夏のお弁当係

いとま子

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29.最後のお弁当

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「わかった。ありがとう」
 
 母さんが切るのを待って、僕は受話器を置いた。いつの間にか賢治くんが隣にいて、電話の内容が気になるのか、ちらりとこちらの様子を伺っている。僕は微笑んで見せた。

「そろそろこっちに帰って来いって」

 賢治くんは一瞬目を見開き、視線を落とした。じっと白い電話機を睨んでいる。

「ずいぶん、急ですね」
「もともと長くこっちにいるつもりもなかったんだ。就職先も探さないといけないし。居心地がいいから、つい、居座っちゃった」
「そんな……頼んだのは俺のほうですし」

 賢治くんは頭をかいて呟いた。

「……居心地いいなら、ずっとここにいればいいじゃないですか」

 嬉しい誘いだったが、僕は首を横に振った。

「母さんの知り合いの会社を紹介してもらったんだ。話聞くなら、早いほうがいいって言うから」
「そう、ですか」
「急だけど、明日には帰るよ。ちょうど、穂高くんの夏休みも終わるしね」

 そして、僕の夏休みも終わる。
 明日はとびきり美味しいお弁当を作ってあげよう。僕は、お弁当係だから。



 この昼食が、ここでみんなに振舞う最後の料理だ。
 食卓に並べられた海老天そばとサイダーを見て、幸久さんは笑っていた。

「すごい組み合わせだ」
「これがつくりたかったんです。賢治くんの好きなものなんで。あ、カレーもつくったので、夕飯にでも、よかったら」

 カレーには、大浦家の前の畑で採れた野菜をたくさん入れた。賢治くんと幸久さんは海老天そばを食べながら、カレーも食べていた。穂高くんも幸久さんから少しもらっている。

「やっぱ雨恵さんがつくったごはん、めっちゃ美味いです」
「うけい、天才!」
「ふふ、ありがとう。たくさん食べてくれて」

 最後になってもやっぱり褒め言葉はこそばゆくて馴れなかったけど、喜んでくれてよかった。少しだけ、自分に自信がついたように思える。
 たくさんもらったお土産と僕の荷物は、一足先に実家へと送った。身軽になって、僕の身にのしかかっていた憑き物も落ちた気分だ。悩みや後悔は、すべてここに置いていってしまおう。
 夕方。僕は賢治くんに、車で街のバスセンターまで見送ってもらうことになった。みんな家の前まで見送りに出てきてくれた。

「お世話になりました。この夏は毎日ほんとに楽しかったです。ありがとうございました」
「こっちこそ雨恵さんには世話になったからねえ、自分の家だと思って、いつでも遊びに来ていいからね」

 おばあさんの言葉が嬉しい。笑ってお別れしようと思っていたのに、鼻の奥がツンとする。

「じゃあ、僕はこれで。皆さんお世話になりました」
「うけい!」

 穂高くんがぎゅっと僕の足にしがみついた。さっきまで楽しそうにしていたのに、ずっと我慢していたのかもしれない。

「まだ、帰んないで。ずっとうちにいていいよぉ……。おれも、いい子にするし……ごはんも、お手伝いするから……」
「穂高くん……」

 グスグスと鼻を鳴らす穂高くんの柔らかい髪を撫でて、僕はしゃがみ込んだ。穂高くんが僕に抱きつく。

「穂高くん、ありがとう。でも僕は帰らないと」
「やだ、やだよ……もっと、うけいとあそぶ……」

 僕もぎゅっと穂高くんを抱きしめた。こんがり焼けた肌に温かい身体。穂高くんは夏の間に少し大きくなった気がする。いろんな思い出が蘇ってきてぎゅっと僕の胸を締め付けた。僕だってずっとこの夏が続けばいいって思うけれど、季節は変わっていくから。

「僕ね、この夏休み、すごく楽しかったよ。穂高くんともいっぱい遊べて楽しかった。穂高くんはどう?」
「……たのしかった」
「よかった。おんなじだね。だからね、また遊びに来てもいい?」
「…………」
「ほら、穂高。笑ってお見送りしようねって言ったろう? お別れが寂しいなら、また遊びに来てねって雨恵くんと約束しとこ?」

 幸久さんに促されて、穂高くんはゆっくりと僕から離れた。しゃくりあげながら、小指を立てる。

「……うけい、またあそびに来てね。ぜったい来てね。やくそく」
「うん。約束」

 僕は穂高くんと指切りをした。またここに戻ってくるよ。
 名残惜しいけど、さよならだ。
 穂高くんは泣きながらも、僕が乗った車が見えなくなるまで手を振っていた。
 太陽はもう、山の向こうへ隠れようとしている。以前よりも日が短くなっていた。稲を刈り終えた田んぼの上を、赤トンボが飛び交っている。もうずっと、僕は秋の気配ばかり探している。
 街のバスセンターまで一時間弱、僕も賢治くんもあまり話さなかった。
 景色が過ぎ去っていく様子をじっと眺める。次第に田畑の姿は減っていき、高い建物が多くなってきた。ここでの出来事も、こうやって過去のものになっていく。

「はい、賢治くん」

 バスセンターの駐車場に着いてから、僕は賢治くんに小さな包みを差し出した。僕の荷物はまた一つ、少なくなった。

「開けてもいいですか?」

 僕が頷くと、賢治くんは包みに手をかけた。解かれたハンカチの中から、見慣れた箱が顔を出す。賢治くんのお弁当箱だ。
 一番初めに渡した弁当の中身は覚えていないから、賢治くんに頼まれてから一番初めに作ったおかずを詰めた。まだ料理の本を見ずに作っていたので、上手くできていなかっただろう。それでも賢治くんは喜んで食べてくれた。このお弁当が始まりだといってもいい。これから先、あの料理の本を開くときが来るだろうか。

「何弁当ですか?」
「秘密」
「開けてからのお楽しみ、ですね」

 そう言って賢治くんは優しく蓋をするように、お弁当箱の上に右手を置いた。
 いつも頑張っている賢治くんを、ずっと応援している。そんな願いを込めたお弁当。

「よかったら帰りにでも食べて」
「もちろんです。最後まで、ありがとうございます」

 賢治くんは微笑んで、軽く頭を下げた。
 その姿を、いつも見ていた笑顔を、必死に目に焼き付けようとする。
 告白するつもりはない。今の距離感が心地いいから、今の関係を壊してまで、この気持ちを伝えたいとは思わない。
 なんて、思っていたのに。
 いつからこんなずるい人間になっちゃったんだろう。
 始めは好きな人の幸せを望んでいただけなのに、気持ちを伝えられなくても、側にいるだけで幸せだったはずなのに、自分がどんどん欲深くなっているのを自覚していた。
 それも、終わり。もういいんだ。

「こちらこそ、ありがとうね」

 僕は笑った。
 次に会うときは、もっと自然に笑えると思うから。
 最後のお弁当。夏のお弁当係も、これで終わりだ。
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