近江の轍

藤瀬 慶久

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七代 利助の章

第61話 天明の八幡騒動

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 1786年(天明6年) 秋  近江国八幡町 総年寄会所



 八幡町の町年寄である畑屋源右衛門は、総年寄の村井金右衛門と内池甚兵衛に直談判を行っていた

「近頃の飢饉で町方一統は難渋の極みにあります
 ただでさえ米の値段が周辺村方の三倍になっておるのに、そこへ来て会所からの入用費が年々大きくなってきておる
 これは不審だということで、一度総年寄会所の帳面を検分させてもらいたいというのが町方の要求です」

 金右衛門と甚兵衛の二名は困り果てていた
 会所帳面の検分などされれば裏会計がバレてしまう事になる
 進退極まったと言える状況だった


 事の起こりは畑屋源右衛門の家に『惣町中』を名乗る者から張り紙がされた事だった
 総年寄が領主朽木家の御用や、町内の自治運営を行う為に町方から集めている会所入用費が年々多くなり、不審だということだった
 実際のところ、会所入用費は必要額以上に集めて裏会計で貯蓄していた
 といっても、総年寄が私腹を肥やしていたわけではない

 朽木家は飢饉の対応の為に、カネのある八幡町からあれよこれよとカネをせびっていた
 時には公用金だけでなく家老や代官の私的な借金まで八幡町民に負担させていたというから、呆れるほかはない
 毎月のように小遣いをせびられては、その度に町方に頭を下げながら集金することに嫌気が差した総年寄が、一度に多めに集めておいて、その中からやり繰りして朽木家の御用金を用立てる為に行っていたことだった

「総年寄は朽木家から任命されます。帳面の開示も、朽木様の陣屋にお伺いを立てなければ返答ができませぬ」
「金右衛門さん。それはおかしいでしょう。総年寄は町方から推挙されて朽木家から任命されます
 言うなれば総年寄は町方の代表。その帳面は町方の帳面です。町方の物を町方が検めるのに、何故朽木様の承諾が必要なのですか?」
「いえ、あくまで総年寄は朽木家から任命されております。帳面の開示については陣屋にお伺いを立てますので、しばしお待ちいただきたい」

 総年寄の二名はそう言って突っぱねた
 畑屋源右衛門は不承不承ながら一旦は引き下がったが、町年寄達は善住寺に集まって再び気勢をあげる
 もはや町方一揆寸前という物々しい気配が漂っていた

 町方の圧力に負けた総年寄二名は、独断で帳面の開示に応じる
 その中で不正に蓄財されていた会費は全て困窮する者に配られ、合わせて朽木家へ御用金の三十年賦を要求する
 朽木家では貧民に対して五十俵のお救い米を実施するが、たったの五十俵ではとても足りるものではなく、また三十年賦は意地でも承諾しなかった
 この騒動は次なる騒動の火種を残しつつ、表面上は年末に収束する


 この対立の根本には民権意識の発展がある
 朽木家では総年寄はあくまで朽木家から任命されるものであり、朽木家の意向を町方に知らしめる為の役儀だと認識していた
 しかし、町方にとっては町方の代表であり、町方の利益を朽木家に訴えて調整していくのが総年寄の役割と認識している
 言い換えれば、領主権と自治運営権の矛盾を一手に引き受けさせられたのが総年寄という役職だった

 市民の生命と財産を守らない領主などは必要ないし、その領主の手先となっている総年寄などは罷免せよと町年寄達は集団で強訴した
 歴史の中に埋もれた知られざる市民権闘争であり、最終的に流血無く終わった点でイギリスの名誉革命にも比肩しうる民主制へと至る民権運動の走りだった



 1787年(天明7年) 冬  近江国八幡町 朽木陣屋



「この度の騒動は御法度の徒党筋に当たる違法な一揆であり、主導した畑屋源右衛門の遺族は領外追放。主導的立場にある手習師の半治と川内屋宇兵衛は手鎖押込め、薬屋五兵衛は蟄居閉門とする」
 朽木家家老の吉川丈右衛門が陣屋のお白州で町年寄達を前に判決を読み上げる
 畑屋源右衛門は正月に病で倒れ、そのまま帰らぬ人となっていた

「お待ちください!ご法度の徒党筋とは納得がいきませぬ!そもそも、会所帳面は町方の帳面でしょう
 それを開示せよという事に一体何故一揆と言われなければならんのですか」
 手習師の半治がお白州から家老吉川に訴えた

「黙れ!そもそも総年寄は領主家の末端組織であり、町方の庄屋ともいうべきものだ
 総年寄は町方へ朽木家の意向を知らしめるためのものである
 その方らは総年寄から言われた通りの事を町方に周知徹底させておれば良いのだ!」

「何を馬鹿な事を!そもそも朽木主膳様が豊かな財政を確保されておるのは、富裕な八幡町の協力があったればこそでありましょう!
 八幡町は諸役免除。権現様の認められたこの原則を徹底するのなら、朽木様の御用金を請けるいわれはない
 御用金はひとえに町方の協力あってのものでございます!極論を言えば、我らあっての朽木家でありましょう!」
「ええい!黙れ!この痴れ者を牢に閉じ込めよ!」

 昨年以来、町方を先導してきた手習師半治は手鎖を掛けられ、牢に幽閉される
 町方にはいよいよ不満が募り、町中に不穏な空気が充満していった

 この裁きで、朽木家の意向を最優先せよという家老吉川と、町方の難渋を見捨ててカネだけせびる領主など領主とは認めぬという町方の衝突は決定的なものになり、八幡町では開町以来初めての打ち壊しが発生する
 打ち壊しなど発覚すれば幕府に改易されるいい口実になると危惧した朽木家では、方針を変えて町方との歩み寄りを模索した



 1787年(天明7年) 春  近江国八幡町 山形屋



 家督を譲って甚五郎と名を改めていた先代理助は、朽木家家老の吉川丈右衛門を招いていた

「この度は、町方の騒動を鎮めて頂いてまことにありがとうございます」
「いえいえ。吉川様とは長い付き合いでございますからな」
 江戸から急遽戻った当代利助を始め、町の富裕商達の説得によって打ち壊しの騒動はその日のうちに収まり、天明の町方騒動は公式には『無かった事』になった
 騒動を収める中で手鎖押込めとなった手習師半治や川内屋宇兵衛の処分は撤回となり、畑屋源右衛門の遺族の所払いも解けた
 八幡町では一見いつもの日常に戻っていた

「おかげでご公儀に知られる事なく処理することができました。ですが…」
「御用金がどうしても必要なのですな?」
「はい」

「大坂の大番役(警備担当)を申し付けられたのでしたな。それでどうしても今カネが必要だった」
「何故それを…」
「はっはっは。こう見えて手前どもは地獄耳でございましてな。息子が江戸の大目付様より伺って参りました」
 既に真っ白になった頭を上品に傾けながら、甚五郎が穏やかに笑う

「お恥ずかしい話でござる。我が殿には大番役を仰せ付けられても、それを実行するためのカネも人も足りませぬ
 どうしても豊かな八幡町の資力に頼らざるを得ないのです」
「承知しております。朽木様の御用金は八幡町が請け負いましょう
 我が山形屋が全責任を持ちまする」


 結局、朽木家の御用金は富裕商達が中心となって負担する事となり、朽木主膳は大坂大番役をつつがなく務め終える事が出来た
 町方難渋の根底には天明の飢饉があり、山形屋や扇屋、大文字屋などが共同で長命寺にて飢民に粥を振る舞って私的なお救いを実施する
 お救いによって八幡町周辺では天明の飢饉による餓死者は出なかった



 1787年(天明7年) 夏  近江国八幡町 山形屋



 西川甚五郎は『扇屋』伴伝兵衛と『大文字屋』西川利右衛門と共に語り合っていた

「今年は天候不順も回復し、物成も改善しそうですな」
「ええ、食う物が無くてはどうしようもありませんからな」
「しかし、昨年からの騒動で人死にが出なかったことは幸いでした。野田屋長兵衛殿の二の舞は御免ですから」
「山形屋さんにすこぶる働いて頂いたからこそでしょう。おかげで、町方の入札いりふだ(投票)によって『町中惣代』を選出する事にもなりましたし、結果だけ見れば上々の首尾でした」

 天明の騒動はこの六月を持って完全に収束するが、これによって町方の意中の者を『町中惣代』とし、総年寄の補佐として監視させることに成功する
『選挙』によって市民の代表を選び、その代表者が『行政組織』を監督する制度は、現在の国政選挙にも導入されている非常に先進的な制度だった
 八幡町ではこの後も総年寄は朽木家の意向に忖度した運営を行うが、その実体は騒動以前とは大きく違い、封建制の中に一部民主制が導入された自治運営を行った

 自由民権運動に先駆ける事百年余り前に起こった大事件だったが、公式的には記録が抹消されたため、今にそれを伝えるのは当時の騒動を生きた人々の日記だけになっている

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