103 / 225
第3章 鎌倉の石
第55話 初めての文
しおりを挟む
その年の秋に頼朝は上洛することとなる。早速、諸国の御家人らに準備に入るように命が下される。幕府内も慌ただしくなった。
そんなある日のこと。
「姫御前、お文よ」
声をかけられて顔を上げる。
誰から?と問おうとしてふと阿波局の言葉を思い出した。受け取る素振りもいけないんだった。
ヒメコはなんとなく気になりつつ、素知らぬ顔をして受け取らずに通り過ぎた。
「まぁ、お高くとまっちゃって、何様のつもりかしら」
そんな声が聞こえて、申し訳なくも悲しくも思ったりはしたけれど、誰かの誤解を招いたり勘違いされたりするくらいなら初めから受け取らない方がいい。何を言われても仕方ないと腹をくくろう。自分でも嫌な態度だと思うけれど、そういった類いの会話をうまくやりこなせる程器用ではないし、うっかり変なことを口走って新たな面倒を起こすよりは、そういう嫌な人物で通せばいいだけだとそう決めた。
それから数日した早朝、何となく早く目覚めたヒメコは久しぶりに掃除がしたくなって水干を纏うと髪を括って外へと出た。皆が起きる前に戻れば咎められないだろう。
——あ。
ヒメコは足を留めた。同時に相手も足を留める。
「お、お早うございます」
ヒメコは頭を下げて挨拶した。
「ああ」
答える低い声。コシロ兄だった。
奥州征伐に向かう前に共に駿河に行って戻って以来、すれ違いばかりだった。
奥州征伐への出陣と戻りの姿は遠くから見ていたけれど、しっかりと顔を合わせるのは半年振りくらいだろうか。
何と話しかけていいかわからなくて戸惑ったヒメコの前で先に口を開いたのはコシロ兄だった。
「金剛から話を聞いた。佐殿を呼んで来てくれたと。礼を言う」
「あ、あの八重さまのこと、御愁傷様でございます」
コシロ兄はもう一度ああ、と答えた後、小さく済まないと言った。ヒメコは何とも答えられず、ただ頭を下げて立ち去った。
その昼、阿波局がヒメコの部屋を訪れた。
「姫御前、これなんだけど」
手にしているのは白く折り畳まれた文らしき物。
「この文、小四郎兄から姫御前に宛てたものみたい。宛名の字に見覚えがあったので周りの子たちに聞いてみたら、姫御前が受け取らなかったのだって言ってたから、捨てとくわと言って拾って来たの」
「え、コシロ兄の文?」
慌ててその白い文に飛びつく。
阿波局はヒメコの頭を撫でると
「ちゃんと文を断ってるのね。偉い、偉い」
そう褒めてくれたが、ヒメコはそれどころでなく文を奪い取るようにして受け取ると部屋の隅へと駆ける。
初めてコシロ兄から文を貰った。
高鳴る胸を押さえてハラリと開く。
中には二行の文章。
「留守の間、金剛のことを頼む。
喪が明けるまで待っていて欲しい」
そうあった。
「なぁに、小四郎兄ってば用件のみじゃない。それで待てですって?まぁ、偉そうに!」
いつの間に後ろに立って覗き込んでいたのか、阿波局の声にヒメコは思わず悲鳴を上げる。
「もっと色気のある文が書けないものなのかしら。これは酷すぎるでしょ。ちょっと文句言ってくる」
行きかける阿波局を慌てて押し留める。
「こ、これでいいんです!いえ、これがいいんです。だからどうか何も見なかったことにしてください!」
半泣きで阿波局に縋り付く。
文の手渡しを頼んでくれたのは恐らく昨日。
昨日ちゃんと受け取れていたら、今朝会った時に、もっと違うことが言えたのに。そう悔やむが過ぎたことは仕方がない。
待っていて欲しい。
そう書いてある。それだけで充分だ。
それに多分これで良かったのだ。コシロ兄と金剛君の気持ちを考えたら、今は余計な顔を出すべきではない。
ヒメコはコシロ兄からの初めての文の几帳面な字にそっと指を添わせると丁寧に畳み直して大事にしまい込んだ。
でもふと思う。
あれ?京に女官は付き添わないのだろうか?
阿波局に尋ねたら、女たちは御所で留守番と教えてくれた。ヒメコは少しだけホッとした。京は遠い。そしてどこか怖い。
比翼の鳥、連理の枝。
どこまでも付いて行きたい気持ちと、今居る所を離れたくない気持ちとで揺れてしまった自分に気付く。それからアサ姫ならどうするだろうかと思った。
アサ姫ならきっとどこでも付いて行くのを厭わないのではと思い、そっと嘆息する。自分はまだまだだ。そこまでの覚悟がまだ出来ていない。待つばかりだ。自分の不甲斐なさに一頻り落ち込む。
その時、鳥が一声鋭く鳴いた。
当たり前だろ。お前はまだ半人前なんだから。祖母にそう言われた気がして、ヒメコは苦笑した。パンと両頬を叩くと立ち上がる。半人前は仕方ない。今は今出来ることをやるだけ。
ふと、ハカという言葉を思い出した。
祖母が言っていた、女が耐えなければいけない痛みの一つにあった気がするけれど。それを越えられたら一人前になれるのだろうか?
そんなある日のこと。
「姫御前、お文よ」
声をかけられて顔を上げる。
誰から?と問おうとしてふと阿波局の言葉を思い出した。受け取る素振りもいけないんだった。
ヒメコはなんとなく気になりつつ、素知らぬ顔をして受け取らずに通り過ぎた。
「まぁ、お高くとまっちゃって、何様のつもりかしら」
そんな声が聞こえて、申し訳なくも悲しくも思ったりはしたけれど、誰かの誤解を招いたり勘違いされたりするくらいなら初めから受け取らない方がいい。何を言われても仕方ないと腹をくくろう。自分でも嫌な態度だと思うけれど、そういった類いの会話をうまくやりこなせる程器用ではないし、うっかり変なことを口走って新たな面倒を起こすよりは、そういう嫌な人物で通せばいいだけだとそう決めた。
それから数日した早朝、何となく早く目覚めたヒメコは久しぶりに掃除がしたくなって水干を纏うと髪を括って外へと出た。皆が起きる前に戻れば咎められないだろう。
——あ。
ヒメコは足を留めた。同時に相手も足を留める。
「お、お早うございます」
ヒメコは頭を下げて挨拶した。
「ああ」
答える低い声。コシロ兄だった。
奥州征伐に向かう前に共に駿河に行って戻って以来、すれ違いばかりだった。
奥州征伐への出陣と戻りの姿は遠くから見ていたけれど、しっかりと顔を合わせるのは半年振りくらいだろうか。
何と話しかけていいかわからなくて戸惑ったヒメコの前で先に口を開いたのはコシロ兄だった。
「金剛から話を聞いた。佐殿を呼んで来てくれたと。礼を言う」
「あ、あの八重さまのこと、御愁傷様でございます」
コシロ兄はもう一度ああ、と答えた後、小さく済まないと言った。ヒメコは何とも答えられず、ただ頭を下げて立ち去った。
その昼、阿波局がヒメコの部屋を訪れた。
「姫御前、これなんだけど」
手にしているのは白く折り畳まれた文らしき物。
「この文、小四郎兄から姫御前に宛てたものみたい。宛名の字に見覚えがあったので周りの子たちに聞いてみたら、姫御前が受け取らなかったのだって言ってたから、捨てとくわと言って拾って来たの」
「え、コシロ兄の文?」
慌ててその白い文に飛びつく。
阿波局はヒメコの頭を撫でると
「ちゃんと文を断ってるのね。偉い、偉い」
そう褒めてくれたが、ヒメコはそれどころでなく文を奪い取るようにして受け取ると部屋の隅へと駆ける。
初めてコシロ兄から文を貰った。
高鳴る胸を押さえてハラリと開く。
中には二行の文章。
「留守の間、金剛のことを頼む。
喪が明けるまで待っていて欲しい」
そうあった。
「なぁに、小四郎兄ってば用件のみじゃない。それで待てですって?まぁ、偉そうに!」
いつの間に後ろに立って覗き込んでいたのか、阿波局の声にヒメコは思わず悲鳴を上げる。
「もっと色気のある文が書けないものなのかしら。これは酷すぎるでしょ。ちょっと文句言ってくる」
行きかける阿波局を慌てて押し留める。
「こ、これでいいんです!いえ、これがいいんです。だからどうか何も見なかったことにしてください!」
半泣きで阿波局に縋り付く。
文の手渡しを頼んでくれたのは恐らく昨日。
昨日ちゃんと受け取れていたら、今朝会った時に、もっと違うことが言えたのに。そう悔やむが過ぎたことは仕方がない。
待っていて欲しい。
そう書いてある。それだけで充分だ。
それに多分これで良かったのだ。コシロ兄と金剛君の気持ちを考えたら、今は余計な顔を出すべきではない。
ヒメコはコシロ兄からの初めての文の几帳面な字にそっと指を添わせると丁寧に畳み直して大事にしまい込んだ。
でもふと思う。
あれ?京に女官は付き添わないのだろうか?
阿波局に尋ねたら、女たちは御所で留守番と教えてくれた。ヒメコは少しだけホッとした。京は遠い。そしてどこか怖い。
比翼の鳥、連理の枝。
どこまでも付いて行きたい気持ちと、今居る所を離れたくない気持ちとで揺れてしまった自分に気付く。それからアサ姫ならどうするだろうかと思った。
アサ姫ならきっとどこでも付いて行くのを厭わないのではと思い、そっと嘆息する。自分はまだまだだ。そこまでの覚悟がまだ出来ていない。待つばかりだ。自分の不甲斐なさに一頻り落ち込む。
その時、鳥が一声鋭く鳴いた。
当たり前だろ。お前はまだ半人前なんだから。祖母にそう言われた気がして、ヒメコは苦笑した。パンと両頬を叩くと立ち上がる。半人前は仕方ない。今は今出来ることをやるだけ。
ふと、ハカという言葉を思い出した。
祖母が言っていた、女が耐えなければいけない痛みの一つにあった気がするけれど。それを越えられたら一人前になれるのだろうか?
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
戦国の華と徒花
三田村優希(または南雲天音)
歴史・時代
武田信玄の命令によって、織田信長の妹であるお市の侍女として潜入した忍びの於小夜(おさよ)。
付き従う内にお市に心酔し、武田家を裏切る形となってしまう。
そんな彼女は人並みに恋をし、同じ武田の忍びである小十郎と夫婦になる。
二人を裏切り者と見做し、刺客が送られてくる。小十郎も柴田勝家の足軽頭となっており、刺客に怯えつつも何とか女児を出産し於奈津(おなつ)と命名する。
しかし頭領であり於小夜の叔父でもある新井庄助の命令で、於奈津は母親から引き離され忍びとしての英才教育を受けるために真田家へと送られてしまう。
悲嘆に暮れる於小夜だが、お市と共に悲運へと呑まれていく。
※拙作「異郷の残菊」と繋がりがありますが、単独で読んでも問題がございません
【他サイト掲載:NOVEL DAYS】
札束艦隊
蒼 飛雲
歴史・時代
生まれついての勝負師。
あるいは、根っからのギャンブラー。
札田場敏太(さつたば・びんた)はそんな自身の本能に引きずられるようにして魑魅魍魎が跋扈する、世界のマーケットにその身を投じる。
時は流れ、世界はその混沌の度を増していく。
そのような中、敏太は将来の日米関係に危惧を抱くようになる。
亡国を回避すべく、彼は金の力で帝国海軍の強化に乗り出す。
戦艦の高速化、ついでに出来の悪い四姉妹は四一センチ砲搭載戦艦に改装。
マル三計画で「翔鶴」型空母三番艦それに四番艦の追加建造。
マル四計画では戦時急造型空母を三隻新造。
高オクタン価ガソリン製造プラントもまるごと買い取り。
科学技術の低さもそれに工業力の貧弱さも、金さえあればどうにか出来る!
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる