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第七章 蒲生賢秀編 本能寺の変

第89話 商人という者

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 天正四年(1576年)八月
 六角家臣の三雲賢春は甲府躑躅ヶ崎館を目指して信濃の山中を駆けていた。懐には足利義昭の書状を持参している。
 木々の間を飛び移りながら移動する賢春の姿は、山に慣れた者でも容易に捕捉できない。賢春の最も得意とする『猿飛の術』だ。

 ―――一刻も早く次郎様へお届けせねば

 六角義賢の次男である六角次郎義定は、武田家の一門衆である穴山信君の元に身を寄せて書状などの取次ぎを行っている。今賢春が持参している書状も、甲府に到着すれば六角義定の手から穴山信君へと渡され、最終的には武田勝頼の元へと届けられる手筈になっている。

 しばらく木々の間を飛び移っていた賢春だったが、ふっと地面に降り立つと小川の水を竹水筒に汲んで口に運ぶ。暑い盛りは過ぎたとはいえ、好天の中を走り続けて来たために喉がカラカラに乾いていた。

 ―――ご隠居様は近江の奪還を諦めていない

 そのことに賢春は満足だった。懐の書状の内容も承知している。

「まさか北条・上杉と武田の和睦を纏め上げられるとは……」

 つい言葉が口を突き、はっとして慌てて周囲を見回す。今の独り言を誰かに聞かれはしなかったかと心配になった。
 だが、周囲には小鳥のさえずりと木々の騒めきだけが響き、賢春はほっと胸を撫でおろす。
 小川の水で顔を洗って気を引き締めなおした賢春は、手近な木に登ると再び木々の枝から枝へと疾走を始めた。


 京を追われた足利義昭は、鞆に腰を落ち着けると再び各地の大名に対して御内書を送り始めた。内容は『信長を討て』というものだ。
 織田信長は昨年の十一月に権大納言、右近衛大将に任じられ、名実ともに足利将軍に代わる天下人としての行動を開始していた。権大納言、右近衛大将と言えば、六角定頼が終生面倒を見続けた足利義晴が任じられていた官位だ。つまり、朝廷は信長を足利に代わる天下の支配者と認めたことになる。
 足利義昭としても黙って見過ごせる事態では無かった。

 六角義賢は長男の義治を足利義昭側近として鞆に送り込む一方で、次男の義定を武田との交渉役として甲斐に送り込んでいる。自身は伊賀に潜み、伊賀の忍び衆や未だ義賢に付き従う六角家臣を各地に派遣していた。

 武田勝頼が長篠の戦いに敗れた後、足利義昭の口利きによって上杉謙信と北条氏政が武田勝頼と和睦し、東国が一致団結して信長へと立ち向かう態勢を整えさせたが、その実務を担ったのが六角一統だった。
 上杉にとって武田は長年の宿敵ではあるが、足利将軍家によって関東管領に任じられている謙信にとっては足利体制こそが自らの立場の正統性を保証してくれるものだ。つまり、信長が足利幕府を打倒してしまえば上杉謙信の『関東管領』という立場も失われることになる。
 謙信としても今は行きがかりを捨てて武田と共に織田を討つことこそ急務であると納得していた。

 西国では毛利輝元が義昭の呼びかけに応じて反織田を鮮明にし、また石山本願寺や丹波の波多野らも信長に対して反旗を翻す。
 二度に渡って崩壊した信長包囲網だったが、上杉・武田・北条・毛利・本願寺・雑賀衆・波多野らが参加する第三次包囲網がこうして完成した。


 ―――これで……

 今度こそ信長は終わりだと思った。賢春にはその確信があった。
 本願寺は五月に信長に痛撃を受けたが、毛利の派遣した村上水軍が織田の九鬼水軍を破って本願寺に兵糧・弾薬などを補給して持久戦を支援している。一見すると信長が押しているように見えるが、補給が継続している限り本願寺は容易に落ちない。そうこうしている間に上杉が上洛軍を起こせば、武田も再び遠江へと進出する手はずになっている。

 だが、ただ一つ賢春には心に引っかかる物があった。

 ―――左兵殿……

 蒲生賢秀は今も織田信長の馬廻衆として織田家と行動を共にしている。仮に織田家が崩壊して六角家が近江に返り咲いたとすれば、蒲生を裏切り者として憎悪する六角義賢・義治親子によって蒲生の日野には討伐軍が向けられる可能性が高い。
 だが、その時には蒲生家の助命嘆願を行うつもりでいた。今自分がこうして生きているのも野洲河原で敗走した時に賢秀が見逃してくれたからだ。その蒲生を今度は賢春の一命を賭して救おうと心に決めていた。

 何度も木から木へと飛び移った時、賢春の目の前に広大な盆地が広がった。
 しばらく樹上から甲府盆地を見下ろしていた賢春は、木から降りると菅笠をかぶり、商人の姿に変装してゆっくりと歩き出した。目指すは六角義定の逗留する穴山信君の屋敷だ。

 日はすっかり西に傾き、辺りには薄闇が近づく刻限となっていた。



 ※   ※   ※



 伴伝次郎は無数に続く荷駄の列を差配しながら安土城下を目指していた。
 安土築城に伴って家臣の屋敷を安土城下に作らせた信長は、各地の商人衆も安土城下に移住させようと計画している。特に牛馬の専売権を持つ保内衆は信長直々に安土移住を命じられていた。これは即ち保内衆が近江における織田家御用を務めることを意味している。
 だが、伝次郎の顔は晴れなかった。

 ―――ついに牛馬の専売権まで召し上げられるか

 それが暗い表情の原因だ。
 保内衆の安土移住に伴って伝馬は正式に信長の免許となることが決まっている。つまり牛馬の専売権は保内衆の物では無くなり、織田家の物となる。保内衆が整備した伝馬宿も同様だ。

 とはいえ、保内衆は馬喰町を与えられ、荷駄用馬の売り買いは馬喰町で行うことと規定される予定なので、実質的には保内衆が専売しているのと変わらない。だが、名目上の専売権を保内衆が持つのか、織田家が持つのかは伝次郎にとって大きな違いがあった。

 ―――益々……

 保内衆は織田家無しでは生きられなくなる。建前上、現在の商売は織田家の庇護の元で保内衆が独自に行っているが、安土に移住した後は名実共に『織田家の許しによって』営む物へとなってしまう。それは伝次郎のみならず世の全ての商人にとって衝撃的な出来事だった。

 元来商売とは市庭神いちばがみの御前で行う神事であり、だからこそ商人は素襖を着て烏帽子を被る。つまり商売とは『神仏の許しを得て行う』というのが建前だ。
 神事であるからこそ守護不入の地にも入ってゆけるし、政治に対して中立的な立場であるからこそ敵対する国にも立ち入ることが許される。

 それが『武士の許しによって行う物』となれば、必然的に敵対国での商売は難しくなるし、上級権力者である武士が決めた法に従わねばならない。信長が売るなと言った者には売ることが出来なくなる。
 商人にとっては武士によって安全を確保されることは大きな魅力だが、そのために商売の自由を失うというのは痛しかゆしという所だ。


 一つため息を吐いて伝次郎は後方を振り返る。
 荷駄と共に保内衆の面々も伝次郎に続いているが、見知った顔が半分近く居なくなっていた。いずれも安土移住を拒否し、ある者は商売を捨てて帰農し、ある者は京や堺で新たな商売を始めると言って出て行った。
 伝次郎としてもそれらの者を引き留めることは出来ない。もはや自分達の商いは織田家の為の商いへと形を変えた。世の人々の役に立つためにと累代商売を続けてきたが、自分の代で武士の為の商いをする破目になろうとは……。

 ―――思えば

 こうなることは必然だったのかもしれない。先代の伴庄衛門が六角家と接近した時、武士の為の商いとなる下地は出来上がっていたと言える。
 六角家は保内衆をあくまでも今堀日吉神社に仕える神人として扱い、銭や米・馬などの協力は要請してもその商売を制限することは無かった。だが、今でも六角家の近江支配が継続していれば、織田家と同じように保内衆の商売を制限しようとして来たかもしれない。武士の持つ武力によって楽市の平和を維持しようとした時に、こうなる運命は決まっていたのだろう。

 老蘇の森を抜けると右手に繖山が見えて来る。
 以前は山上に威容を誇った観音寺城も、今や建物は取り払われて在りし日の威容は失われている。変わって正面に見える安土山からは今も城普請の音が響いて来る。昔は良かったなどという感傷的な気分になり、続いて自嘲の笑みがこみ上げて来た。

「諦めている場合では無いな」

 伝次郎は頭を振ると、暗い顔を捨て去って前を向いた。既に西に傾きつつある夕陽が眩しく、思わず額に手を当てて目を細める。眼前には新たな住民を迎え入れるように町屋敷が軒を連ねていた。

「ともあれ、そこに品物を必要とする人が居る限り、我らの仕事は変わらんか」

 人がそこに暮らす以上、自分達が各地の品物を集めて来ることが人々の暮らしの役に立つことは変わらない。保内衆の独立だの、織田家の御用商人だのと小さいことにこだわることはやめようと心に決めた。

 ―――いっそ……

 もっと積極的に信長の天下取りに協力すればよいかもしれない。
 日ノ本中が織田家の領国か同盟国になれば、保内衆は日ノ本中で商売ができるようになる。商人が大きくなるということは、それだけ人の役に立っていることの証でもあるだろう。

 そう考えると伝次郎の気持ちはすとんと落ち着いた。どこまでも信長に協力してゆこうと心から思い始めた。
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