞こえて、氷冴尾は表情をまじまじと見る事を避けていた視線を戻す。
「良いか!」
しっかりとその腕に抱き締められ、氷冴尾は耳を鼓動が聞こえる胸に当てた。
「嫌な事があればすぐにでも戻れよ! 我慢などする必要は無いぞ?! お前は好きにして良いのだからな!」
「…うん」
大丈夫だ、俺は好きな事しかしないから、と氷冴尾は笑って頷いた。
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