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甲斐の虎暗殺計画

漲る決意

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―――

「はぁ~……緊張したけど何とか渡せたな。後はさっさと帰って……」
「信長公の使いが来ていると聞いて見に来たが、お主じゃったか。」
「えっ……!?」

 後ろから聞き覚えのある声が聞こえて、思わず立ち止まる。


(この声は……武田信玄!)

 恐る恐る振り返るとそこには予想通りの人物がいた。


「え、っと……お久しぶりです。今日は信長様に言われて味噌を届けに……」
「あぁ、聞いておる。今厨房に見に行ったところじゃ。わしは味噌が大好物での。有り難く頂戴する事にしよう。……何か不純物でも混ざっていないか、確認した上でな。」
「……っ!」

 ビクッと体が震える。背中に汗が垂れるのを感じて蘭は焦った。


(ヤバい!毒入りだってバレた……?)


「こ、今年の味噌は最高に美味しく出来たのできっと満足されると思いますよ。信長様も毎日のように召し上がっておられます。」

 精一杯の作り笑顔でそう言うと、信玄はしばらく様子を窺うような素振りを見せた後で表情を和らげた。


「それでは早速今晩にでも頂くとしようかの。」
「はい。……じゃあ俺はこれで失礼します。」
「もう行くのか。」
「えぇ。早く帰らないと信長様に叱られるので。」
「折角だから今日は泊まっていけばよい。そうじゃ、頂いた味噌でご馳走を……」
「いえ!お、俺は結構です!俺のような足軽の分際で一人でこのようなお屋敷に泊まるなど……」

「そうか。それは残念。……時にお主。」
「は、はい?」
「わしの力が効かぬようだが一体何者じゃ?」
「何者……って、俺はただの足軽で……それに力って何の事ですか?」

 信玄に鋭い目で見つめられ、冷や汗が流れる。それでもここで焦ったり逃げ出したりしたら余計に怪しまれるだろうと思った蘭は、視線を逸らさずにじっと見つめ返した。


(甲斐の虎と呼ばれているだけあって流石に迫力が違うな。今川義元も貫禄があったけどあっちは狡猾な感じで、信玄は何だろう……やっぱり静かに相手を威嚇する虎……)


「まぁ、よい。お主が何者だろうとわしには関係がない。信長公に伝えてくれ。味噌は有り難く頂くが、だからといって貴様の思い通りにはさせんとな。」

 そう言って信玄は徐に踵を返すと、廊下の奥へと去っていった。


「……ビビったぁ~…」

 小さく呟く。その時初めて足がぶるぶる震えている事に気づいてその場にしゃがみ込んだ。


「でも……俺が今日持って来た味噌を食べて信玄が死んだら、人殺しって事になるんだよな。」

 蝶子の顔が浮かんで消える。その顔は怒りの形相でガミガミと文句を言っている時の表情で、こんな時なのに笑ってしまう蘭だった。


「何か変な感じだな。ついさっきまで普通に会話してた人の命を、俺が奪う事になるんだから。俺の知らないところで徐々に命がすり減っていって、いつか消える。直接斬ったり差したりして目の前で死んでいくのを見るのと、どっちが罪深いんだろ……」


 蘭の独白は夕暮れの風に巻かれて消えていった。



―――

「お待たせしてすみません!仁助さん。」
「いやなに。無事に渡せたか?」
「はい。ちょっと恐かったけど、もう後戻り出来ないと思って頑張りました。」
「そうか。」

 外で待っていた猿飛仁助は短く言うと、辺りをきょろきょろと見回した。


「つけている輩はいないようだな。それでは帰ろうか。」
「はい。」

 蘭と仁助は揃って帰り道を歩き始めた。



「それにしても良かったですね。晴れて信長様の家臣になれて。」
「あぁ。蘭丸のお陰だよ。あの時拙者の前に現れてくれたからこそ、こうしてここにいる事が出来る。本当に感謝している。」

 そう言って頭を下げる仁助を見た蘭は慌てた。


「そんな!俺の方こそ助けてもらってありがとうございました。貴方がいなかったらどうなっていたか……」

 蘭は崖から落ちて怪我をした時の事を思い出した。


 金ヶ崎城に向かう途中で浅井長政が裏切ったと市から連絡をもらってすぐに引き返そうとした時、蘭は誤って崖から落ちて怪我をした。崖下で途方にくれていたところをこの猿飛仁助に拾われて手当てをしてもらったのだ。あのまま何の処置もしなかったら熱が下がらず、もしかしたら大事になっていたかも知れない。まさしく命の恩人という訳だった。

 そして偶然な事に猿飛仁助は織田信長に仕える事を夢見ており、この事がきっかけで念願叶って信長専属の忍者になったのだった。


「ねぇ、仁助さん。」
「何だ。」

「人を殺すってこんなにも恐い事だったんですね。俺、何も知らなかった。何も知らないでただ見ているだけだった。この世界の人達はみんな、こんな思いを抱えたまま生きているんですね。」
「蘭丸……」
「なんて、俺はただ味噌を運んだだけですけど。」

『ははは。』と乾いた声で笑うと、仁助は突然立ち止まった。


「仁助さん?」
「人は死ぬ為に生きている。」
「……え?」
「小さい頃、父にそう教わった。」
「死ぬ為に生きている……」

 ぽつりと呟く。すると仁助は蘭の肩にぽんと手を置いた。


「人はいつか必ず死ぬ。死なない人間などいない。しかしその理由はその人の生き様で決まる。」
「生き様……」
「しかし今の世の中は生き様がどうであれ、他人によって無条理に奪われる。道理に反するかも知れないが人が人を殺めるのが普通の世の中。」

 そこまで言うと、仁助は一度大きくため息を吐いた。そしてまた話し始める。


「拙者はそのような世の中は間違っていると思う。思うがどうする事も出来ない。だが誰かが終わらせないといけないのだ。誰かが。」
「それが信長様だと?」
「拙者はそう感じている。人の生き血と涙で凝り固まった世界は、拙者達が何とかしないといけない。父が言った死ぬ為に生きる……いや、死ぬ間際に良い人生だったと思える平和な世に、あの方がして下さると信じているのだ。」
「その為に罪を犯しても?」
「そうだ。」
「それで平気なんですか?仁助さんも信長様も他のみんなも。平気な顔で人を……」

 蘭の目から大粒の涙が溢れてくる。今まで考えないようにしてきた事だったが、自分が犯罪の片棒を担いだ事で一気に感情が爆発したようだった。

 戦国の世であるから仕方がない。誰かがやっているから自分もやる。それを平気な顔で当たり前のようにやっているのが、今更だが恐くなったのだ。


「……平気な訳がなかろう。」
「え?」
「鬼や悪魔であるまいし、みなが心のどこかで罪悪と戦っている。人間なのだからな。」
「あ……」

 仁助のその言葉で、蘭の胸に支えていた何かが取れた気がした。


(でも……世の中を変える為にその悪魔になろうとしている人がいるんだよな。そしてその人を俺は、助けたいんだ。)


 蘭は顔を上げて空を見上げる。その表情はさっきまでの弱気なものではなくて、何かを吹っ切り決意を新たにした顔であった。



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