鶴が舞う ―蒲生三代記―

藤瀬 慶久

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第七章 蒲生賢秀編 本能寺の変

第88話 お鍋の方

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主要登場人物 別名

左兵… 蒲生賢秀 蒲生家当主 織田家臣
四郎左衛門… 青地元珍 青地家当主 賢秀の甥 青地茂綱の長男

上様… 織田信長 織田家当主

――――――――

 
 賢秀が安土の信長居館の廊下を歩いていると、一室から一人の女性が侍女に伴われて出て来た。
 出会い頭のことだったが、賢秀は即座に縁側に退いて膝を着く。

「これはお方様。お加減は如何でしょうか」
「……」

 賢秀の挨拶にも返事をせず、居室から出て来たお鍋が踵を返して居室へと戻った。慌てて侍女たちがお鍋を追いかけるが、賢秀はその後ろ姿をため息交じりに見送るだけだった。

 ―――やれやれ。

 昔の恨みを忘れろと言われても難しいのはわかるが、それにしてもお鍋の方の態度は徹底していた。安土居館で賢秀を見かけると物も言わず睨みつけているか、あるいは踵を返して離れていくだけだ。
 と言って、役儀柄安土居館を出る訳にもいかない。戦場での働きは物に慣れた賢秀も、こと女性と距離を縮めることは困難を極める。まして相手は自分のことを恨みに思っている女性だ。
 賢秀としてもこれ以上手に余る案件は無かった。

 ―――お腹の御子に影響が出なければよいが……。

 この時、お鍋の方は妊娠していた。
 既に側室として信長との間に一男を設けているし、他にも信長は多くの男子に恵まれてもいる。だが、腹の中の子は大事な信長の子だ。賢秀としても自分と顔を合わせることでお鍋の血の道が上がってしまわないか心配になる。
 信長が留守の間にお鍋の身に万一のことがあれば、賢秀の責任問題にも発展する。お鍋との関係改善は賢秀にとってどんな合戦よりも困難を極め、かつ必要に迫られた頭痛の種だった。


 天正四年(1576年)
 前年に武田勝頼を長篠で破って東国の情勢を安定させた織田信長だったが、二月には鞆に逃れた足利義昭の要請に応じる形で西国の雄・毛利輝元が信長包囲網に参加する。
 毛利からの後援を受けた本願寺顕如は勇気百倍し、四月には畿内の門徒に再び蜂起を促す。五万の兵を搔き集めた顕如に対し、信長も佐久間信盛、明智光秀、細川藤孝、荒木村重らを動員して石山本願寺に近い野田・守口・天王寺などに砦を築き、石山本願寺を包囲する態勢を整えた。

 だが、五月に入ると雑賀衆や根来衆といった紀伊各地の鉄砲兵が本願寺への援軍として参戦する。数千挺の鉄砲で武装した本願寺軍には歴戦の織田軍と言えども抗しがたく、木津周辺を制圧されると逆に天王寺砦に籠る明智光秀らが窮地に陥った。信長もこれを捨て置くわけにはいかず、援軍として僅かな手勢を率いて安土を出陣した。

 進藤賢盛や池田景雄に加え、青地茂綱の息子である青地元珍もとたかも佐久間・明智に従って摂津へ出陣している中、蒲生賢秀には安土居館の留守居役を命じられた。


 お鍋の方を見送った後、賢秀がぼおっと廊下で立ちすくんでいると後ろから賦秀が近づいてきて声を掛ける。

「父上、何かありましたか?」
「……いや、四郎左衛門は無事でいるだろうかと思ってな」
「……上様が捨て置けぬと直々に援軍に向かわれたのです。四郎左衛門のことも必ずや無事に救い出していただけましょう」
「……そうだな」

 安土居館の廊下からはるか西の空を見上げた賢秀は、甥の青地元珍が無事であるように心から祈った。志賀の陣で弟を喪い、今また弟の忘れ形見まで喪うことは心苦しい。叶うならば自ら駆けて助けに向かいたいとさえ思うが、留守居と言われたからには留守居役をしっかりと務めなければならない。
 賢秀としても信長を信じて待つしかない。

 ――それにしても。

 お鍋の方のかたくなな態度を何とかしなければ、その留守居役すら果たせぬことになるかもしれない。
 晴れた空からは今も続く普請の槌音が聞こえて来るが、賢秀の心にはどんよりとした暗雲が立ち込めていた。


「そういえばお主はここで何をしている? 大手門の束石を据えているのではなかったか?」
「いや、はははは。汗を掻いたので水を一杯所望致そうかと……」

 よく見ると賦秀の小袖は土で汚れ、しかも裾を端折ってたすきをかけている。見ただけで作業中に抜け出して来たというのが分かった。

「ここで自儘に振舞うな。あくまでもここは上様の居館。儂は上様から留守をお預かりしているに過ぎぬ。水が飲みたければ蒲生屋敷まで行け」
「ハッ! 失礼しました」

 一礼して賦秀が玄関に向かう。賢秀は再びため息を吐いて背中を見送っていた。



 ※   ※   ※



 ”かかれー!”

 信長の特徴的な声を聞きながら、滝川一益は軍勢と共に突撃体制に入る。
 既に先陣として佐久間信盛や松永久秀らが天王寺砦を囲む本願寺勢に突撃を開始している。一益は羽柴秀吉や丹羽長秀らと共に第二陣を務めていた。
 三陣目は信長本軍の突撃となる。つまり、一益らが突撃をためらっていれば主君を先に敵陣に突っ込ませることになってしまう。一益としても自ら手勢の先頭を切って駆けるしかなかった。

「行けや者ども! 後ろからは上様の御馬廻が駆けて来るぞ! 上様に遅れる者は武門の恥! 末代まで笑われると思え!」

 手勢を急かしながら一益は駆け続ける。不本意ではあったが、今は四の五の言っている場合では無かった。

 前方で爆音が響いたかと思うと、周囲を走る配下が数名倒れる。本願寺に雇われた雑賀衆の鉄砲が発射されたのだろう。

 ――ええい、折角鉄砲隊が形になってきたというのに。

 雑賀衆の鉄砲は一益の考える運用法とは全くの別物だった。雑賀衆は一人一人が熟練の鉄砲放ちだ。それだけに、並んで斉射だけという単純な運用はしない。
 並んで射撃を行う者も居れば、物陰に潜んで横や後ろから狙い撃ちされることもある。どこから撃たれるか分からない緊張感に一益も心の臓が掴まれたように苦しくなった。


 天王寺砦の救援に向かった信長は馬廻百騎と共に若江城に入った。しかし急な出陣命令でもあり、信長の元に参じた兵は総勢で三千。対する本願寺の軍勢は一万五千。
 だが、天王寺砦の明智光秀からは『あと三、五日も保たない』と悲鳴のような援軍要請が若江城へ届けられる。今少し兵が集まるまで待つべきだという一益らの進言を退け、信長は『目の前で家臣を討たれるのは武門の恥』と三千の軍勢を持って天王寺砦を囲む本願寺軍へ突撃を敢行した。

 信長の下知とあれば一益も不本意ながら天王寺砦に攻めかかるしかない。
 鈍重な鉄砲は速戦には邪魔になると思い、配下には乗れるだけ馬に乗せて残りの者は長柄槍で武装させた。鉄砲を使わない戦に慣れていないわけではないが、鉄砲隊を率いる身としては不本意極まりなかった。


 一益の思惑を余所に先陣の松永勢が本願寺の一揆勢を切り崩すと、目の前で乱戦が展開された。

「今だ! 先陣に続けー!」

 一益も勇躍して突撃し、松永勢が作った傷口を押し広げていく。一旦接近されると一揆勢は所詮織田軍の敵では無かった。
 一益も持ち槍を振るいながら、辺りの敵兵を当たるを幸い薙ぎ倒していく。

「砦まではあと少しだ! 者ども!ここで死ね!」

 配下を鼓舞しながら一人、また一人と一揆勢を突き倒していると、突如近くで轟音が響いた。
 一益が振り返ると、後ろから駆けて来る信長本軍に向けて雑賀の鉄砲が一斉に火を噴いた所だった。

「上様ー!」

 鉄砲の発射音に一拍遅れて、馬上にあった信長の姿勢が崩れて馬にうつ伏せに倒れ込む。鉄砲の弾をその身に受けたことは明白だった。

「あそこだ!」

 一益が槍で指し示す先では今しがた射撃を終えた鉄砲兵が二十人ほど固まっている。黒煙を上げる鉄砲を投げ捨てて太刀を抜いた敵兵は、続いて殺到した一益の軍勢の前に為すすべなく斬られ、突き殺されていった。

「一人も生かすな! 鉄砲持ちは全員殺せ!」

 必死になって敵兵を叩きながらも周囲には次々と鉄砲の発射音が響く。数千挺の鉄砲隊はそう易々と殲滅できる物では無かった。
 一益がまた一人敵方の鉄砲兵を突き殺すと同時に天王寺砦の方から歓声が上がる。

 ―――たどり着いたか!

 それは本願寺軍の包囲を突き崩した味方が天王寺砦に籠る味方と合流した歓声だった。
 一益は再び信長の方へ視線を巡らした。



 ※   ※   ※



「左兵殿、おどきなさい。今すぐに上様の元に参ります!」
「落ち着いて下され! お方様は何卒安土にて安静に願います。何度も申し上げる通り、上様の御身はご無事であります」

 安土居館では賢秀とお鍋が押し問答を繰り返していた。信長が天王寺の戦いで負傷したと聞いたお鍋は、身重の体を押して信長の元へ参るという。だが近江から摂津までは普通に歩いても五日はかかる。まして腹が大きくなったお鍋が歩いて行ける距離ではない。
 留守を預かる賢秀としては何としても行かせるわけにはいかなかった。

「上様は鉄砲で撃たれたと聞きました。こうしている間にも上様の身に万一のことがあれば……」
「足を撃たれただけにございます。それも今は手当を行い、その後も上様は陣頭にて指揮を取っておられるとの由。上様の御身はご案じ召されるな」

 天王寺の戦いにおいて銃撃された信長は、足に銃弾を受けて負傷していた。

 一方で天王寺砦の軍勢との合流を許した本願寺軍は、その後も陣を退かず木津にて陣形を建て直しつつあった。これを見た信長は、周囲の反対を押し切り、足の負傷も押して本願寺軍へ再度の攻撃を掛ける。二度目の織田軍からの攻撃によって本願寺軍は崩れたち、信長は石山本願寺の木戸口まで追撃を仕掛けた。
 終わってみれば二千七百あまりの一揆勢を討ち取る大勝利となった。

 賢秀の元には既に天王寺の戦いの詳細が届けられ、お鍋にも何度も話した。だが、お鍋は賢秀の言葉を頑なに信じようとせずに自らの目で確かめると言って聞かない。
 賢秀も困り果ててしまっていた。

「上様の御身に万一のことがあれば、私は……」

 泣き出しそうな顔で絶句するお鍋の方を見ると、賢秀も何も言い返せなくなる。だが、その時賢秀の頭に閃くものがあった。

「甚五郎殿からもお方様へ文が届きましょう。それであれば、某の言葉よりもご信用頂けるのではありませんか?」
「甚五郎が……甚五郎も無事なのですね?」
「某は左様に聞いております」
「……そうですか」

 途端に大人しくなったお鍋を見て賢秀もようやく表情を緩める。信長の身ももちろん心配ではあっただろうが、お鍋は長男の甚五郎の身こそ最も心配していたのだとようやく分かった。

 小倉賢治の長男であった小倉甚五郎は、定秀との約束通り小倉氏を捨てて今は信長の小姓として仕えている。昨年に元服を済ませ、今は信長の馬廻の一人として今回の天王寺の戦いにも参加していた。
 父親にとっては長女が永遠の恋人というが、母親にとっては長男がそれに当たる。長男の身を心配して取り乱すお鍋の姿を見て賢秀はほんの少しだけ親近感のようなものを感じた。

 ――甚五郎殿に文を出すよう頼まねばならんな。

 心配していた青地元珍も無事でいるという。賢秀としても一安心ではあった。
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