夏のお弁当係

いとま子

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28.たった四文字

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 目を瞑ったが、瞼の裏に賢治くんの顔が焼きついて眠れない。
 僕は目を開けて、仕方なく再び天井の木目を眺める。
 そういえば、前にも眠れなくなったことがあったな、と思い出した。あのときは、井村さんが来たときだった。井村さんにまだ好きだと言われて、悩んでいたときだったが、もうずいぶんと昔のことのように感じる。
 賢治くんが外にいて、下から何かを投げていたんだよな。
 僕は、誘われるように布団から起き上がり、窓の外に目をやった。
 庭先に、動く影があった。タヌキかイノシシか、と思ったが違った。よく見ていると賢治くんが庭の真ん中に突っ立っていた。じっと佇んで空を見上げている様子は、何かの儀式のようにも見える。僕は少しの間、その姿に見惚れた。
 しばらくして、振り返った賢治くんと目が合った。気まずさに片手を挙げてごまかすと、賢治くんに手招きをされる。
 僕が庭先に出てくると、賢治くんは天を指さした。

「星、見に行きませんか?」

 僕は空を見上げる。ここからでも十分に星は見えた。しかし僕は黙って頷いた。
 淡い暖色の懐中電灯だけを頼りに、暗闇の中を慣れた様子で歩き出した賢治くんの後を、つかず離れずの距離を保ち、ついていく。先が見えない暗闇の中で、賢治くんの背中は頼もしく、寂しくも見えた。
 賢治くんとはほとんど言葉を交わすことはなかった。耳に届くのは、二人の足音と、虫の鳴き声だけだった。昼間の暑さも和らぎ、時折吹く風で、秋が近づいているのを感じた。
 やってきたのは海辺だった。一度、稲刈りの後に賢治くんと穂高くんと三人で訪れた場所だ。あの時見た景色とは、当たり前だろうが、全く違って見えた。夜の海はすべてを静かに飲み込んでしまいそうな怖さがあった。
 潮の香りを吸い込んでいると、賢治くんはおもむろに砂浜に寝転んだ。

「この方がよく見えますよ」

 言われて、僕もその隣に同じように寝転ぶ。

「わあ……」

 思わず僕は声を漏らした。
 そこには見たこともない満天の星が広がっていた。夜空にまぶされた白い粒が、川の水流のようなうねりを作っている。すべての星がこちらに落ちてきそうにも、僕たちが星のほうに吸い込まれそうにも感じた。

「きれいだね。こんなにたくさん星があるのなんて知らなかった」

 賢治くんは、すっと右手を天に伸ばした。

「あっちの灯台の上辺りにある、一番てっぺんの明るいやつがベガ、こと座で、天の川を挟んだあっちのやつがアルタイル、わし座です――織姫と彦星ですよ。で、ベガが直角になるようにして結んだあっちのやつがデネブ、はくちょう座です。三つを結んだのが、夏の大三角になるんです」

 賢治くんが指をさして教えてくれるが、明るい星なんてたくさんあって、どの星がどれだかわからない。夏の大三角なんて小学生のときに習ったきりで、もう二十年近く昔だ。今僕たちが見ている星の光が何百年、何千年前のものだと思うと、自分がひどくちっぽけなもののように思える。

「わし座のアルタイル、彦星は農事と耕作をつかさどる神らしいですよ」
「詳しいんだね」
「好きなんです、」

 どきりとする。賢治くんを見る。賢治くんもこちらを向いて微笑んでいた。

「雨恵さん――」

 僕を呼んだ賢治くんは、真剣な顔で真っ直ぐに僕を見ていた。その唇が触れた目の端が、じんわりと熱を持ち始める。
 僕は目を逸らせない。見つめあったまま、絶え間なく届く波の音だけが、時間が止まってないことを教えた。
 賢治くんは、いつまで経っても後の言葉を続けなかった。

 ……すきです。
 僕は賢治くんのことが好きです。いつの間にか、すごく好きになってた。優しいところも、かっこよくて頼りがいがあるところも、美味しいと笑って、たくさん食べてくれるところも、笑顔も声も仕草も、全部。
 僕はお嫁さんにはなれないけど、ずっと一緒にいたい。賢治くんの隣にいたい。
 これからも、僕は……。

 僕は泣きそうになりながら、何度も溢れそうになった言葉を必死で飲み込んだ。
 たった四文字だけでいいのに。
 肺が潰れそうなほど胸が痛い。喉が苦しい。
 賢治くんの幸せを思うなら、僕は、僕なんかの気持ちは――。
 しばらくして、賢治くんは息を吐いた。夢から覚めたように、波の音がやけに大きく聞こえた。
 僕はなにかを失って、この瞬間に終わったのだと察した。
 そして、賢治くんは、初めて不器用な笑顔を見せた。

「いつか雨恵さんに、雨恵さんを世界一幸せにしてくれる、素敵な恋人ができるといいですね」

 そうだね。ありがとう。頑張るよ。
 僕はそんな簡単な一言も言えないまま、賢治くんから、再び星空へと視線を移した。
 賢治くんはきっと、星のことが好きだといっていたんだ。だから、言わなくてよかった。我慢できてよかった。

「今年の夏はすごく楽しかったです。また来年も来てください」

 僕は、賢治くんに教えてもらった夏の大三角がわからないから、夜空に浮かぶ星々を勝手に結んで三角形をたくさん作りながら、賢治くんの言葉を受け入れようとした。
 来年。僕はなにをやっているだろう。穂高くんは二年生になっていて、今よりももっと元気で力強い男の子になるはずだ。幸久さんは帰ってくるだろうか。おじいさんもおばあさんも、今と変わらず、元気で過ごしてくれているといい。賢治くんには素敵な恋人、もしくはお嫁さんがいて、
 僕はまだ、賢治くんのことが好きなのだろうか。

「……雨恵さん?」

 涙が溢れ、頬を伝って流れた。押しとどめていた気持ちは決壊し、声が震えた。

「……ごめん」

 涙でぼやけて、せっかく教えてもらった星座が見えなくなってしまった。どれが彦星だったんだろう。農事と耕作の神様なら、それに従事する賢治くんを、世界で一番幸せにしてくれてもいいんじゃないか。
 涙と一緒に、思い出も溢れてくる。楽しかった。いろんな経験をした。助けてもらった。かけがえのないものをたくさんもらった。

「ごめんね……」

 もう一度つぶやいたとき、以前言ってくれた、賢治くんの言葉を思い出した。

『謝らないでよ、雨恵さん。こういうときは――』

 僕はぐっと、手の甲で涙を拭った。

「ありがとう。賢治くん」

 

 帰り道、賢治くんは黙って僕の手を握った。ここまで暗いのなら、人がいたとしても見えないはずだ。それでも離さなければと思うのに、手を振り払わなかった。離れたくなかった。ただ、罪悪感で心はつぶれそうだった。
 賢治くんが星座を教えてくれたのに、僕はずっとうつむいて歩いた。
 夏が終わる。でも僕はまだ、終わらせたくはない。
 母さんから出た宿題も終わっていないのに、このまま帰るわけには行かない。

「……砂だらけになったね」
「ああ、そうですね。ざらざらします」

 賢治くんは空いた手で、シャツの後ろをつかみ、仰ぎながら砂を落とした。

「寝転んだのは失敗でしたかね。家に上がる前に砂を落とさないと」

 僕は一度、喉を鳴らした。

「……シャワー、浴びに行こうよ」
 
 平静を装った。

「僕の家まで」

 賢治くんが足を止める。僕の手はつられて引っ張られ、立ち止まった。賢治くんは目を見開き、固まっていた。声は、震えていなかったはずだ。

「このままだと、賢治くんの家には帰れないでしょ?」

 口角を上げて見せる。露骨に誘っているのがありありとわかった。
 自分の気持ちも言えなかったくせに、みっともなくあがこうとする。端から見れば滑稽で、意味がわからない。自分でもどうするのが正解かわからないのに、焦燥感に突き動かされる。
 このまま、賢治くんと離れたくはない。
 賢治くんは何も答えない。さっきとは立場が変わり、僕が賢治くんの手を引き、前を歩いた。
 母さんの実家の前に着く。大浦家にお世話になってから、帰ってきていないので施錠されたままだ。こんなところで立て付けの悪い裏口が役に立つとは思わなかった。
 裏口のほうへと回り、ドアを持ち上げるようにしながら、ドアノブを回した。コツがあるとはいえ、たったそれだけの作業のはずなのに、三度、失敗した。落ち着け。「先にシャワー浴びるから」と、僕は賢治くんを玄関で待たせて、さっさと風呂場へと向かった。
 服を脱ぎ、蛇口をひねる。冷たい水が降り注ぎ、熱暴走する僕を冷静にしていく。
 抱いて欲しいのだろうか。一夏の思い出が欲しいのだろうか。甘い言葉を囁いてほしいのだろうか。男でも関係ないと将来を誓ってほしいのだろうか。
 賢治くんは、女の子が好きなのに。
 水が伝う自分の身体に触れた。今ほど自分が男だということを恨んだことはなかった。
 ……無理だ。これ以上は求めてはいけない。
 タオルはあったが、着替えがないことに気づいた。間が抜けている。自嘲めいた笑みを浮かべながら、砂をはたいただけのシャツに袖を通す。残った砂が、ざらりと肌を傷つけた。
 賢治くんと入れ替わる。しばらくしてシャワーの音が聞こえてきた。
 僕は玄関先に腰を下ろした。もう夏が終わるのか、だいぶ肌寒くなった気がする。繋いでいた手はとっくに冷たくなっていた。僕は腕を擦りながら、賢治くんが来る間、暗闇をぼうっと見つめ続けた。

「雨恵さん――」

 賢治くんに呼ばれ、なにか言われる前に、僕は振り向き、口角を上げる。

「帰ろう、賢治くん」

 うまく笑えただろうか。

「早起きして、お弁当つくらないと」

 賢治くんは口を開きかけたが、黙って頷いた。
 それから賢治くんの家までの夜道を、無言で歩いた。もう手を繋ぐことはなかった。
 こんな遠回りをして、僕は賢治くんからの告白を待っていた。「すきです」と、たった四文字を引き出すために、馬鹿な真似をした。
 好きな人のほうから告白してもらいたい、なんて、ロマンチックな願望ではない。とても臆病で、卑怯な理由。
 賢治くんが好きだと言ってくれたら、僕は断われないのに。
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