あの恋人にしたい男ランキング1位の彼に溺愛されているのは、僕。

十帖

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きっと乗り越える彼となら

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「泉くん……!?」

 両手で口元を覆った奥宮夫人から、喜色めいた声が上がる。

「いず……み……」

 間近で泉の整った顔を見た瞬間、要の全身のこわばりが解けていく。やっとまともに息が吸えた気がして、要は大きく肩を上下させた。

「大丈夫だ、俺がいる」

 薬のように優しい囁きが要の耳をくすぐる。一気に世界中が色づいたように目の前が開けた。触れ合った肩から、泉の体温が要へ流れ込んでくるような気がする。優しい温度にひどく泣きたくなった。二人きりなら大人げなく泉に縋りついていたかもしれない。

 怯える要を見下ろした泉は、状況を察しているようだった。ペールブロンドの髪をさらりと揺らし、泉は快活に微笑みかける。

「〇〇テレビの奥宮会長夫人でいらっしゃいますね。マネージャーが失礼しました」

「随分とノンビリな方のようねえ、泉くんのマネージャーは」

 泉が自分を認識していたことが嬉しいのか、奥宮夫人は締まりのない顔で言った。泉は微笑を浮かべると、さっと屈みこんで要の書類を拾う。その際に「失礼」と奥宮夫人の履物を脱がせ、足を泉の膝に乗せた。

「えっ、ちょっと!?」

 夫人と竜胆が焦った声を上げる。泉は騎士のように跪いたまま言った。

「足袋が濡れていますね」

「あ、ええ……雨だったから……」

「やはりですか。実はうちのマネージャーは、奥宮夫人が来られることを事前に知って、きっと着物をお召しになっておられるだろうからと、濡れた時のために代わりの足袋を取りに行く予定だったんですよ。それが思ったより奥宮夫人が早くいらっしゃったので、出遅れたと焦り固まってしまったんだと思います。な?」

 泉に相槌を求められ、要はポカンと口を開ける。奥宮夫人が見学に来るなど寝耳に水だったので、これは泉の咄嗟の嘘だ。彼の機転に要は何度も頷いた。

 要に対しつまらないものを見るようだった奥宮夫人の目が、泉の言葉を受けて和らぐ。

「まあ、そうだったの。さすが泉くんのマネージャーね」

「……いえ、急いで取りにいってきます」

 泉が来てくれたことで呪縛から解けた要は、雨の中外に駆けだした。幸い、替えの足袋は車に積んである。奥宮夫人のためではなく、よく好んで着物を着用する佐和社長のためにであったが。

 傘もささず飛びだしたため、雨粒が鼻梁を打つ。濡れた肩にはまだ泉の力強い手の感触があり、要は濡れて重くなったパーカーの上からその箇所をなぞった。

 泉が来てくれてよかった。彼がいてくれなければ、まだあの場から動けなかったに違いない。

「やっぱり、君はオレのヒーローだ……」

 雨音に要の声がかき消される。泉が来てくれた瞬間に、安堵して心から叫びたくなった。恐れと憎悪の入り混じった醜い感情に呑まれそうになっていた心は、泉の「大丈夫だ」の一言で救われたのだ。

(嬉しいって言って、抱きつきたかった……)

 今までそんなこと、思ったことなかったのに。あの瞬間、泉の太い首に腕を回して抱きついて、抱きしめ返してほしいと思った。そしたら、世界で一番落ち着くと思った。

「何だろう、この感情……」

 両手で持て余すような、でも霧のように掴めない感情はなんだろう。

 フレームに雨粒の溜まったメガネを外し、熱くなった目元を擦る。足袋をトランクから取り出した要はポケットにねじ込み、水たまりを跳ね上げて、きた道を引き返した。

 要が建物へ戻ると、ソファにかけた奥宮夫人が泉と談笑していた。泉と一緒なのが気まずかったのか、竜胆の姿はない。

 年の割に瑞々しい奥宮夫人の手が、親密そうに泉の頬に触れている。それを見ると、心が荒むのを要は感じた。

(……? 嫌いな相手が、泉に触れてるから……?)

「くすみ一つない肌ね。本当に綺麗なお顔だわ。鼻筋が通っていて、ミステリアスなグリーンアイズ……」

 うっとりした表情で呟く奥宮夫人へ心地よく微笑み、泉は要を手招いた。我に返った要は濡れて使い物にならないメガネをパーカーの襟に差しこみ、視界を遮る濡れた前髪を掻きあげて駆け寄る。

「遅くなって申し訳ありません……」

「やだ、貴方ずぶ濡れじゃな……」

 非難めいた奥宮夫人から、それ以上の言葉は続かなかった。それどころか、夫人は尖った顎が外れそうなくらいに口を開けて要を凝視する。穴が開きそうなくらいの視線に気まずい思いをする要とは裏腹に、泉はクッと喉を震わせた。

「あの? 何か……?」

「あ、なた……本当にさっきの、泉くんのマネージャーなの……?」

 背丈はあるのに、子犬のように愛くるしい顔というアンバランスさは母性をくすぐるのだろう。瓶底メガネを外し、さらに髪を掻きあげたことで要の整った顔が露になる。

 野暮ったい要が実は水も滴るいい男であったことに驚愕し、奥宮夫人は水揚げされた魚のように口をパクパクさせた。

「その辺の俳優よりずっとお顔が整ってるじゃない……!」

 奥宮夫人は思わず要へ手を伸ばす。が、その手をやんわりと弾き、泉が悪魔のように妖しく笑った。

「当然でしょう? 要は元芸能人なんですから」

「なんですって……っ!?」

 奥宮夫人がぎょっとする横で、要も面食らった。何を言いだす気だと要は肝を冷やす。雨粒が珠を結ぶほど長い睫毛を震わせた要を、ぐいと引き寄せ、泉が膝に乗せた。

「ちょっと、泉……っ」

「本当なの? どうして芸能界を辞めたのよ、貴方泉くんに負けないくらい売れるわよきっと――――」

「アンタ、自分が逃した魚の大きさにまだ気づかないわけ?」

 詰めよった奥宮夫人へよく見えるよう、要の顎を掴んで泉が言った。濡れて芯から冷えきった要の体に、重なる泉の体温が染み渡った。

「自分が潰した才能にさ」

 泉の口調が慇懃なものから不敬に変わったことに戸惑いつつ、奥宮夫人は要の顔をマジマジと見つめる。

 零れ落ちそうな杏眼と、女性のように甘くまろやかな頬のライン。薄い唇から覗く歯並び。中性的な美貌は自己主張が薄く優しげでどこかで見た記憶がある、と奥宮夫人は頭の隅にあった記憶を掘り起こした。

 瞬間、奥宮夫人は口元を着物の袖で覆う。

「貴方まさか――――……私が打ち切らせた教育番組の子役……っ?」

 ぐっと奥歯を噛みしめ、要は泉の服を握りしめた。要の反応を見下ろし、泉は今までの好青年の皮を脱ぎ捨てる。

「やっと気づいたのかよ」

「嘘でしょう? あの子供がこんな美青年に育つなんてとても――――」

「想像できなかったってか? アンタに見る目がなかったせいで要は俺を見つけてくれたから、俺はアンタに感謝してる。でも、二度と俺たちに近寄るな」

 閃光のような怒りを宿した、ひどく低い声だった。

 奥宮夫人が二の句を告げずにいると、泉は要の膨らんだポケットから足袋を取り出し夫人に履かせる。紳士的な仕草なのに、要にはどこか脅迫めいて見えた。

「ああ、撮影はぜひ見て帰ってください。金の卵を潰したアンタと、俺を見出した要、どちらに見る目があったのかその目で確かめてほしいんでね」

 そう言うと、茫然としたままソファに座りこむ奥宮夫人を置いて泉はその場を後にした。

「……っ泉……あんなこと言ったら、君まで過去のオレみたいに干されちゃう……っ!」

 冷えと怯えから震えあがる要に、泉はどこからか調達してきたタオルを頭から被せる。泣きそうに顔を歪めた要の髪をガシガシと拭いてやりながら、泉は長い溜息を吐いた。

「干させるかよ」

「え……」

「俺はお前が見つけた光なんだろ。だったら今からの撮影で、あの女に『一泉を干すのは惜しい』と思わせてやる」

 気位の高いグリーンアイズが、力強さを帯びて言った。その双眼に映る自分は呆気に取られていて、要は不格好だがやっと笑うことができた。

「本当に、男前だな……泉は」

 大空に抱かれているような安心感をくれる泉に、要は不安な気持ちが消されていくのを感じた。泉の胸元へそっと額を寄せる。泉の肩がうろたえたように揺れるのが、額越しに伝わった。

「……っ、要?」

「ありがとう……助けてくれて」

「たまたま竜胆のスタッフが、奥宮会長が来るって話してたからな」

「そうじゃなくて」

 要は語気を強めて言った。

「幼い頃の、みじめで、泣くしかできなかったオレを掬い上げてくれてありがとう」

 視界が滲んで、要は俯いた。過去のトラウマを、今日乗り越えようと思った。泉が乗り越えさせてくれると思った。

「君のお陰だ」

 つまらないものだと芸能界からはじき出された自分が、惜しいことをしたと奥宮夫人に思わせることができた。そして、そんな自分が見つけた原石の泉が、研磨されて輝きを放ち奥宮夫人の目に止まった。

 それは要にとって、トラウマを乗り越える最大のきっかけになる。

「まだ満足するなよ要」

「え……」

「俺の演技を見せて初めて、奥宮夫人をあっと言わせられると思わないか?」

 要と目線を合わせ、泉がニヤリと笑う。

 悪戯が成功した子供のような表情に、要は確かに胸が高鳴るのを感じた。
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