夏から始まる

神崎

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誘惑

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 殴られたり罵られたりするわけではないだけに、怖いと思った。ただ父親は、不慮の事故で妻を亡くしている。だから一生を添え遂げたかったと願っても適わなかった、添い遂げることは出来るのにわざわざ別れを選んだ啓介が贅沢だと一言言った。
「……啓介は真面目だからな。人にもその真面目さを求めるんだ。だから美香子さんも息苦しかったんだよ。なのに本音を言わないし、全てを美香子さんに任せていたんだろう?」
 店は父親に少し任せた京介は、隣の「rose」にやってきていた。あとからまた仕事をするからと、カウンター席でオレンジジュースを飲んでいた。その隣には啓介がいる。啓介は酒を飲みながら、ため息を付く。
「でも信じてた。結果がでるまで、俺の子供じゃないかってずっとな。」
「だったら結果を見ても黙っていられるだろう?」
「……そんな聖人でもない。というか、お前はそんなことを言うために、店を親父に任せてきているのか?」
「んにゃ。そんなことない。あ、百合さん、同じのお代わり。」
「えぇ。ちょっと待って。」
 今日のライブは隣の町のバンドで、ギターの男がイケメンだと女性客が多い。蓮をキッチンに下げて良かった。蓮までホールにやってきていれば、更に女性客が多くなるのだから。
 それに蓮をキッチンに持ってきたのは、今日の蓮は少し不機嫌だと思ったからだ。菊子が棗の店に顔を出すという。棗の店は雑誌なんかでも載るようなちょっとした有名店だ。きっと終電に間に合わない。
 そうすれば笑うのは棗なのだろう。それが気にくわないから、表情にすぐ現れる蓮をホールに持って来たくなかった。だが予想に反して、蓮は上機嫌だった。きっと菊子と何かあったのだろう。単純な男だ。
 京介はポケットから煙草を取り出して、それを口にくわえた。するとそのとき店のドアが開いて、入ってきた女に手を挙げる。
「こっち。こっち。」
 グレーのスーツを着た女性は、黒の通勤バッグを持っていてOLにも見えた。
「京介何なの?急に呼び出して。」
 京介の隣に座り、その向こうに座っている啓介に頭を下げる。
「初めまして。山口亜希子です。」
「吾川啓介です。あの……京介の弟です。」
「あー。話には聞いてる。何?京介、紹介って弟さんのこと?」
「そう。」
 亜希子はそういって少し笑う。OL風にはしているが、化粧のにおいはあまりしない。長い髪は下ろしているが、前髪だけピンで留めているし、あまり飾らない人なのだろう。
「何だよ。兄貴。」
「啓介。亜希子は俺の大学の時の同期でな、今は学習塾の経営者。」
「学習塾?」
「そうよ。小さいけど、小学生から高校生まで幅広く教えてるの。あ、すいません。あたしジンライムください。」
 百合は手を動かしながら、メモにオーダーをメモする。
「はい。」
「数学の先生だって言ってたわね。」
「はい。」
「うちで働く気はない?」
「え?」
 すると京介はにやっとして啓介をみる。
「小学生の算数とか啓介が教えきれるのか?」
「数学じゃなくても良いわ。英語とか、国語とかでも良いし。とりあえず数学の教師が今度産休にはいるし、そのまま退職するかもしれないって言ってたから今、急募かけてんのよ。」
「でも……俺はけちが付いてるから……。」
「あー。教え子に手を出したってヤツ?そんなのありふれてるから大丈夫。あたしだって最初の結婚は教え子なんだから。」
「え?」
 その言葉に京介の手が止まった。
「はい。オレンジジュースとジンライム。」
 百合の手からアルコールが手渡され、とりあえず三人はグラスをあわせた。
「だいたい、無理があるのよねぇ。独身で、大学卒業したてだったら高校生との歳の差なんて四、五個しかないのよ。それで密室なんかいたら、手を出さないでいられますかって。」
「亜希子。そんなことしてたのか?」
 呆れたようにオレンジジュースに口を付ける。しかし亜希子は笑いながら言った。
「それに理性が効くのが教師よ。でもそれが出来ない人も中にはいるわよねぇ。」
 啓介の表情が少し暗くなった。美香子の両親に離婚を告げたときと同じことを言っていたからだ。理性が効かなかった啓介も悪いのだと、教師をしていた両親が言う言葉は心に刺さったのを思い出す。
「根は真面目なんだよ。だから内緒でつきあうこともしなかったし、正直に言った。」
「で、その女子生徒とはもう付き合いはないの?」
 酒を口に運んで亜希子は啓介に聞く。しかし啓介は首を横に振った。その様子に京介が驚いたように啓介をみる。
「何?まだあるの?」
「……あっちのお母さんにも挨拶した。今更離れられない。」
 本当に真面目な人なのだ。もしかしたらその女子生徒と一緒になるとかそういうことも考えているのかもしれない。
「OK。わかった。それも含めてで良いわ。正式にうちで働かない?」
「え?亜希子。本当に良いのか?」
「良いわよ。真面目そうだし、こっちは教えられる人が今すぐ欲しいもの。産休をとる教師だって復帰するかわからないし。だったら男の人の方が良いわ。」
「わかりました。今度その塾を見せてもらって良いですか?」
「授業風景?それとも教室?」
「両方です。」
「教室だけなら今からでも見せれるけど、どうする?場所も知っておいた方が良いでしょ?」
 亜希子は昔から行動力のある女性だった。言い出したらすぐ行動する。さっぱりしていて、隠し事はしない。つきあいやすい女性だと思っていた。
「でもちょっと待ってね。まだジンライム残ってるし。」
 それから少し話をした。
 亜希子は三回結婚して三回とも別れている。仕事と子育てしかしていなくて、旦那のことを見てやれなかったと言っていた。耳が痛い話だと思う。自分だって仕事しか見ていなかった。だから美香子は他の男に転んだのだ。そして自分も梅子に転んだ。
 負のループを断ち切りたかった。だからこの話は悪くない話なのかもしれない。
 「rose」を出ると、京介は店に戻っていった。そして亜希子と啓介は歩いて繁華街を出て行く。学習塾は町中のアーケードの中の二階らしい。
「子供さんは誰か見てるんですか?」
「もう高校生だもの。一人で何でもしてるわ。」
 京介の同期と言うことは、それなりの歳なのだろうと思っていたがまさか高校生の子供がいるとは思ってなかった。少し驚いたように亜希子を見ると、亜希子は少し笑っていった。
「子供はね、親がいなければいないなりに育つの。でも毎日顔は合わせている。そのときに、あーなんか悩んでるなぁ、とか、学校に行きたくないんだろうなぁ、とか、思うこともあるけど、子供が望まない限りは手を差し出したりしないの。子供は子供なりに解決の糸口を見つけるから。」
 思えば父親もそうだったのかもしれない。口数は多くない父親だから、啓介が離婚すると言ったときも反対はしなかった。自分で選んだ道なのだからと思っていたのかもしれない。
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