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第4章
諜報活動(25p)
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翌日の夕暮れ時―――芳子は、ホテルを出て、近くの公園に向かった。金子と待ち合わせの場所である。公園には、霧が立ち込め、ガス灯が灯っている。芳子は、菩提樹の梢の下にベンチを見つけて、腰を降ろした。と、ふわりと、香水の匂いが漂ってその妖艶な香りを追う。隣のベンチに、金髪美人と背広を着た男が並んで座っていた。金髪美人は、達者な日本語で、男に聞く。
「あんた、急ぐの?」
「いや、俺は暇だ。いつも、ここに来るのかい」
「ええ」
「お金がないのか?」
「お金もないし、お国もないわ。あるのは、体だけ……」
「ははは。元気な体があれば、充分さ」
「そうね。たとえ貴族でも国を追われたら、女は体を売るしかないの」
「美味いものでも、食いに行こう。おいで」
金髪美人は、男にしなだれ係るように身体をあずけて歩き出した。
芳子は、その後ろ姿を見送る。
彼女は、ロシア革命で国を追われた貴族に違いない。
伝え聞く所によれば、ロシアでは、皇帝や妻、そして子供五人までもが、殺害されてしまった。清朝の皇帝は、革命がおきても、ご無事であった。今は、宣統帝をお助けして、そのお立場をもっと、明確にするべき時ではないか。
芳子は、これから、陸軍大佐、田中に会うと思うと身が引き締まる思いであった。
「芳子さん!お待たせして、ごめんなさい」
金子がトレンチコートを翻し駈けてきた。
「ボクも、今来た所だ」
二人が歩き出すと、子供が数人駈けよってくる、
「一円!イチエン!」
「一円!イチエン!」
子供達は、身体をすりよせ、金をよこせと言うふうに手を差し伸べる。
「おい!じゃまだよ」
金子が子供達を追い払った。道端で群れていた黒いチャイナ服の男達が鋭い視線でこちらを見ている。
金子は、怪しい男達に危険を感じたのか、足を速め狭い通りに入った。
「陸軍本部まで、馬車にしましょう。馬車屋は、すぐそこです」
路地には、屋台が並んでいた。果物屋には、マンゴやバナナが高く積まれ、様々な果物籠は、道路まで溢れている。隣の屋台には、皮を剥がれた豚が山と積まれていた。芳子は、ぶら下がった血のしたたる豚の首から、目を背け、急いで通り過ぎる。遠くで、しきりに爆竹が鳴っていた。
芳子は、ロココ風の馬車に揺られながら、霧の街を行く。黄包車(人力車)に乗ったアメリカの水兵達が、「もっと、急げ!」と怒鳴りながら、ステッキを振り上げ現地人の車夫を叩いていた。
「ここは、もう外国のようだ。世界中の人達が勝手に暮らしている」
清朝の優雅な面影など、どこにもありはしない。
「そうかもしれません。長崎からパスポートなしで上海に入れるようになりました。ですから、ここに住む日本人は十万人に増えたそうです。ひと旗挙げようと、威勢のいい奴が移住してくる街です。ほら、あの馬車をごらんなさい。」
馬車の集団が凄い勢いで駈けて来た。連なった蒙古馬が、ひづめの音をかつかつと鳴らし銀行めがけて疾走する。
「すごい迫力だわ。車輪が、浮き上がって、馬車も飛び上がっている。あの人達は誰?」
「為替仲買人ですよ。かれらは、ニューヨークとロンドンの為替相場を分刻みで動かしているのです。ほとんどが、欧米人ですが、銀行から銀行を駈けまわっています。株などでも、巨額の金を稼いでいるのです」
壮大な建物の立ち並ぶ商業中心地帯を過ぎた所に、日本公使館はあった。
芳子が、武官室に通されると、田中は、人払いをしてから切り出した。
「芳子さん?溥儀様を御存知でしょうか?」
「はい。十六歳の時、お会いした事がございます。
ご成婚のお祝いに養父、川島と紫禁城に伺いました」
「ふむ。では、婉容妃にもお会いしたのですか?」
「はい。お美しく、才気溢れるお方でした」
「それは、好都合じゃ。ヨコちゃんが、溥儀様に会った翌年の事だ。帝と妃は紫禁城を追われてしまった。そして、お二人は、北京の日本公使館にかくまわれた。しかし、北京も危なくなり、今は、天津にいらっしゃる。そして、今こそ、ヨコちゃんが小さい頃から言っていた、清朝の復活が実現しようとしている」
「ほんとうか?」
「清朝発祥の地で、満州を独立させる。その新国家の元首として溥儀様をお迎えしたいと、奉天から、密使が送り込まれたのだ」
「で、帝は新国の元首を、お受けなさったのか?」
「だめだ。いっこうに腰を上げない。グズグズしているうちに張学良に勘づかれた。南京から天津へ帝の暗殺隊が潜入している」
「では、帝のお命が危ないではないか」
「そこで、ヨコちゃんに、頼みがある」
「なんでしょうか?」
芳子は、身を乗り出した。命に賭けても、帝をお守りしたい。
「本気なら、細かい計画を教えよう。君に、計画を打ち明けてしまったら、もう、後戻りは出来ん。最期まで同志として戦ってもらう。本気になれるか、今晩、ゆっくり考えてごらん」
「はい」
「では、明日の夜、ヨコちゃんのホテルに迎えの者をさし向ける。その気があれば、私の家に来なさい」
「あんた、急ぐの?」
「いや、俺は暇だ。いつも、ここに来るのかい」
「ええ」
「お金がないのか?」
「お金もないし、お国もないわ。あるのは、体だけ……」
「ははは。元気な体があれば、充分さ」
「そうね。たとえ貴族でも国を追われたら、女は体を売るしかないの」
「美味いものでも、食いに行こう。おいで」
金髪美人は、男にしなだれ係るように身体をあずけて歩き出した。
芳子は、その後ろ姿を見送る。
彼女は、ロシア革命で国を追われた貴族に違いない。
伝え聞く所によれば、ロシアでは、皇帝や妻、そして子供五人までもが、殺害されてしまった。清朝の皇帝は、革命がおきても、ご無事であった。今は、宣統帝をお助けして、そのお立場をもっと、明確にするべき時ではないか。
芳子は、これから、陸軍大佐、田中に会うと思うと身が引き締まる思いであった。
「芳子さん!お待たせして、ごめんなさい」
金子がトレンチコートを翻し駈けてきた。
「ボクも、今来た所だ」
二人が歩き出すと、子供が数人駈けよってくる、
「一円!イチエン!」
「一円!イチエン!」
子供達は、身体をすりよせ、金をよこせと言うふうに手を差し伸べる。
「おい!じゃまだよ」
金子が子供達を追い払った。道端で群れていた黒いチャイナ服の男達が鋭い視線でこちらを見ている。
金子は、怪しい男達に危険を感じたのか、足を速め狭い通りに入った。
「陸軍本部まで、馬車にしましょう。馬車屋は、すぐそこです」
路地には、屋台が並んでいた。果物屋には、マンゴやバナナが高く積まれ、様々な果物籠は、道路まで溢れている。隣の屋台には、皮を剥がれた豚が山と積まれていた。芳子は、ぶら下がった血のしたたる豚の首から、目を背け、急いで通り過ぎる。遠くで、しきりに爆竹が鳴っていた。
芳子は、ロココ風の馬車に揺られながら、霧の街を行く。黄包車(人力車)に乗ったアメリカの水兵達が、「もっと、急げ!」と怒鳴りながら、ステッキを振り上げ現地人の車夫を叩いていた。
「ここは、もう外国のようだ。世界中の人達が勝手に暮らしている」
清朝の優雅な面影など、どこにもありはしない。
「そうかもしれません。長崎からパスポートなしで上海に入れるようになりました。ですから、ここに住む日本人は十万人に増えたそうです。ひと旗挙げようと、威勢のいい奴が移住してくる街です。ほら、あの馬車をごらんなさい。」
馬車の集団が凄い勢いで駈けて来た。連なった蒙古馬が、ひづめの音をかつかつと鳴らし銀行めがけて疾走する。
「すごい迫力だわ。車輪が、浮き上がって、馬車も飛び上がっている。あの人達は誰?」
「為替仲買人ですよ。かれらは、ニューヨークとロンドンの為替相場を分刻みで動かしているのです。ほとんどが、欧米人ですが、銀行から銀行を駈けまわっています。株などでも、巨額の金を稼いでいるのです」
壮大な建物の立ち並ぶ商業中心地帯を過ぎた所に、日本公使館はあった。
芳子が、武官室に通されると、田中は、人払いをしてから切り出した。
「芳子さん?溥儀様を御存知でしょうか?」
「はい。十六歳の時、お会いした事がございます。
ご成婚のお祝いに養父、川島と紫禁城に伺いました」
「ふむ。では、婉容妃にもお会いしたのですか?」
「はい。お美しく、才気溢れるお方でした」
「それは、好都合じゃ。ヨコちゃんが、溥儀様に会った翌年の事だ。帝と妃は紫禁城を追われてしまった。そして、お二人は、北京の日本公使館にかくまわれた。しかし、北京も危なくなり、今は、天津にいらっしゃる。そして、今こそ、ヨコちゃんが小さい頃から言っていた、清朝の復活が実現しようとしている」
「ほんとうか?」
「清朝発祥の地で、満州を独立させる。その新国家の元首として溥儀様をお迎えしたいと、奉天から、密使が送り込まれたのだ」
「で、帝は新国の元首を、お受けなさったのか?」
「だめだ。いっこうに腰を上げない。グズグズしているうちに張学良に勘づかれた。南京から天津へ帝の暗殺隊が潜入している」
「では、帝のお命が危ないではないか」
「そこで、ヨコちゃんに、頼みがある」
「なんでしょうか?」
芳子は、身を乗り出した。命に賭けても、帝をお守りしたい。
「本気なら、細かい計画を教えよう。君に、計画を打ち明けてしまったら、もう、後戻りは出来ん。最期まで同志として戦ってもらう。本気になれるか、今晩、ゆっくり考えてごらん」
「はい」
「では、明日の夜、ヨコちゃんのホテルに迎えの者をさし向ける。その気があれば、私の家に来なさい」
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