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七代 利助の章
第62話 国防
しおりを挟む1789年(寛政元年) 秋 江戸城本丸
『蝦夷地調査中間報告書
蝦夷地は広大で農業に適した地が多いが、商人が交易の利益を第一に考えるためアイヌによる農耕は禁止されている。
七万人ほどの人員を送り込めば、百十六万町歩余りの農地を開発でき、五百八十三万石の収穫が見込まれる。
蝦夷地の各場所は貸金のカタに商人が押さえており、商人が騙しやすいように日本語を使う事を禁止し、和風化を妨げている。
そのため、エトロフのアイヌは『赤人』と松前から得る米や酒、煙草などを赤人のラッコ皮と交換し、そのラッコ皮を松前に持ち込む事で生計を立てているが、取引は赤人に有利に設定されており、アイヌは赤人に従属しているような様相となっている。
クナシリにおいては操業する商人によりアイヌは非道な扱いを受けている。
男子は十五・六歳の嫁取りが出来る年代になればクナシリへ送られて過酷な労働に使われ、生涯を独身で過ごす。
女子は同じ年の頃になれば、和人の漁師や交易船の乗組員に慰み者にされ、また夫を持つ女性にも和人の『密夫』がひどく、償いを求めると夫を打ち叩き、場合によっては殺すこともある。
ヲショロやタカシマの辺りではアイヌも『自分稼ぎ』を行っているが、クナシリ・アッケシにおいては『自分稼ぎ』をする間もないほどに酷使されている。
このアイヌの扱いをそのまま続けては、アイヌはこぞって『赤人』に従属し、先兵となって我が国と戦うことも考えられる。
以上の調査結果により、下記の建議を行う。
一つ、蝦夷地の農地開発のため、非人を中心に七万人の移住を促進すべき事
一つ、蝦夷地の上知(知行地没収)によって商人によるアイヌの支配を止め、ご公儀によるお救いを実施するべき事
一つ、ヲロシヤとの関係は友好的に行い、かの国との交易を積極的に認めるべき事
以上 ご提案申し上げ候
宛 老中田沼侍従様 発 佐藤玄六郎』
松平定信は四年前に田沼意次に対して出された蝦夷調査の中間報告書をながめていた。
この年の五月に飛騨屋に非道な扱いを受けていたクナシリアイヌが蜂起し、ナメシのアイヌも同調して
飛騨屋の手代七十名余を殺害。
世に言う『クナシリ・ナメシの戦い』があった。
騒動自体は既に鎮圧され、現在は治安維持活動が行われているが、佐藤玄六郎の報告書にもあるようにロシア人がアイヌを先兵として騒乱を起こさせ、日本に侵攻してくるという風聞は幕閣の中でもまことしやかに囁かれていた。
蝦夷地の調査を主導していた老中田沼意次は二年前に起きた天明の飢饉の打ち壊しの責任を取らされる形で罷免され、現在では松平定信が幕府権力を握っている。
定信は一つため息を吐くと報告書を畳んで懐に仕舞い、評定の間へと向かった。
1789年(寛政元年) 秋 江戸城本丸 評定の間
「まず、この度の蝦夷地の反乱ですが、アイヌの酋長達は蜂起勢力に対し松前藩に協力。乱の鎮圧に一役を買っております。
風説にあるようにロシアが背後に居るのであれば、反乱はこの程度では済まなかったかと思われます。
また、隠密よりの報告でもロシア人はウルップ島には姿を見せていないとの由。
今回のクナシリ・ナメシアイヌの蜂起は、ひとえに飛騨屋の場所支配に反抗してのものであると思われます」
老中の松平信明が評定の場で状況を確認する。
クナシリ・ナメシの戦いによって松前藩から場所請負を取り消された飛騨屋が、場所請負取り消しの撤回とクナシリ・ナメシでの損失の損害賠償を求めて幕府に訴えた事の評定を行っていた。
「では、信明はこの件の背後にロシアの影はない、と申すのだな?」
信明の言を受けて、松平定信が改めて確認する。
「いかにも。此度の件は飛騨屋の過酷なアイヌ使役によるもの。飛騨屋にも同情すべき点はあるとはいえ、乱を招く原因となったことは紛れもない事実でございます」
「ふむ… 信じられぬな」
「定信様はあくまで背後にロシアの蠢動がある、と?」
「うむ。隠密の報告もロシアの蠢動を見逃しておるのであろう。必ずや嘘であると思う」
信明が不審そうな顔で定信を見る。
隠密の報告を信じなければ、他に江戸から蝦夷地の事を判断する材料などはないのだから、嘘であると言ったところで信じるしかないのだ。
信明の視線に気付いたのか気付かなかったのか、定信はしばし考えるとおもむろに発言した。
「蝦夷に改めて調査隊を送ろう」
「しかし、田沼殿の送られた調査隊の者達はすでに処罰してしまっております。
今から人員を選定するとなると…」
「単なる調査隊ではなく、アイヌへのお救いを併せて実施する」
「お救いを… ですか?」
「そうだ。そして、アイヌの者達としっかりと話をする中で真実を見極めよう。
佐藤玄六郎の上げて来た蝦夷開発の建議は魅力的ではある。だが、事実が見えなければどうしようもない。
まずはお救い交易によってアイヌ諸族を懐柔し、合わせて正確な情報を集める事とする」
飛騨屋の横暴をきっかけとして起こったクナシリ・ナメシの戦いは、乱そのものはすぐに鎮圧され、それもアイヌの酋長クラスは同調しない一部の暴発程度のものだった。
しかし、時期的にロシアの接近に対して何らかの対応を協議する必要に迫られた時期であり、松平定信は必要以上にこの乱の背後に居る(と勝手に推測した)ロシアへの対応に神経をとがらせた。
田沼意次によって提起された蝦夷地の開発は、国防上の理由を伴って日本とロシアの外交的案件へと発展していく。
日本の植民地とも言うべき蝦夷地は、今や日本国の防衛の最前線であると定信は認識していた。
飛騨屋は先納付分の運上金の返還を認められるだけに留まり、クナシリ・アッケシなどの請負場所は取り消しとされ、さらには松前藩主や藩士への貸金九千両の返還訴訟も、わずか七十両が返還されただけで決着となった。
国防の最前線の治安を乱した罪を飛騨屋に求め、その責任を取らせることで他の商人達にもアイヌへの扱いを改善するように求めたのだろうと思う。
1790年(寛政2年) 冬 蝦夷国福山 清部村
江差村近在の漁民達約三千名が松前城下を目指して徒党し、あわや一揆の構えを見せていた。
松前藩から仲裁を頼まれた『惣寺院』の僧侶は、清部村にて代表者と面会していた。
「この度の騒動を起こされた理由をお聞かせ願えまいか」
一人の僧侶が一揆の代表者に対して真剣な顔で問いかける。
「近年栖原屋、阿部屋の商売の仕方が我がままに過ぎ、それによって我ら江差の漁民は充分な漁獲を取れなくなっております。
両家が早いうちから大網操業で群れ来るニシンや鮭を取りつくしてしまい、大網〆油にてニシン粕に加工しきってしまう為に我らは充分な収入を得る事ができませぬ。
以前は請負場所で大網操業をしておってもここまで江差の漁獲がひどくなる事は無かった。
栖原屋、阿部屋の両家を追放し、元のように両浜組の商人による支配を再開していただきたく、お願いのために集団で訴えかけておるのです」
栖原屋、阿部屋は飛騨屋が呼び寄せた松前藩の『金主』で、松前藩としては多額の御用金を負担させている以上気を使わなければならない相手だった。
両家は松前藩への出資分を回収しようと、早いうちからニシンを大網で取りつくし、端からニシン粕に加工して出荷していた。
また鮭についても同様に早いうちから取りつくしてしまい、江差の漁民が漁に出る頃にはすでに鮭が十分に取れなくなっているという状態だった。
初物が珍重される江戸時代の風習の中で、少しでも早く取れればそれだけ高い値で売る事が出来た事が理由だった。
「我ら江差の漁民はロクに魚が獲れず、お救い米を頂いてなんとか食いつなぐという状態です。
その横で、早い操業で利益を上げる栖原屋や阿部屋の船が大量の鮭やニシンを積んで出航している。
今のままでは、我らは飢え死にするしかありませぬ」
訥々と訴える漁民の声に耳を傾けながら、僧侶は漁民たちの立場に理解を示しながらも、説得にかかる。
「お話はわかりました。ですが、お話のあった両家は松前藩にとって大きな御用金負担をしております。
両家を追放して元のように両浜組の支配に戻すというのなら、その御用金を両浜組に負担してもらわねばならぬ。
両浜組とても受けきれぬ話でしょう」
代表者はぐっと力をアゴに力を入れて僧侶を見返す。
「しかし、それでは我らは飢え死にするしか…」
「ですので、彼らに大網〆油の操業を禁止していただくよう、志摩守様へ言上いたします。
それによって、この騒ぎを鎮めていただけませんか」
「…」
僧侶は重ね重ね漁民たちを説得し、栖原屋・阿部屋両家の追放という騒ぎは収まった。
しかし、条件として付加されたはずの大網〆油の禁止は、請負場所に禁札を立てはしたものの事実上は見過ごされ、結局は大商人の言うがままに大網操業は行われた。
農業や商業において進展してきた資本の集中による富の蓄積は、蝦夷の漁業においても顕著となり、大商人による大網操業は莫大な利益をもたらす一方、零細漁民たちを雇われ労働者階級へと落としていく。
産物の開発を行った近江商人達を置き去りに、この頃には飛騨屋・栖原屋・阿部屋・伊達屋などの大商人達が蝦夷地の産物を牛耳る体制へと変わっていた。
商人の資本による利益至上主義の経営は、軍事上の懸念からアイヌの動向を注視する松平定信ら幕閣と対立することになり、もはや松前藩に蝦夷を任せておけぬという空気を幕府中枢部にもたらした。
この翌年に幕府はアイヌに対して『お救い交易』を実施する。
お救い交易は、今までの仕来り通りの交易を実施したに過ぎないが、量目が正しく品質の良いものを提供したのでアイヌは喜び、感謝した。
逆に言えば、飛騨屋たちの交易はそれほどに粗悪品を押し付け、量目も正直に渡さないという商売の信義則に反するふざけたものだったと言える。
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