花交わし

nionea

文字の大きさ
上 下
2 / 35

2.虎猫の里

しおりを挟む
 氷冴尾が幼い頃の記憶に、母に頭を撫でてもらいながら両親の会話を聞いていた時のものがある。
「いったいどんな子が氷冴尾のお嫁さんとして来てくれるのかしらね」
「ちょうど同じ歳の子が産まれたと聞いているが、弟か妹が産まれたらそちらかもしれないな」
「少なくとも年上のお嫁さんではなさそうね」
「そうだな」
 この時の会話を、母の優しい手に撫でられてすっかり寝呆け頭だった氷冴尾は、随分と後になって思い出す。だがそれは、もうとっくに虎猫族の里を後にした頃で、ただの胸を温める思い出としてのみ刻んだのだった。
「犬狼族へ嫁ぐ?」
 だから、この時は、まだ氷冴尾はその事に思い当たらなかった。
「ええそうよ」
「氷冴尾も知っているだろう? 爺様の遺言を」
 祖父の遺言という言葉には思い当たる。対立した一族同士を結び付けるため、族長同士の血筋で婚姻をしようという話だった。
(そういえば親父にもなんか言われてた気がする…)
 ちょうど約束を交わした族長達の孫は氷冴尾を含め成人を迎える。婚姻には良い年頃だという訳で、具体的に話を進める事になったらしい。犬狼族の族長の長子へ氷冴尾が、そして犬狼族の族長の次子が従兄の元へ、との事だ。
「これはお前にも良い話だ」
「そうですよ。あちらへ行けば、ゆくゆくは族長の嬬となるのですから」
 笑顔で、この話がいかに虎猫族の利益を生むか、氷冴尾のためになるか、亡き父がいかに切望していたか、口々に叔父夫婦が語るのを、大人しく聞く。
(もういっそ、出て行ってくれと言ってくれれば良いのに)
 真面目な顔というよりは、冷め切った諦め顔の氷冴尾は、もうこれ以上叔父夫婦の建前を聞いているのが辛くて頷こうとした。
「俺は反対だ!」
 だが、声に行動を遮られ、そちらを向けば、普段滅多に怒る事のない従兄の爪刃(そうは)が目尻を釣り上げて眉間を険しくして立っていた。
「爪兄」
「何を言うんだ爪刃!」
「そうですよ! この話は氷冴尾にとってこの上ない良縁です!」
 何故己の縁を他人である叔父達が決め、それが『良』だと言い切れるのだろうか。氷冴尾は今までにも何度か考えた事を今再び考えながら、だがもう、諦めている。
「どこが良い話なのですか? 氷冴尾一人を犬狼族の里へやる事のどこが?!」
 いや、自分を思って怒ってくれる者がいるだけで、十分だと満足出来るのだ。
「行きます」
「氷冴尾?!」
「おおそうか!」
「よく言いました!」
 他の誰でもない。やがて族長としてこの里を率いる事になる従兄の、一助となればそれで良い。その思いで、氷冴尾は爪刃を見つめ、笑みを浮かべた。
 早速準備に取り掛からなくては、と叔父夫婦が退室した室内で、氷冴尾は爪刃と向かい合う。
「お前、本当に良いのか…?」
「別に、犬狼族が好きな訳ではないけど。俺は、もうずっと、この里を出たいって思ってきたし」
 氷冴尾の言葉に、爪刃は何処か傷付いた様な痛みを堪えるような顔をした。
 そんな表情を見るにつけ、この優しい従兄こそ、次の族長に成れば良いと、氷冴尾は心から思うのだ。
 今は亡き族長、叔父が族長代理を務めている虎猫の里の族長は、氷冴尾の父である。いや、父であった。族長の地位は長子継承が優先されるため、未成人の氷冴尾が成人すれば族長を継ぐ事が最も自然な流れであり、それが自然であるからこそ叔父は族長代理なのだが。叔父達、いや虎猫の里の者達は、爪刃に族長を継承させたいのだ。
 彼等が氷冴尾に対しとる態度の根底には、いつもその願いが隠されている。
 しかしながら、氷冴尾はその願いを厭いはしない。爪刃は確かに族長となる器の持ち主である。彼がただ次男の血筋だからという理由だけで族長に成れないのはおかしな話だと、そう考えてもいる。
 だからいっそ、
「爪刃を族長とするためお前には里を出てもらいたい」
と、言ってくれれば良いと願う。
 もしはっきりとそう言ってもらえたならば、氷冴尾は喜んで里を出て行く。当然だと笑って、爪刃に里を託し、己に出来る事をするだけだ。
 だが、叔父達は一度として、はっきりとした言葉を言ってはくれなかった。
『お前のためだ』
『これは何よりお前にとって良い事です』
『亡き兄も望んでいるだろう』
『生きていれば御母様がどれほど喜ぶか』
 もし言ってくれたなら、傷付きはしたかもしれないが納得できた。だが、実際には建前に飾られた向こうに本音が有る言葉ばかりを聞き続ける事になった。結果、氷冴尾は叔父達を、自分に嘘を吐き続ける相手と思う事しかできなくなったのだ。
 無論だが、本当に氷冴尾を気遣う思いもあるのだとは解っている。だが、もし本当に、例えば従兄のように氷冴尾を理解してくれていたら、理解しようとしてくれていたならば、叔父達は本音を語ってくれたはずだ。誰あろう氷冴尾がそれを望んでいるのだから。
 しかしそうはならなかった。
 結局。
 氷冴尾が虎猫の里を出て行く事を決めてなお、建前の言葉だけが氷冴尾に贈られるのだ。
「…この里が嫌いか?」
 泣きそうな顔で、怒っている従兄の問いかけに、氷冴尾は首を横に振った。
「爪兄がいる里だ」
 ぐっと、爪刃が息を詰める音が聞こえて、氷冴尾は表情をまじまじと見る事を避けていた視線を戻す。
「良いか!」
 しっかりとその腕に抱き締められ、氷冴尾は耳を鼓動が聞こえる胸に当てた。
「嫌な事があればすぐにでも戻れよ! 我慢などする必要は無いぞ?! お前は好きにして良いのだからな!」
「…うん」
 大丈夫だ、俺は好きな事しかしないから、と氷冴尾は笑って頷いた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

僕の宿命の人は黒耳のもふもふ尻尾の狛犬でした!【完結】

華周夏
BL
かつての恋を彼は忘れている。運命は、あるのか。繋がった赤い糸。ほどけてしまった赤い糸。繋ぎ直した赤い糸。切れてしまった赤い糸──。その先は?糸ごと君を抱きしめればいい。宿命に翻弄される神の子と、眷属の恋物語【*マークはちょっとHです】

【完結】浮薄な文官は嘘をつく

七咲陸
BL
『薄幸文官志望は嘘をつく』 続編。 イヴ=スタームは王立騎士団の経理部の文官であった。 父に「スターム家再興のため、カシミール=グランティーノに近づき、篭絡し、金を引き出せ」と命令を受ける。 イヴはスターム家特有の治癒の力を使って、頭痛に悩んでいたカシミールに近づくことに成功してしまう。 カシミールに、「どうして俺の治癒をするのか教えてくれ」と言われ、焦ったイヴは『カシミールを好きだから』と嘘をついてしまった。 そう、これは─── 浮薄で、浅はかな文官が、嘘をついたせいで全てを失った物語。 □『薄幸文官志望は嘘をつく』を読まなくても出来る限り大丈夫なようにしています。 □全17話

フローブルー

とぎクロム
BL
——好きだなんて、一生、言えないままだと思ってたから…。 高二の夏。ある出来事をきっかけに、フェロモン発達障害と診断された雨笠 紺(あまがさ こん)は、自分には一生、パートナーも、子供も望めないのだと絶望するも、その後も前向きであろうと、日々を重ね、無事大学を出て、就職を果たす。ところが、そんな新社会人になった紺の前に、高校の同級生、日浦 竜慈(ひうら りゅうじ)が現れ、紺に自分の息子、青磁(せいじ)を預け(押し付け)ていく。——これは、始まり。ひとりと、ひとりの人間が、ゆっくりと、激しく、家族になっていくための…。

【完結】『ルカ』

瀬川香夜子
BL
―――目が覚めた時、自分の中は空っぽだった。 倒れていたところを一人の老人に拾われ、目覚めた時には記憶を無くしていた。 クロと名付けられ、親切な老人―ソニーの家に置いて貰うことに。しかし、記憶は一向に戻る気配を見せない。 そんなある日、クロを知る青年が現れ……? 貴族の青年×記憶喪失の青年です。 ※自サイトでも掲載しています。 2021年6月28日 本編完結

愛し合う条件

キサラギムツキ
BL
異世界転移をして10年以上たった青年の話

薫る薔薇に盲目の愛を

不来方しい
BL
代々医師の家系で育った宮野蓮は、受験と親からのプレッシャーに耐えられず、ストレスから目の機能が低下し見えなくなってしまう。 目には包帯を巻かれ、外を遮断された世界にいた蓮の前に現れたのは「かずと先生」だった。 爽やかな声と暖かな気持ちで接してくれる彼に惹かれていく。勇気を出して告白した蓮だが、彼と気持ちが通じ合うことはなかった。 彼が残してくれたものを胸に秘め、蓮は大学生になった。偶然にも駅前でかずとらしき声を聞き、蓮は追いかけていく。かずとは蓮の顔を見るや驚き、目が見える人との差を突きつけられた。 うまく話せない蓮は帰り道、かずとへ文化祭の誘いをする。「必ず行くよ」とあの頃と変わらない優しさを向けるかずとに、振られた過去を引きずりながら想いを募らせていく。  色のある世界で紡いでいく、小さな暖かい恋──。

台風の目はどこだ

あこ
BL
とある学園で生徒会会長を務める本多政輝は、数年に一度起きる原因不明の体調不良により入院をする事に。 政輝の恋人が入院先に居座るのもいつものこと。 そんな入院生活中、二人がいない学園では嵐が吹き荒れていた。 ✔︎ いわゆる全寮制王道学園が舞台 ✔︎ 私の見果てぬ夢である『王道脇』を書こうとしたら、こうなりました(2019/05/11に書きました) ✔︎ 風紀委員会委員長×生徒会会長様 ✔︎ 恋人がいないと充電切れする委員長様 ✔︎ 時々原因不明の体調不良で入院する会長様 ✔︎ 会長様を見守るオカン気味な副会長様 ✔︎ アンチくんや他の役員はかけらほども出てきません。 ✔︎ ギャクになるといいなと思って書きました(目標にしましたが、叶いませんでした)

初恋はおしまい

佐治尚実
BL
高校生の朝好にとって卒業までの二年間は奇跡に満ちていた。クラスで目立たず、一人の時間を大事にする日々。そんな朝好に、クラスの頂点に君臨する修司の視線が絡んでくるのが不思議でならなかった。人気者の彼の一方的で執拗な気配に朝好の気持ちは高ぶり、ついには卒業式の日に修司を呼び止める所までいく。それも修司に無神経な言葉をぶつけられてショックを受ける。彼への思いを知った朝好は成人式で修司との再会を望んだ。 高校時代の初恋をこじらせた二人が、成人式で再会する話です。珍しく攻めがツンツンしています。 ※以前投稿した『初恋はおしまい』を大幅に加筆修正して再投稿しました。現在非公開の『初恋はおしまい』にお気に入りや♡をくださりありがとうございました!こちらを読んでいただけると幸いです。 今作は個人サイト、各投稿サイトにて掲載しています。

処理中です...