かさなる、かさねる

ユウキ カノ

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6.開かない扉

6-①

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 期末テストは、思った以上にあっけなく終わった。あたりまえだ。端からやる気なんて微塵もない。スケジュールどおりに、配られる紙とにらめっこをするだけだ。席にじっと座って、ペンを動かしていればいい。それでもシュウのおかげか、俺も武本も半分は赤点を逃れることができた。
「いいか、赤点あったひとは補習だからな」
 担任が事務的に手元の手帳を見ながら声を張りあげた。夏休みは俺と武本、ふたり仲良く補習の予定だ。去年もおなじことを体験しているから、あまり抵抗は感じなかった。
 面倒くさいと感じる瞬間なんて毎日何回だって訪れる。眠い身体を布団からはがして起きる名残惜しさや、満員のバスに揺られて通学する苦痛は、でも慣れてしまえば気にならなくなった。朝がきて、昼になって、そうすれば必ず夜がくる。今日がくれば明日になるし、眠れないほどつらいことはめったに起こらない。
 起こらないはずだった。つい先日、俺は自分以外の人間のために、眠れない夜をすごしたのだ。目の前に座るシュウの背を見つめる。陸上バカのこの俺が、走ること以上に気になっているのはこいつの存在だった。
「俺も補習受けるよ」
 昼飯を食べながら、シュウは当然のようにそう言った。あいかわらずメロンパンをゆっくりと食べるその姿に、最近ではもどかしさすら感じる。食が細いから手首も細い。うっかりすると、シャツの袖から傷が見えてしまうのではないかとひやひやするのだ。
「ふたりとはちがう補習だけど」
 困ったように笑って、シュウが首を傾ける。それを受けた武本が音を立てて椅子から立ち上がった。
「お前それ頭いいやつの講習だろ!」
 シュウの成績がいいのは周知の事実だ。自称進学校のこの高校は、二年生のうちから大学進学のための夏期講習がある。すこし考えればわかることだった。シュウが俺たちと一緒の補習を受けるわけがないのだ。
「見下してるだろこいつ」
「いやいやそういうやつじゃないって」
 武本がシュウに突っかかっていくのを適当に止める。武本もシュウが俺たちを本気で下に見ているなんて思っていないだろう。こういう戯れを武本は気に入っているのだ。シュウも笑って受けとめていて、たのしそうだ。
 そう思った。
 でもメロンパンを食べ終わって、俺たちの食事が終わるのを待っているシュウが、くっと左の袖を引っ張ったのを見て、俺は頭を鈍器で殴られたような気分になった。
 シュウはいま、なにか強いストレスを感じている。原因を必死に考えて、もしかして、と思いあたる。今の武本のことばにシュウは傷ついたのか? はっきりうそだとわかることばで?
「俺トイレいってくる」
 俺が愕然としているあいだに、シュウは席を立っていった。律儀にリュックからハンカチを出してから去っていったその後ろ姿を、武本が話しつづけるのを無視して目で追いかける。いつもどおりの背中だ。細くて、ひょろりと長い。その後ろ姿に、遠い日の美奈子が重なる。なぜか、胸騒ぎがした。
「なあ聞いてんの、明」
 武本が不満そうに口を尖らせて俺をつつく。ごめんごめん、と笑い返して向きなおったけれど、頭のなかはシュウのことでいっぱいだった。
 あの日、あの放課後、人気のないトイレの前で見かけたシュウの姿。その手のひらに伝わる赤い筋が脳裏によみがえる。暗がりになった廊下の湿っぽい冷たさと、肌を舐める生温かい空気がいま、実際にここにあるみたいだった。
 シュウが戻ってくるのが遅い。開いた窓から風が直接あたって涼しいはずなのに、嫌な汗が止まらなかった。唾を飲みこむ音が頭のなかに響いて、自分が緊張しているのだとわかった。
「……っ武本、俺もトイレ」
 耐えきれなくなって立ちあがる。椅子の音に驚いたらしい武本の声が後ろから聞こえたけれど、無視して教室を飛び出した。気をつけないとすぐ回転数をあげてしまう足を抑えるように廊下を駆ける。
「うわっ」
 曲がり角を曲がる。クッションのない内履きの底を意識して蹴りだした瞬間、ひょろりとした身体と鉢合わせした。シュウだ。
 なあ、と声をかけようとして、開きかけた口を閉じた。ひゅっとのどが鳴る。
「……シュウ」
 見あげたシュウの表情は、いつもとなにも変わらなかった。ひとの良さそうなさがり眉の顔が俺に向けられている。でも、俺にはわかった。シュウはうつむいて俺から視線をそらそうとしていた。あきらかに動揺している。あの日見たシュウの表情だ。
 シュウの立ち方が左手をかばっているように見えて、背中に一筋、汗が流れる。シュウの左腕に変に力が入っていて、身体からすこし離れていた。右手に握られているハンカチから覗く細い文房具がなんのために使われたか、想像したくもなかった。
「シュウ」
 二度も名前を呼んでしまった。二回目は、まるで責めるような響きで廊下の冷たい床に落ちた。学校中から、昼休み特有のざわめきが聞こえてくる。笑えるような気分ではないのに、なんだかおかしな気持ちだった。俺たちはいつも、昼休みの喧騒のなかでこうして向かいあっている。
「なあ、お前いまやってきた?」
 なにを、とは訊かなかった。口のなかが乾いて、のどが貼りついたようにうまく動かない。シュウの顔から、さっと血の気が引いた。それを見て俺は確信する。シュウがこの顔をするときはイエスだ。こいつは、いま確実に自分の身体に傷をつけてきたのだ。
 やるせなさがふつふつと湧きあがる。どういう種類のものであれ、シュウがさっきの俺と武本の会話に不快感を覚えたことはたしかだ。そしてそのせいで、シュウはいま、痛みを味わっている。
 原因を作ってしまった。その場にいたのに、予感があったのに、止められなかった。
「言えよ!」
 気づいたら叫んでいた。叫んでから、はっとしてシュウの顔を覗き見る。目の前のひょろりとした背を見あげると、シュウは驚いて肩を縮こまらせていた。どうしよう。どうしよう。パニックになって、頭のなかがぐちゃぐちゃになる。廊下を曲がった向こうから「なんの声?」「さあ、ケンカかな」という声が聞こえてきて、頭にのぼっていた血が、ふっとさがった。
「……ごめん、でかい声出して」
 でも、とことばを繋げて、でも、次の台詞は見つからなかった。
「ここで待ってて」
 そう言ってから、シュウに背を向けた。今度は全速力で廊下を駆け抜けて教室へ戻る。廊下の端から、教室のなかから、好奇の目がこちらを見ているのがわかる。武本は俺の席から離れていた。好都合だ。話をしている暇はない。机の脇にかけてあるセカンドバッグをひっつかんで、もう一度トイレのほうへと足を前に踏み出した。
 シュウが待っているかどうかは、正直賭けだった。でも廊下の角を曲がったとき、シュウが所在なさそうに壁に背を預けて立っているのが見えた。俺が走ってきたのを見て、また驚いたような表情に戻る。安心して、俺はたいしてつかれてもいないのにひとつおおきく息を吐いた。
「ついてきて」
「え、でも授業が」
 また大声をあげそうになるのを、なんとかすんでのところで堪える。こんなときでも授業の心配をしているのがシュウらしくて、そしてとても、かわいそうに思えてしまった。こういう気持ちをなんと言ったのだったか。そうだ、このあいだ教科書に出ていた。あのときはわからなかったけれど、「いじらしい」とは、こういう気持ちのことか。
 予鈴が鳴っても、俺は歩みを止めなかった。生徒玄関で靴を履き替えるときに、武本の靴箱を覗く。陸上部員ならだれもが自由にとることのできる鍵はそこで管理されていて、薄汚れたマスコットのついたその鍵を持って外へ出た。ときどきシュウが後ろからついてきていることを確認しながら、部室棟のほうへと向かう。陸上部の部室くらいしか、学校でサボれる場所を知らなかった。そう思えば俺も真面目なのだ。授業なんて面倒くさいといつも思っているのに、サボった記憶なんて一度もなかった。
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